#070「異常な愛情」
「私、ずっとシトレイ君のことが好きでした」
「えっ」
士官学校卒業の日。
式典が終わった後、俺はある女子生徒に校舎裏へと呼び出された。
今、目の前にいるのは同学年だが、別のクラスに所属する女子生徒だ。
同じ学年だったから顔は見知っていたが、名前までは知らない。話すのは卒業を迎えた今日が初めて。
そんな、これまであまり接点のなかった生徒である。
「君が?
私を?
何で?」
「何でって……カッコイイと思うからです」
「カッコイイ?
私が?
どこが?」
「え……顔とか」
ほえあぇー。
世の中、物好きがいるもんだ。
「顔が怖いって言われることが多いけど、カッコイイだなんて言われたのは初めてだよ」
「本当ですか?
言われ慣れていると思いました。
シトレイ君、結構女子から人気があるじゃないですか」
なんだ、それは。
初耳だ。
「ああ、噂は本当だったんですね」
にわかには信じられない話だが、女子生徒によると、俺を好いてくれていた女子は多かったらしい。
中にはアタックしようとした女子もいたそうだ。
だけど、その女子たちは皆諦めた。
「いざ、シトレイ君に告白しようとすると、その、脅されるらしいんです」
『立場を考えろ』『身の程知らず』
ハイラール伯爵を好きになった女子の前には、必ず冷たい目をした脅迫者が現れる。それが噂だった。
「誰がそんな……」
と、その時。
俺の後ろから声がした。
言ってるそばから、件の脅迫者が登場したのだ。
「君は伯爵に相応しくない」
声の主、脅迫者はヴェスリーの取り巻き筆頭であるカールセンだった。
彼は醒めた視線を女子生徒に向けて立っていた。
普段の、調子のいいおべっか男とは違う、冷たい表情に戸惑いを感じる。
「君はハイラール伯爵に相応しくない。
この方には、この方に相応しい婚約者がおられる。
身の程をわきまえたらどうだ」
普段とは違うカールセンの表情に、一瞬動揺してしまう。
だが、彼は本来こういう表情もできる男だ。
確か幼年学校に入って最初の頃、この冷たい視線を浴びせられたことがあった。
「すいません。
最後だから、自分の気持ちをシトレイ君に伝えておきたかったんです」
「君がどんな気持ちを抱こうとも、君の勝手だ。
だが、君は平民だろう。
この方とは住む世界が違うんだ」
「すいません」
謝罪の後、女子生徒は小走りに帰っていった。
その姿を見送った後、カールセンがいつものニヘラとした笑顔を向けてくる。
「や、どうもどうも、シトレイ様」
「何がどうもどうも、だ。
君が犯人だったのか」
「犯人?」
「私の充実した学生生活を奪った犯人だよ」
校舎裏での告白もそうだが、例えば下駄箱にラブレターとか。
あるいは廊下ですれ違うたびに微笑んでくれる別クラスの女子。
実技の後「先輩お疲れ様です、どうぞお水です」とか言ってくる後輩。
放課後の教室で二人きりで他愛のないおしゃべり。
制服デート。
委員長。
舞台は学校。夢は無限に広がる。
もしかしたら、そんな充実した青春を体験することができたかもしれない。
その機会を潰してきた犯人は、目の前にいるヴェスリーの腰巾着だ。
「犯人だなんて大げさな!
このカールセン、よからぬ輩がシトレイ様に近づくのを水際で阻止していたのです。
どうせ、あんな女はシトレイ様の地位や金を目当てに近づいてきたに違いありません」
「悪い虫がつかぬように、か。
ヴェスリーの指示か?」
ヘラヘラと笑うカールセンに対し、俺は無表情で問いただした。
「……自分の判断です」
彼は目元がヒクつきながらも、笑顔を崩さなかった。
そんな、健気な彼に対し、溜息が出る。
「はぁー、見上げた忠誠心だよ」
「恐縮です」
「ああ、でも、二つだけ言っておく。
一つは、君がそんな真似をしなくとも、ヴェスリーがいる以上、私は自分で断っていた」
そうさ、自分で断っていたさ。
学校で告白されるとか、そういうシチュエーションに憧れなくもないが、何せ俺には婚約者がいる。それに、屋敷へ帰れば可愛い幼馴染と一つ屋根の下で暮らしていたりもする。十分、充実しているのだ。これ以上を望むのは、欲張りだ。
「もう一つは、何も悪くない女子生徒たちを恫喝するようなやり方や、卑下するような物言いは不快だということだ」
俺が少し強い語気で嗜めると、カールセンから笑顔が消えた。
「はい……」
「別に私は怒ってないよ。
ただ、君も西部へ配属されると聞いた。私を監視するためだろう?
