◇タバラン攻防戦 Ⅳ
とてつもなく長いです
「あっ、お二人とも、こちらです」
「先に注文しといたよ」
リリス達三人は酒場の隅の方の席を陣取ったらしく、シンとフィリップが階段を降りてくるのが見えると手を振って合図する。
下の酒場は昼間の静寂が嘘のように結構な賑わいを見せていた。屈強な男達が互いに酒を酌み交わし、辺りは歓声や笑い声がしきりに飛び交う。
「むさっ苦しいことこの上ねぇな」
「……おそい」
シンは辺りを見回し、げんなりと顔をしかめて席に着いた。恐らくラウンジか何処かから持ってきたのであろう机は丸い形で、五人は正五角形を描くように座っている。
詫びの一言もなく席に着いた二人に、ルーナは机に手を付き、頬を膨らませ、椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねて怒る。ルーナの向かい側に座るフィリップは困ったように頬を掻くと慌てて弁明した。
「ごめんごめん。ちょっと急な用が出来ちゃって……」
「謝らないで下さい。急を要するということは、それほど大事な用事なのでしょう?それは仕方のないことです。それで、用事の方は?」
「うん。もう済んだから大丈夫だよ」
フィリップの言葉に、リリスは何か言いたそうに視線を少しさ迷わせたが、すぐにそうですかと胸を撫で下ろし、赤面しながらしゅんと縮こまる。
「私ったら、はしゃいでばかりで……。お役に立てなくてごめんなさい」
「そんなことないよ、別にアテにしてないし。ああでも、今のところフランよりは役立ってるから大丈夫」
フィリップは微笑みながら平然と毒を吐き散らした。
「おっと、手が滑ったぁッ!」
周りがどんなにうるさかろうと、自他に関わらず悪口というものは自然と耳に入るもので、間髪入れずにフランが机の隅に置かれたスプーンやフォークなどの食器入れ用の籠から素早くナイフを取り出し、フィリップに向かって投げる。
フランの右隣――ちょうどフランとフィリップの間に座っていたシンは、ため息を吐きながらフランが投擲したナイフを片手で掴んで籠に放った。金属同士が当たった時の軽やかな高い音が鳴る。フランは悔しそうに地団駄を踏んだ。
「お待ちどおさんッ! ……何か一触即発な雰囲気だな。腹減って機嫌でも損ねたか? ほらほら、俺の料理でも食って元気出しな!」
――それから数分後。器用にも片手で皿を三枚ずつ持ちながらバーンが料理を運んで来た。
昼間はずっとカウンターに突っ伏して酒を煽っていたので全貌は分からなかったが、バーンは意外にも背が高く、筋肉質で、着ているシャツやパンツはサイズがないのか体の大きさより一回り小さいもので体の線がくっきりと浮かび上がっている。禿髪は白のタオルで覆われ、昼間の飲んだくれとしての印象は彼処へと消え、まさに居酒屋の経営者という風貌である。
一品食べ終わるごとに次の料理が運ばれてくるので、フィリップは「コース料理頼んだの?」と笑みを引き攣らせながらリリス達三人を見回す。勿論、普通の居酒屋にコース料理などある訳がなく、嫌味である。ずれた眼鏡を中指で上に押し上げ、フィリップは左斜めに座っている元凶――フランに尋ねた。
「ず、随分たくさん頼んだね?」
「いーじゃん。全部食べきれば問題ないでしょ?」
フランは先程の恨みもあってか悪びれなく涼しい顔で運ばれてきた料理を食べはじめた。シンも我関せずという表情で一人黙々と食べはじめていたが、ふと籠の隣に立て掛けられた品書きを手に取ると呟く。
「やっぱ、土地が枯れてるだけあって年々野菜の量が減ってんな」
「これでも良い方だ。此処でも野菜はかなり仕入れにくくなってる。あと数年したら完全に献立から消えるだろうよ」