だったら、さっきみたいな真似はやめてくれってことだ」
いや、赴任先でハメを外したいとか、そういう気持ちはまったくないぞ。
「かしこまりました。
直接的なやり方ではなく、もっと自然な感じで悪い虫を潰すことにしましょう」
「ヴェスリーに対する忠義は立派だが、君は有能なんだから、もっと別のことに頭を使えばいいのに」
学年八位の成績で卒業した、七位の実力を持つカールセン。
俺を好いてくれた女子たちに先手を打つこと自体、彼の情報収集能力の高さの表れだ。
同じ西部で、百人隊長として同僚になる男でもある。
「ま、何にせよ、向こうでもひとつよろしく頼むよ」
「もちろんです。
私は第一にヴェスリー様へ忠誠を誓っていますが、その夫君であるシトレイ様に対しても同様です」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。
どうだ、この後メシでも食いにいかないか。
もちろん、ヴェスリーたちも誘って……」
と、ここでカールセンがにわかに慌てだした。
「ああ!
そうです、シトレイ様、大事なことを忘れるところでした。
私が今回の告白を阻止できなかったのは、それどころではない一大事が起きたのです!
こうしてこの場に馳せ参じたのも、シトレイ様にお伝えしようと思ったからなのです」
「一大事?」
「ヴェスリー様が男子生徒から告白されているのです!」
「なんだと!」
本当に一大事だ。
まったく、皆、卒業式だからってはっちゃけ過ぎだろう。
慌てた俺は、カールセンと共に告白現場である中庭へと足早に向かった。
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「こちらです」
俺とカールセンは、先んじて様子を伺っていたブルゴ、アティスと茂みの裏で合流した。
ヴェスリーと、彼女に告白している男子生徒に見つからないであろう、それでいて耳を澄ませば会話内容が聞き取れる絶妙な監視ポイントだ。
ヴェスリーに告白している男は、見たこともない生徒だった。
遠巻きに見た感じだが、中肉中背で、顔が整っているわけでも不細工なわけでもない。
「なんだ、あの男は」
男は、どうもパッとしない容姿だ。
目を瞑った瞬間、頭から顔が消え去りそうなくらい特徴がない。
ニックネームをつけるならモブ、モブ男で決まりだろう。
よく知りもしない人間に対し失礼極まりないのは承知している。それでも、暴言を吐かずにはいられない。
あのモブ男は、ヴェスリーに告白しているのだ。
ヴェスリーが、事あるごとに婚約者がいると喧伝しているにも関わらずに。
俺のヴェスリーに何してくれてんだ。
「よくご存じですね。
彼はモブです」
「えっ」
「彼はモブ。
モブという名前の、術士クラスの生徒です」
なるほど。
では、暴言ではなくなったので、心置きなくモブ男と呼ぶことにしよう。
「で、モブ男がヴェスリーに大それた告白をしたのか?」
「はい、そうなんですが……。
確かにヴェスリー様を呼び出し告白してきたのはモブの方です。
しかし、どうも話がかみ合っていない様子で」
「というと?」
「モブが主張するところによれば、何故かヴェスリー様の方からモブを呼び出したことになっているみたいなんです」
「うん?」
いまいち、内容がつかめない。
それでは、と俺は耳を澄ませ、ヴェスリーとモブの会話を聞いてみることにした。
「ですから!
私から貴方を呼び出してなどいません。
何かの間違いではなくて?」
「嗚呼、ヴェスリーさん。
いざとなったら怖気づいてしまう気持ち、痛いほどわかります。
この私も、何度ヴェスリーさんに秘めたる想いを打ち明けようと迷い、苦悩したことか。
ですが、恐れる必要などないのです。
私も、ヴェスリーさんと同じ気持ちを抱いているのですから」
「いや、ですから、私は呼び出してなど」
「恐れる必要もないし、戸惑う必要もないのですよ、ヴェスリーさん。
貴方の家臣が私を呼びにきた時、私は恐れも迷いも捨てました。
貴方の気持ちを、受け止める覚悟はできています」
「私の家臣?