などとシンはバーンと二言三言言葉を交わすと、急に声を潜めてボソボソと何かを言い合う。魔族故、優れた聴覚を持つリリスでも、二人の会話を聞きとろうといくら耳を澄ませても周りの音と混ざって意味不明瞭な雑音になってしまう。唇の動きを読もうにも早口なので何を言っているか全く分からない。不審に思い首を傾げていると、向かいの席に座っているフランと目が合った。
フランもまた椅子の上であぐらをかきながら何気ない素振りで二人の会話を盗み聞こうとしていた様で、結局よく聞き取れなかったらしく、短く舌打ちし、リリスと目が合うと小さく肩を竦めて嘆息した。
フィリップは下に降りて来た時から何処となくよそよそしく、先程も急用と言っていたがその内容は明かさなかった。シンはタバランに、というより宿屋に来てから常に気を張っているというか、妙にピリピリしている。
――ルベアを出て早二日目の夕方。二人にしてみれば私はただの代人、もとい人質みたいなものですし、フランやルーナは昨日今日で新たに加わった道連れ。信用しろとまでは言いませんが、少しは頼ってくれてもいい気がするのですが……。
シンは周りから頼られることはあっても自分から誰かを頼るということはあまりしなさそうな性格だし、フィリップは人の良さそうな(実際良いのかもしれないが)顔をしているが、それが上辺だけのものであるというのが毒舌を抜きにして言葉や態度の節々から感じられる。フランからも時折そのような節を感じるので、何だか悲しくなる。
――単に、私が甘すぎるのでしょうか?
シンがこの心の声を聞いていたなら絶対に鼻で笑って一蹴されそうだなとか、そんなことを思いながらリリスは静かにため息を零し、ステーキの付け合わせの玉葱の炒めものを口に運ぶ。ちらりと周りに目をやれば、フランとルーナはナイフやフォークを使わず、そのまま手づかみでステーキにかぶりついていた。帝国の王子だというフィリップはともかく、意外にもシンが行儀よく食べていることにリリスは驚く。思わず凝視していると、リリスの視線に気付いたシンが切った肉を口に運ぶ手を止め、見るからに不機嫌そうな仏頂面でリリスを見た。
「何だよ」
「い、いえ、外ではちゃんとするんだなぁと思いまして……」
他に言いようがあるはずなのに口をついて出たのは火に油を注ぐ発言で。案の定、シンは眉間にシワを寄せてリリスを睨む。
「あぁ? 喧嘩売ってんのか?」
「シン」
フィリップがわざとらしく咳ばらいをして牽制の意を込めて名前を呼ぶと、シンはため息を吐いて席を立った。
「へいへい。ちょっくら便所行ってくる」
遠ざかるシンの背中を見送ってからフィリップは申し訳なさそうにリリスに笑いかける。
「ごめんね、リリス。シン、あまりジロジロ見られるのは好きじゃないんだ。それに今はちょっと気が立ってて……」
「い、いえ……。私の方こそ不躾でした。気を害するのは当然です。ねぇ、フィリップ。シンは勇者に選ばれてからは帝国で暮らしていたのですよね? やはり、作法とかを仕込まれたのでしょうか?」
「え? いや、それは……」
「フィリップ、それ、いらないなら食べていい?」
「うん、いいけど……」
フランに横槍を入れられたものの、絶対にないと声に出さずフィリップが呟いたのを、彼の口の動きを見てリリスは確信した。
「へへっ、ありがと」
フランはフィリップの一口も手をつけていないステーキを指差し、許可が下りると満面の笑みを浮かべて即座にフォークを突き刺し、空になった自分の皿に移す。
あまり食が進んでいないフィリップを見兼ねてルーナが心配そうに小首を傾げて問いかけた。
「お腹すいてないの?」
「無いわけじゃないけど、疲れが勝ってあんまり食べたいって気持ちにならなくて」
「シン達が買い物行ってる間、ずっと寝てたじゃん」
フィリップは疲れの滲んだ顔で困ったように微笑んだ。疲れもあってか、下に降りてきてからずっと困り顔しか浮かべていないような気がする。フランといえば、先程の肉の恩は何処へやら。ベッドから退かされたことも根に持っているのか、喧嘩腰でフィリップに食ってかかる。仲裁役のシンは席を外しているのでどうするべきかとリリスが思い悩んでいると、
「金髪のお嬢さん、そう熱り立ちなさんな。折角の綺麗な顔が台なしだ。麗しいお嬢さん方の為に俺が腕によりをかけて作った特製デザートでも食べて機嫌直してくれ」
「白い!ぷるんぷるんしてる!」
「プリンってやつ?」
「プリンじゃなくてババロアだ」
空いた皿を下げ、新たににデザートを運んできたバーンが上手いこと気を回してくれた。
バーンはそのままキョロキョロと辺りを見回すと、一旦皿を机に置く。
「何だ、あの黒髪のは席外してんのか。まぁ、別に誰でもいいから構わねぇけどよ」
「何か用ですか?」
キョトンとしてバーンを見つめるフィリップに、バーンは脇に挟んだ帳簿とペンを差し出す。
「来た時に記名頼んだだろ? 別に偽名使おうがなんだろうが書いてくれれば文句ねぇんだが、読めねぇ字を書かれても困る。悪いが、もう一度書いてくれねぇか」
フィリップは、はぁ、と気の抜けた返事をしてそれらを受け取ると、パラパラと帳簿の貢を捲る。リリス達も興味津々に帳簿を覗き込んだ。
――桐谷 秦
帳簿の四ページ目の一番最初の欄にシンが書いたと思しき名前が見慣れぬ文字で書き記してあった。
「字は綺麗ですね。これは……何て書いてあるのでしょう?」
「シンの名前だよ。左が姓で右が名前。前に教えてもらったんだ。"かんじ"っていう文字なんだって」
「順番逆じゃない?」
「変なのー」
「何がだ?」
用を足して帰って来たシンが怪訝な表情でバーンとフィリップ達を交互に見る。バーンはシンの姿を認めると、腕を組んだまま呆れた表情で帳簿に視線を移した。
「おう、お前さんか。何処の文字だか知らねぇがこれじゃ読めねぇよ。ちゃんと書けや」
「……あ、わりぃ」
フィリップから差し出された帳簿を見て、シンはボリボリと頭を掻き、二重線を引いて前の記述を消すと下の欄に書き直す。
――シン・キリタニ
「シン。そういうとこ素直なのは感心するけど、出来れば偽名使って。それじゃあ分かる人には分かっちゃうから」
「あぁ、それもそうだな」
フィリップは苦笑しながら指摘する。シンは素直に頷くと、前と同様に二重線を引いて記述を消し、その下の新しい欄に書き直した。
――フライド・マッシュポテト
「よしっと……」
(フライド・マッシュポテト!!!?)
天然なのか馬鹿なのか。驚愕のあまり言葉を失う三人に、シンは何処か満足そうに頷く。
「これで良いか?」
「あ、あぁ……。逆に聞くが、これで良いのか?」
「ん? 別に問題ねぇだろ。人名っぽくね?」
「お前さんが良いなら、俺は何も言わねぇ」
バーンはシンから帳簿を受け取ると、先程と同様に脇に挟んだ。それから十枚以上重ねた空き皿を片手ずつ持って店のカウンター奥の厨房へと戻って行く。それを見届けると、シンは椅子の前脚を浮かしてバランスをとって遊びながらリリス達に呼び掛ける。
「お前等、デザート食い終わったら部屋戻んぞ」
「はーい」
フランはデザートの効果とシンの言うことだけあって、上機嫌で返事をする。
「何だよ、ちび。食わないのか?」
スプーンを握ったまま一向に手をつけようとしないルーナをシンは不思議思い尋ねると、ルーナは意を決したように一口すくい、身を乗り出してババロアをすくったスプーンをシンの方へ突き出す。
「ぼーくん、あーんして」
「お前のなんだから、お前が食え」
そうシンが素気なく返すと、ルーナは無言のまま訴えかけるように目を潤ませしゃくり上げた。スプーンを持つ手がぷるぷると震え、ババロアがスプーンからこぼれ落ちそうになる。
「あ、シン、泣かせた」