身に覚えがありませんわ」
「嗚呼、大丈夫、大丈夫なのです。
そんな貴方の素直になれないところも、私は丸ごと全て受け止めます。
どうか安心して下さい」
「……」
あのヴェスリーが押されている。
なかなかやるな、モブ。
「……貴方の気持ちは嬉しいですわ。
ありがとう、そしてごめんなさい。
私には婚約者がいますので」
「嗚呼、ヴェスリーさん。
そう、そうなのです。
愛し合う私たちの障害は、貴方の意に沿わぬ婚約者の存在」
「いや、ですから、たった今ごめんなさいと申し」
「大丈夫、大丈夫なのです。
先ほど言ったでしょう、私には受け止める覚悟ができている、と。
私は、家の都合に翻弄された貴方を必ずや救い出してみせます。
相手が皇族だろうが何だろうが関係ありません。
世界は広いのです。
この国を出て安住の地を目指しましょう。
なに、愛さえあれば、貧しさにだって耐えられます」
熱のこもったモブの告白、もとい演説の前に、ヴェスリーは黙り込んだ。呆れたというような表情だ。
その後もしばらくの間、ヴェスリーは腕を組み、不機嫌そうな表情のままモブの演説を黙って聞いていた。
「ヴェスリーはよく我慢していられるな」
「どんな相手でも、自分に好意を向ける人間ですから、話ぐらいは聞いてあげようというお考えなのでしょう。
ヴェスリー様はああ見えてお優しいですし、それに礼儀を大事にされる方ですからね」
「うん。
ヴェスリーが優しいのは知っているよ。
だから、我慢していられるな、というのは疑問じゃなくて願望だ」
あんな男、はやく振ってくれ。
不機嫌そうに、それでいて忍耐強く話を聞き続けるヴェスリー。
その表情が変わったのは、モブが俺のことを話題に出した時だった。
「貴方の婚約相手はいつも様々な女性と一緒にいますね。
例えばラプヘルさん。
あるいはフィッツブニトさん。
フィッツブニトさんの方は、従士でもあるという話じゃないですか。
となれば、家に帰ってからも四六時中一緒にいるわけです」
「何が言いたいのかしら」
「貴方の婚約者は、貴方に相応しくないということです。
不誠実で、軽薄な男に見えます。
何より顔が怖い」
「チッ」
ヴェスリーが舌打ちをした。
久々に聞いた気がする。
彼女は、本気で機嫌が悪くなると舌打ちをするのだ。
「ああ、出ました、ヴェスリー様の舌打ち!
あの男、ただじゃ済みませんね」
「ええ、出ましたね、恐怖の笛が」
「あの魔笛の音色を聞いて、生きている人間はいません」
ヴェスリーの取り巻きたちは、主がいないところで言いたい放題だった。
しかし、今はそれを咎める余裕がない。
ヴェスリーが怒り、あたりの空気が一変したのだ。
「モブさん!」
ヴェスリーのよく通る大きな声が、あたりに響いた。
「聞きたいことがあります。
貴方の父兄は軍人なのですか」
「ええ、曾祖父の代から軍人一家です。
祖父も父も叔父も、皆軍人です。
弟と妹は幼年学校に在籍しています」
「そう。
それともう一つ。
私の家臣を名乗る者が貴方を呼び出したと仰っていましたわね。
どのような人間でしたか?」
「女性でしたよ。
長い黒髪の少女でした。
確かにサイファ公爵家の家臣と名乗ったのです」
「そう。
……ブルゴさん、アティスさん!」
一瞬、俺を含む茂みの裏で覗いていた四人が固まった。
「ブルゴさん、アティスさん!