あーあとため息を吐くフィリップを睨んで黙らせると、シンはボリボリと頭を掻きながらはたから見れば挙動不審と思われるくらいの辺りを何回も見回し、やがてルーナの方に向き直った。
「分かった、分かったから泣くな! ……あ、あ~ん」
少し身を乗り出して指で優しくルーナの目尻に浮かぶ涙を拭うと、口を開けた。ルーナは顔を綻ばせ、スプーンをシンの口に運ぶ。
「おいしい?」
「美味い」
温かい目でその様子を見守っているフィリップ達と視線を合わせないように斜め下を見ながらシンは心なしか顔を赤らめババロアを咀嚼する。
「じゃあ、次はボクが……」
「あと三十秒以内に食い終われ! 俺は先に戻る!」
面白がって食べさせようとするフランに舌打ちし、シンは言うだけ言って勢いよく立ち上がるとズカズカと大股で階段の方へと歩いていく。リリス達は互いに顔を見合わせてくすくす笑いながら慌てて後を追った。
「あー、食べた食べた。シン達が買い物行ってる間に風呂は入ったし、あとは寝るだけだ」
「フラン、食ってすぐに寝ると太るぞ」
「日頃動いてるから平気だも〜ん」
意地悪く言うシンに、フランは小気味よく笑いながら返す。リリスはルーナと手を繋ぎながら、一番後ろを歩くフィリップの方を何度も振り返る。というのも、フィリップも既に限界を迎えているらしく、今にも歩きながら寝てしまいそうな勢いで、こくりこくりとしながらも辛うじて意識を保って歩いているという感じなのだ。階段では何度も蹴つまずき、後ろにひっくり返りそうになると慌てて手摺りに掴まっては胸を撫で下ろしていた。
「それじゃあ、みんな、また明日。おやすみなさい」
「はい。二人とも、おやすみなさい。良い夢を」
部屋の前まで来ると互いに挨拶を済まし、部屋に入る。フィリップは最後の気力を振り絞ってベッドまで到達するとそのまま倒れ込むように寝てしまった。シンは部屋の隅に置いた鞄から寝袋と衣類を引っ張り出すと寝袋は床に敷き、替えの衣服を抱えながらフィリップに布団をかけ、部屋を後にする。
風呂は階段を降りてカウンターを横切った先にあり、バーンに断りを入れると浴室前の収納棚に脱いだ服と替えの服を放り込んで中に入った。
石鹸で体を洗ってから木製の湯桶で泡を洗い流し、升を彷彿とさせる浴槽にどっぷりと肩まで浸かった。何処かにある源泉から引いてきているのか、湯は乳白色で魔法の力なのかは分からないが、浴槽に並々と張っている湯の温度は思いの外熱い。
「あー……生き返るわ~」
「まだ死んでないよ?」
シンが風呂に入る前に既に潜水していたらしく、ぷはぁと湯からルーナが顔を出す。お前は忍者かとか、いつから潜ってたんだとかどうでもいいのかそうでないのかあやふやなことが一瞬にしてシンの頭の中を駆け巡ったが、まず最初に口から出てきたのは悲鳴だった。
「なぁぁぁぁ!!?」
尻尾を踏まれた猫のような情けない声を上げながら後ずさるシンをルーナは不思議そうに見る。
「な、何でお前……」
「ん。リーズが一緒にお風呂に入ろうっていうから先に来た」
「あのくそハゲ! これが狙いか!」
風呂場が一つ、加えて暖簾がないという時点で気付くべきだったが、こうなっては後悔先に立たず。シンは怒りでブルブルと拳を震わせるが、曇りガラスの引き戸に浮かんだシルエットを見て冷や水を浴びせられたように全身の血がさっと引くのを感じだ。
「ルゥー? 何処ですかー?」
「ふろー」
「もう…。先に行ったら駄目ですよって言ったのに…」
リリスはそんなことをぶつぶつと呟きながら服を脱ぎはじめる。ガラス戸越しのシルエットでそれを確認したシンは本気で慌てふためいて立ち上がったり浸かったりを繰り返しながら頭を抱えた。
「ちょっ、待て…!あぁ、くそ!状況を説明しようがねぇ…。だが、このままでは確実にヤバい」