いるのはわかっています。
出てきなさい!」
ここまではっきりと指名されたということは、覗いてたのがバレていたということだろう。
観念した二人は茂みからおずおずと出ていった。
「モブさんをお家までお送りして下さい。
そしてモブさんの父兄の方にお伝えするのです。
お宅のご令息がサイファ公爵家の婿を侮辱した、と」
「はい」
ブルゴとアティスはバツが悪そうに、それでもガッチリとモブの両脇を固め、連行していった。
連れ去られる際、モブが「何故ですか!」と騒いでいたが、その口をブルゴが文字通り力づくで塞ぐ様子が見える。
「カールセンさん!」
次に指名されたカールセンが、抵抗は無駄だと素直に出ていった。
「カールセンさん、貴方は我が家の家臣を名乗った不届き者を調べて下さい」
「はっ……しかし、もう卒業式も終わりましたし、学校に来ることもありません。
目撃者を捜すにしても、生徒がいないですから難しいと思」
「やりなさい」
「はい」
無抵抗のカールセンは、頭を下げて了承し、すぐさまどこかへと去っていった。
さて、残るは
「ダーリン殿」
もちろん、俺も抵抗することなく茂みから飛び出す。
「ダーリン殿、私考えたのですけど、ダーリン殿は一~二年ぐらいで帰ってくると仰っていましたわよね?」
「うん、確かに言った。
今のところは、だけどね」
「いずれにせよ、近い将来に戻ってくるのは確かなのですね。
では、ダーリン殿が都へ帰ってきたら結婚します」
それは提案ではなかった。
決定事項の連絡だ。
「ああ、準備は私が整えておきますから、安心して下さい。
式も新居も用意しておきます。
と言っても、ダーリン殿は皇族だから私たちの結婚はドミニアの大聖堂で行うことになるのでしょうね。
今のうちに教会の方々へ根回しをしておきますわ。
それに、新居と言っても、私が貴方の屋敷へ移ることになるでしょう。
でも、ダーリン殿の都の屋敷はしばらく閉鎖すると仰っていましたよね?
では、私としては新しい家具を見繕っておくことだけに留めておきましょう」
俺たちの将来設計。言葉が止まる様子のない彼女の勢いに、俺はあっけにとられてしまった。
「ダーリン殿」
「ん?」
「楽しみですわね」
「うん、楽しみだ」
ヴェスリーは屈託ない笑顔を向けてくれる。
しかし、ニコニコしていた彼女の顔が消え、再び険しい表情となった。
「ヴェスリー?」
彼女は俺ではなく、俺の後ろへ視線を向けている。
振り返ってみると、俺や取り巻き連中が隠れていた茂みの、さらに後ろの校舎の角で人影が動いた気がした。
「誰かいるのか?」
声をかけてみるも、反応がない。
気になって角まで行って確かめたが、人はいなかった。
「うん?」
気のせいだろうか。
「……長い黒髪、ね」
ヴェスリーは一言つぶやくと、しばらくの間、険しい表情のまま人影を感じた校舎の角を睨み続けていた。
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卒業式の後、赴任先の西部国境へ出発するまでの数日間。
俺とアギレット、それにフォキアは荷造りに精を出していた。
向こうで割り当てられる官舎には、家具の類は揃っていると聞いている。
だから、荷物は身の回りの物が多い。
シーツや食器などの日用品。
それに、肌着やパンツ、夜用のガウンと若干の私服。
荷造りの過程で、あらためて俺の私物を見てみると、自分で集めたわけでもないのに上等なモノが揃っていることに気づいた。
我が家では、貴族としての体面に関わらない――つまり、世間様に見られないようなところには極力金を使わない方針を通してきた。現在はハイラールの防衛強化に金を回すため。それ以前は、硝石の購入費に充てるため。
それに加えて、当主である俺が生来の貧乏性なのも無関係ではないだろう。
だから、今、目の前に並べられている上等な私物は、俺が自ら欲したものではなかった。
これらは、アギレットが用意したものだった。
彼女はよく、俺の持ち物を失くしたり、壊したりしていた。その度に責任を感じた彼女は、身銭を切って新しいものを買ってきた。しかも、以前よりも上等なものを仕入れてきたのだ。
綿のシーツはシルクのシーツになり、木のスプーンは銀のスプーンに変わった。
それだけではない。
枕カバーも、ナイトガウンもシルク製のものに変わっていた。使い古したパンツも、何着か真新しいものになっていた。
「なぁ、アギレット。
君のお金は大丈夫なのか?」
「え?
突然何ですか」
「いや、これだけ私の物を買っていては、自分の欲しいものが買えないだろう?」
要領よく自分の荷造りを終えて俺の荷造りを手伝ってくれているアギレットに聞いてみた。
アギレットは十五歳の成人の後、我が家の従士として給金を得ていた。シルクのシーツも銀のスプーンも、決して手の届かない代物というわけではないだろう。
それでも、彼女が買ってくれた品々の意外な多さにたじろいでしまう。
「でも、失くしたのは私ですから」
本人の言うとおり、失くしたり壊したりしたのは彼女だ。
お咎めなしでは他の家臣たちに示しがつかない。彼女だけを特別扱いすることはできない。
だけど、俺は特別扱いしたかった。
「まぁ、確かにそうかもしれないけど……。
欲しいものはないのか?
私たちは、来週には船の上にいるわけだし、向こうに着いた後でも、都よりはよっぽど買い物に不自由するだろう。
入用な物を買うなら今のうちだぞ」
「いえ、でも……大丈夫です。
特に欲しいものはないです」
彼女は頑なだ。
やっぱり、金がないのだろう。
「よし、荷造りが終わったら、市場まで買い物に行こう」
うん。
我ながら、自然な誘い方だと思う。いいぞ、俺。
「うーん……うん?
もしかして、シトレイ様が買って下さるのですか?」
「そうだよ」
「ダメです!
主君が家臣に物を与えるのは、家臣が役立った時の褒美としてでなくてはなりません!
私はシトレイ様のお役に立てていないのに、色々と貰いすぎています」
色々といっても、思い当たるのは大昔にあげたリボンくらいだ。
「役に立ってないなんて、謙遜だよ。
従士として付いてくるために、軍の入隊訓練だって立派にこなしてきたじゃないか。
それに、最近ではセバステから色々と教えてもらっているとも聞いている」
軍での訓練を終え、兵卒としての資格を手にした彼女は時を無駄にしなかった。
戦闘ではフォキア以上に役立てないから、と彼女は自らセバステに師事し、ハイラール家の家政について勉強していたのだ。
「それは役立つための準備です。
まだ、何か結果を残したわけではありません」
彼女は真面目だ。真面目で、律儀だった。
幼い頃から知った仲である俺やフォキアに対しても、例え他の家臣や召使がいない時だって敬語を忘れることはなかった。
俺と食事の席を共にすることもない。家臣が主と同じ食卓に同席を許されるのは、特別な功績を挙げた者か、重臣でなければ許されないと言うのだ。
確かに世間一般ではアギレットの言うとおりで、主君と食事を共にすることは、名誉なこととされていた。
フォキアは今現在、俺と主従関係にない。
食客という立場だ。だから、俺と食事を共にとっている。
しかし、学校を卒業して、もうすぐ我が家の正式な従士となるフォキアは、今後も主君と食事をとることなど気にも留めないだろう。
アギレットもフォキアぐらい、図々しいというか、砕けて接してもらいたいのだが。
「大丈夫です。
シトレイ様のお気持ちだけで私は嬉しいです。
それに、欲しいものがないのは本当なんです。
欲しいものは、大体は揃えましたので」
「うん?」
結局、彼女に何か買ってあげるという提案――デートの誘いは断られてしまった。
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それから数日後。
西への出発を目前に控えた、ある夜のこと。
中々寝付けなかった俺は、用を足しに行くついでに、しばらく留守にするであろう屋敷の中を散歩してみることにした。
屋敷といっても、都の屋敷はそれほど大きな建物ではない。
祖父やサイファ公爵の屋敷とは比べ物にならないし、ハイラールの本邸に比べても手狭であることは否めなかった。
特に、敷地の面積だけで言えば、ハイラールの屋敷の五分の一以下の広さである。
都は地価が高い。