故意ではなかったにしろ、前にもルベアの屋敷で似たような経験――言うなれば前科がある。だからこそ、ここであのような失態を曝すのは二度とごめんだった。とはいえ、そうも言ってられないらしい。
手を伸ばして桶を掴むと隠すべきところを隠しながら立ち上がり、引き戸に近付く。
「貧乳、これは罠だ」
「……その声、シンですか?」
やや間があってから怖ず怖ずとリリスが聞き返してくる。
「あぁ。どうやらこの宿屋は混浴らしい。俺が今から出るから、真っ裸見られたくなけりゃ服に着替えてくれ」
「混浴……」
聞き慣れぬ言葉に戸の向こうで首を傾げているリリスに、シンはため息を吐きながら説明した。
「男女が一緒の風呂に入ることだ」
「わ、分かりました……! じゅっ、重大な情報を、ど、どうもありがとうございます」
「それはあれか?俺が今から真っ裸で出てくることか?」
「混浴です!!」
ガンッと音がして戸が揺れる。シンは口の端を吊り上げて笑みを浮かべながらリリスに向かって「風邪引いちまうから急げよー」と冷やかしているが、心の中では何とか平然を装うのに苦労していた。
****
「あ゛ー……。褒美なんだか罰なんだか分かんねーよ……」
疲れを取る為に入ったはずなのにどっと疲れが増した気がしてならない。風呂から出て部屋に戻り、少し仮眠をとろうと寝袋に入ると、生暖かいものが足先に触れた。何だと訝しく思いながら目を凝らすと、青緑色の瞳が暗闇の中で光り輝く。
「くそっ、どいつもこいつも心臓に悪い……」
「どう? びっくりした?」
苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべて吐き捨てるシンをよそに、笑い声を噛み殺しながらフランがもごもごと布団からはい出て来た。金髪が暗闇の中に僅かな光を点す。
「ったく、びっくりした? じゃねーよ。お前はあいつ等の護衛担当だ」
「一人じゃ寝られないんだもん」
「何言ってんだ。それこそ貧乳とかチビがいるだろ」
フランは寝袋から出る気はないらしいので、仕方なく寝返りを打ってシンはフランに背を向ける。
「シンの雰囲気は、何処となくモロクに似てるんだ。だからシンの隣が一番落ち着く」
安堵に満ちた声色でフランは言い、ギュッとシンの背中にしがみつく。シンはやれやれと言わんばかりの深いため息を吐いた。
「――自立しろ。モロクも俺も、いつまでもお前の子守は出来ねぇんだからよ」
「分かってる」
「あと、夜の男は基本的に狼だ。金輪際、寝床には絶対に入って来るな」
「えー。けど、こういうの男冥利に尽きるんじゃないの?」
「人が痛い目見るぞって忠告してんだ。素直に聞け」
ふくよかな胸をさりげなくシンの背中に押し付けながら、はーい、と素直に返事をしてフランは意地悪く微笑み、二の腕に力を込める。シンは一連のことがあったためすっかり疲れ切ってしまい、何も言わなかったが、しばらくして思い立ったように口を開いた。
「なぁ、フラン。お前一人が生き残ったからって変に罪悪感を感じる必要はねぇんだ。気持ちは分かるが、運が良かった程度に割り切っとかねぇと、持たねぇぞ。死人に口無し、夢は夢だ。もし、夢であいつ等が恨み言を言うなら、それはお前自身の心の声だ。だから、気にすんな」
「……うん。ありがと、シン」
柔らかな口調でそう呟くように言ってフランはシンの背中に顔を埋めた。やがて安らかな寝息が背中越しに伝わってくる。どぎまぎとしながらシンはフランの抱擁を解くと寝袋からはい出た。
「これじゃ寝れねぇし、有らぬ誤解を受けるっつーの」
シンは今日一番の深いため息を吐くと、窓辺に腰掛けてタバランの街の様子を眺めていた。
それからどれほどの時間が経過したのか。意識の片隅で敵襲を知らせる鐘の音が聞こえて来たような気がしたので、はっと目を覚まして窓の外を見ると空が赤く染まっていた。一瞬、夢かと思ったが、夜明けとは違う血を零したような赤い色の空が炎を反射したものであると気付く。