それに人口が多かったから、仮に金があっても、都の城壁内に広くまとまった土地を手に入れることからして難しかった。
コルベルン王位やサイファ公爵位は昔からある爵位だ。
その広大な屋敷の土地も、大昔に国から下賜され、代々受け継いできたものである。
代々住み続けていれば、その間に何度か屋敷の改築や建て直しを行っていることだろう。だが、彼ら大貴族は新たに土地を購入する必要がなかった。
一方、我がハイラール伯爵家は新興貴族である。
皇族の連枝であるから、血統自体は古いのだが、ハイラール伯爵という爵位自体は父の代にコルベルン王領から分与され、新設されたものだった。
それでも、城壁内の、一等地とは言えないが僻地でもない場所に、それなりの屋敷を持つことができている。そこはコルベルン王一門の力であり、皇族という名の成せる技であろう。
というわけで、祖父の屋敷とは比べるまでもない我が家でも、夜中に少し散歩しようとするならば、中々に歩き応えのある広さを誇っていた。
トイレから廊下へ出て、階段を下る。
この時間に、別の階を歩くことは今までなかった。見知った廊下も新鮮に感じる。
灯りも持たずに、俺は廊下を黙々と歩いた。
しばらく廊下を進み、厨房を横切った。
ちょうど喉が渇いていたので、レモンの果実水を一杯拝借する。
一息ついた後、再び歩みを進める。
厨房を出て、また廊下を歩く。
黙々と進み、そろそろ引き返そうかと思ったとき、部屋の一つから声が漏れ聞こえてきた。若い女性の、苦しそうな、だが、もしかしたらそうじゃないような声が聞こえる。
耳を澄まし、部屋を特定すると、俺は部屋の前まで静かに歩み寄った。
「ふ……ふ、ん……」
これは……。
いや、まずい。
家臣にだってプライベートがある。
主君だからといって、家臣の私生活にまで踏み入っていい道理がない。聞き耳を立ててはいけない。
しかし、俺はその場から離れることができなかった。
扉のプレートに『アギレット・リュメール』と書かれていたからだ。
「ふ……ふ……」
だめだ、いい加減にしろ、俺。
アギレットは俺の一つ年下、十七歳である。十七歳なら、何ら不思議ではない。昔の、俺やロノウェの後ろをチョコチョコとついてきた座敷童子のような彼女とは違うのだ。彼女は大人になったのだ。何ら不思議ではないのだ。
だが、俺はそっとドアノブに手をかけていた。
扉の隙間から光が漏れ出る。
「……んふふ、ふ……あ……」
聞こえるのはアギレットの声だけだった。
なら、別に確認する必要はないじゃないか。
もし男を連れ込んでいるのだとしたら、俺の心はかき乱されていただろう。だけど、アギレット一人なら、何の問題はない。彼女は大人だ。そういうお年頃なんだろう。
と言い聞かせつつ、俺はそっと、少しだけ扉を開けた。
「ふふふふ……んふふふふ……」
アギレットはベッドに座っていた。
シーツに包まり、腕に布切れを抱えている。そして一心不乱に、木の棒をしゃぶっていた。
アギレットが抱えている布切れに見覚えがあった。
あの緑の布は……俺のパンツだ。
白い長方形の布切れは枕カバーだろうか。彼女が包まっているシーツも、俺が使っていたもののように見える。
「んふふふーふ、んー……んーっ! んんーっ!」
木の棒は、俺が愛用していたスプーンだ。
全部、彼女が汚したり失くしたと言っていたものだった。
しっかし、彼女がスプーンに吸い付く勢いは圧巻だ。
あんな勢いで吸ったら、呼吸困難になっちゃうんじゃないだろうか。
「んー……、ふっふっふ、ふー……ふー……」
やがて彼女はベッドから立ち上がり、窓際にある机へと向かった。左手にはスプーンを持ったまま、右手にペンを持ち、何やら書きなぐっている。
「ふふふー……ふー……死ね、ヴェスリー・サイファ、死ね、死ね、死ね……」
時折、彼女は木のスプーンを口に含みながら、ヴェスリーへの呪詛を繰り返した。
「んふふふふ、私のものだ、私のものだ、私のものだ!