――始まったか……。
神聖ストラ共和国によるタバラン領土奪取戦争。各国が互いに牽制し合い保ってきた和平の均衡が、今この瞬間、ストラの独断により崩れ去ったのだ。
「ふぁ~……。何この鐘の音……。すごく煩いんだけど」
両耳を押さえながらのそのそとフランが起き上がり、シンの隣に立つ。
「敵襲を知らせる警鐘だ」
「敵襲……?」
「シン!フランが…」
怪訝な表情で言うフランの言葉を遮り、動揺と恐怖を滲ませた表情を浮かべたリリスがまだ眠っているルーナを抱えてドアを開け、倒れ込むように部屋の中に入って来る。大層慌てた様子で、いませんと言いかけて、リリスの視線はシンの隣に立つフランに注がれた。言葉を失いドアの前で棒立ちになっているリリスにフランはえへへと両手を合わせて謝った。シンはリリスとルーナをつぶさに観察すると大きく頷く。
「よし、二人とも怪我はなさそうだな。早速で悪いがちょっと手伝え。見ての通りの有様だ。正門に近い此処も直に軍が押し寄せてくる」
「ぐ、軍って……。そんな、一体どういうことですか?」
平然と状況を説明するシンに、リリスは視線をさ迷わせ早口で尋ねた。どうやらリリスは恐慌状態に陥っているようで、床が軋む音や下から物音が聞こえてくる度にビクリと肩を震わせている。今までこういった争いとは無縁の環境で生活をしていたのだ。まぁ無理もない話である。
その時、カンカンッと窓ガラスが叩かれる音がして、未だに寝ているルーナとフィリップを除く全員の視線が窓に注がれる。見れば、一羽の鳥が鋭く尖った嘴で窓ガラスを叩いていた。
「夜鷹だ。森が近いから、こっちまで飛んで来るのかな」
「ん……」
夜鷹の金色の瞳がルーナを捉えると、ぴくりとルーナの体が震え、うっすらと目を開ける。すると夜鷹は驚いたように急にバサバサと翼を羽ばたかせて赤い空の彼方へと飛び去って行った。
「あぁ、ごめんなさい。起こしてしまいましたね」
申し訳なさそうに謝るリリスに、ルーナはふるふると首を振って否定する。寝起きのぼんやりとした表情のままルーナはシンを見ると、舌足らずな口調で裏門の方を指差す。
「シン、街の様子、見てきたよ。裏門からも敵が来てる」
「お前、知ってたのか。……ありがとよ、助かった」
ルーナの言葉にシンは目を見張りながらルーナの頭を優しく撫でた。
「夜鷹なんて、よく見つけたね?」
「ん。おふろから上がって部屋に戻ろうとした時、下にいた人が連れてたから、借りた」
「そんな人居たっけ?」
「いたから借りた」
「とにかく、知っていたなら教えて下されば私達だって……」
何かお手伝いが出来たかもしれないのにと強がるリリスの言葉を制し、シンはやれやれと肩を竦める。
「苦情は後で聞く。町民C、起きろ。始まった」
「う~ん……。どんな感じ?」
「予想通り、裏門からも侵入されてる。他に出口がないか聞いてみたが、残念ながら正門と裏門の二つだけだそうだ」
フィリップは、またしてもう~んと聞いているのかそうでないのかどっちつかずの生返事をして、寝ぼけ眼を擦りながらベッドの下に置いた自分の鞄から例の地図を取り出し、嘆息を漏らす。
「隠し通路みたいなのがあるかとも思ったんだけど、流石にないか……」
「しかし、正門からの突破は分かりますが、裏門側はガーナ領のはずです」
「驚くことでもねぇだろ。何処の領土だろうが、関所や壁とかで仕切りされてる訳じゃないからな。ましてや、ガーナや軍国は大した魔法は使えない。他国を阻む魔法や結界を構築出来てりゃ、こうはなってねぇよ。まぁ、結界や魔法が使えたとしても近隣諸国がしてないことをやるとも思えないが」
「何で?」
「そりゃ、他国の兵士とかお偉いさんが来た時に領土侵犯っていうこじつけが出来るからな。実際、」
「そんなことより、裏門からも侵入されているということは、居住区の住民の皆さんが……」
はっとして踵を返し居住区に向かおうとするリリスの肩をシンが掴んで止める。
「大丈夫だ。バーン――宿屋のオヤジに聞いたが、家屋はほとんどもぬけの殻らしい。人が異様に少ねぇのは、ストラの包囲網が完成する前にどっかに亡命したからだそうだ。奴隷を買い集めている奴らは、大方逃げ遅れたんだろうな。自分を守るために奴隷を盾にする腹積もりなのかもしれねぇけど」
「強行突破してトンズラしちゃう?」
瞳を光らせながらフランが小首を傾げてシンに問いかける。それを聞いたリリスがフランを糾弾しようと口を開くより先にシンがいいやと首を振った。
「フランの言うことも一理あるが、正直、敵の戦力がどれほどのものか見当もつかねぇ。かと言って捕虜になる訳にもいかないからな」
「帝国の者――それも第四王子とその連れだと分かったらタダじゃ済まないよ。帝国と神聖国は相当仲悪いからね」
「向こうがお前を王子だと認知しているかどうかで変わるけど、なっ!」
意地悪く笑うシンをフィリップは無言で足を踏んで黙らせる。
「それで、私達は何をすれば良いのですか?」
「僕とリリスとルゥは怪我人の手当てと此処の防衛に徹するから、シンとフランはストラ軍の撃退に専念して」
「了解」
フィリップの言葉にシンは静かに頷き、フランは無言のまま舌なめずりして武器に手をかけた。
「わ、私も行きます! 攻撃魔法も使えますし、魔族ですから人間に絶対遅れはとりません!」
「お前なぁ……」
シンが口を開き、何かを言おうとしたのをフィリップが制し、人差し指の指先をちょんちょんと合わせながら申し訳なさそうに謝る。
「ご、ごめん、リリス……。君の戦闘能力は確かに二人に負けず劣らずだよ。でも、情けない話だけど、君が抜けるとなると、僕等丸腰も同然なんだ…」
「加えて、こいつが死ぬと俺も巻き添えを食らう」
フィリップの言い分にシンも納得したように大きく頷いてフィリップの肩をぽんっと叩きながら平然と言ってのける。
「そうなの? じゃあ、リリスがいないと駄目じゃん。こいつ、ニコラスが言ってたけど攻撃魔法使えないみたいだし、ルゥを戦わせる訳にもいかないし」
「ある意味、俺等より重要な仕事だ。お前に任せるのは心許ないが、他にいねぇしな。まっ、頑張れよ」
ぽんっとリリスの肩を叩き、シンは部屋を飛び出し、下の酒場へ向かう。比較的正門に近い場所に建てられた宿屋故、既にストラの軍と交戦が始まっていた。宿屋の入口は机や椅子で作られたバリケードで塞がれ、先程酒を酌み交わしていた男連中がそれを力付くで押さえている。時折下から聞こえてくる物音はバリケードを壊そうと兵士が体当たりしている音のようだ。シンの後に続いてそれを見たフランは感心したように呟く。
「結構な量飲んでたと思ったけど、案外酔ってないんだね」
「感心してる場合か。さっさと行くぞ。おい、バーン! ストラの奴らをどんな手を使っても良いから全部街の外に追い出せ!後は俺達が何とかしてやるッ! あと、三人に此処の援護を任せたから好きに使え!」
「怪我人は一旦、下がってください! こちらで治癒魔法を施します!」
階段を駆け降りながら辺りの騒音に負けじとシンは声を張り上げてバーンに呼び掛けた。シンが言い終わるやいなやリリスも声の限りに叫ぶ。酒場に集まったタバラン防衛有志の住民達とバリケードを押さえていたバーンはシン達の方を振り向き、意外そうに目を丸くすると鼻頭を指で擦りながら頼もしそうに笑う。
「へっ……、そいつは頼もしい。此処は俺等に任せろ! 裏門の方が手薄だからお前はそっちの応援を頼んだ! 出ていくなら裏口からにしろよ! 裏口はカウンター奥の厨房にある!」
「それじゃあ二人とも、精々頑張って!」
「精々は余計……だッ!」
シンとフランはカウンターを飛び越え、厨房奥にある裏口の扉を蹴り破る。扉の前で突入準備をしていたストラの兵士二人が巻き添えを食らい、扉の下敷きになって動けずにもがく。周りの兵士が直ぐさま中に入ろうと押し寄せて来るも、フランが蹴りで一掃した。
「思ったより少ない気がするが、油断は禁物だな。フラン、援護を頼む。前の敵は俺がやる。後ろは任せた」
「しゃあっ! こうなったら徹底的にやる!あの平ボンボンめ、人を虚仮にしやがって! 見てろよ、コンチクショー」
私憤に燃えるフランは一気に跳躍し、屋根の上に降り立つと屋根伝いを駆け、シンに合わせて並走する。
「教祖様の御心を踏みにじる異教の輩め、死ねッ!」
「お前がな」
遭遇する度にそう叫んで突っ込んで来るストラの兵士達をシンは哀れみの目で見つめながら容赦なく斬り伏せる。これまで遭遇してきた小隊から推測するに、今回タバランを攻め込んでいるストラの軍隊はどうやら五人から十人ばかりの少数編成で行動しているらしい。しかし、その編成にシンは疑問を覚えた。
――タバランはそれなりに規模のある街だが、ほぼ一本道と言っていい。少数編成は広範囲の索敵の際にはうってつけだが、今回ばかりは大群で押し寄せて一気に畳み掛けた方が得策のはずだ。
領土が森で、開拓の為に燃やすというならまだ分かるが、そうではない領土を略奪するつもりなら此処までする必要はないだろう。
瓦礫の山と化した店と火の海と形容しても差し支えないほどに燃え盛る街を見て、シンはそう確信した。
「ったく、大分視界が悪くなってきやがったな……。フラン、間違っても煙吸い込むんじゃねぇぞ!」
ポケットから布切れを引っ張り出すと、それで口と鼻を覆い、頭の後ろでしっかりと結ぶ。煙で目が痛むため、細目になりながらシンはフランに向かって叫んだ。正直、姿は見えないが気配は感じるので居るはずだ。上の方が煙の被害を受ける。ましてやフランは人一倍感覚が鋭いのだから、相当なダメージを被るだろう。
「大丈夫だって! シンの方こそ、視界が利かないからって迷子にならないでよ!」
「上だ、上にもいるぞッ! ……がはっ!」
正門から駆けて来た十人ばかりの小隊がフランの方を指差し銃を構えたが、雨のように降り注ぐ銃弾が心臓を貫き、全ての兵士の息の根を止めた。
「あまり連射すんなよ。弾がもったいない。拾う暇なんかねぇぞ」
「大丈夫だって。ボクの魔力を撃ち出してるだけだから。弾は使ってない。それ用の銃じゃないから使いすぎると壊れるけど」
拳銃から出る硝煙を蝋燭の炎を消すかのように息を吹き掛けフランはトリガーに指をかけ、くるりと銃を一回転させる。
そうこうして観光区を突切り、タバランの中枢商業区に当たる大通りに到着した。正門と裏門からの同時侵入なら合流地点は間違いなく此処のはずである。
ヒヒィィィン……と近くで馬の嘶きが聞こえたのでそちらに目をやれば、丁度大型の馬車が燃え盛る炎目掛けて走っていくところだった。揺れる馬車の中から鎖同士がぶつかり合う涼やかな金属音が聞こえてくる。
「奇襲を行った理由は領土というより奴隷目当てか」
御者台にはストラの鎧を纏う兵士が手綱を取っており、馬車全体に何か結界か魔法かを施しているらしく、蹄が地面を蹴る音が段々と遠ざかって行く。
馬車がいた場所には、代わりに背丈と同じくらいの丸みを帯びた穂先の矛と円形の盾を携えた兵士が一人佇み、馬車を見送るように炎をじっと見つめていた。シン達の存在に気付いているようだったが、歯牙にもかけていない様子である。
「シン、こいつ……」
「あぁ、分かってる。こいつは……」
銃を構え、警戒するフランに、神妙な顔つきでシンも頷き返しながら言い放った。
「――女だ」
次回もこれくらい長くなるかもしれません