だっー!!」
その様子をしばらく見つめた後、俺はそっと扉を閉じ、自分の部屋へと戻った。
============
二月半ば、旅立ちの日。
帝都の外港には、俺たちを見送るために多くの人々が集まってくれた。
西へ旅立つ船上の客となるのは、俺、アギレット、フォキア、カールセン、そして
「おまたせ」
「あれ、天使さん。
何、その荷物」
「私の荷物よ。
当然でしょう。
まさか、身一つで前線へなんて行けないわ」
おかしい。
彼女の配属先は近衛軍だ。卒業式での卒業証書授与(および発令)の際、確かに校長が近衛軍と言っていた。彼女も返事をしていた。
「はい、これ」
アスタルテは鞄の中から一枚の紙切れを出した。
『アスタルテ・ラプヘル 汝を 西部方面軍第六獰猛軍団 左翼大隊 第二・百人隊隊長に任ず』
柄の入った証書用の用紙には、しっかりと軍務大臣および人事局長官の印が入っている。
「所属の軍団、所属の大隊まで私と一緒か。
出来過ぎだ。
その辞令書は偽造か?」
「まさか。
そんな、すぐにバレるような真似はしないわ」
「にわかには信じがたいな。
一度下った辞令を覆すなんて」
「方法は企業秘密よ。
ただ、私が士官学校で貴方と同じクラスになったことや、ミヒールがセエレへ近づくため近衛軍に潜り込んだことを考えれば、あながち嘘ではないとわかるでしょう?」
わからない。
正式に発令された辞令を覆すなんて、ヴェスリーにだって無理だろう。
一体どんな方法を使ったというのだ。謎だ。
「しかし、これでお目付け役が二人に増えたということか」
向こうにいるカールセンの方を見てみる。
彼はブルゴ、アティスらと談笑していた。
「ダーリン殿」
視線を戻すと、アスタルテと入れ替わりでヴェスリーが話しかけてきた。
「しばしのお別れですわね。
向こうでもお元気で」
「おう」
「つまらない戦いで戦死など許しませんよ。
貴方には大志があるのですから」
「大志なんて大それたものではないが、まぁ、結局のところ目標は誰に邪魔されることなく平穏に生きていくことだからね。
死んだら元も子もない。
必ず帰ってくるよ」
「ええ。
必ず帰ってきて下さい。
帰ってきたら結婚するんですからね」
俺、この戦いが終わったら結婚するんだ。
「結婚、ですからね!」
彼女は再度「結婚」の二文字を強調した。
周りに聞かせるような大きな声だ。
それを聞いていた周りの反応は様々だった。
セバステを含む我が家の家臣たちは、なにやら微笑ましいものを見るかのように、ホッコリした笑顔を浮かべていた。
カールセンら取り巻き連中はニコニコと――もしかしたら、ニヤニヤだったかもしれないが、笑っていた。
フォキアはポカーンと口をあけていたかと思うと、ヤレヤレと溜息をつく。
アスタルテは無関心そうに海を眺めていた。
そして、アギレットはじっとヴェスリーを見つめてる。
「常日頃から申し上げていますが、私、別に貴方を縛ろうとは思っていませんの。
将来的には、側室を持つことだって認めて差し上げますわ。
それが殿方の性ですし、子供は多ければ多いほど、一門の繁栄にも繋がりますから」
「うん」
「ですが!
正室はこの私です。
正室を娶る前に側室を迎えることは、外聞が悪いですし、何より私にも嫉妬心があります。
いいですか、私と結婚するまで、絶対に誠実であり続けて下さい」
「もちろんさ」
誠実であれと言われ、一瞬だけ、無意識のうちにアギレットを見てしまった。
アギレットは無表情で、俺たちのやり取りを見つめていた。
「ダーリン殿!
どこを見ていますの!」
俺がアギレットに視線を移したことを、ヴェスリーは見逃さなかった。
鬼のような形相に変わったヴェスリーが、掴みかかる様な勢いで身を乗り出してくる。
いや、確かに、別れの場面で他の子に気をとられてしまったのだから、怒られてもしょうがない。
しかし、そこまで怒ることだろうか。
なんと、ヴェスリーは勢いそのまま、俺の胸倉をつかんできたのだ。
「あっ、すいませ」
彼女の勢いは止まらない。
このまま殴られるのかと思い、とっさに目を瞑る。
カチン
痛みを感じる代わりに、歯に硬いものが当たった気がした。
目を開けてみると、すぐそこにヴェスリーの顔がある。
「今は、これで我慢して下さい」
「……」
言葉が出なかった。
味なんてわからない。ただただ、いい匂いが残っている。
「そういうことです、長い黒髪の少女さん。
どうか、結婚までの間、私の夫を守って下さい。
もちろん、従士としての意味ですが」
呆然としている俺を通り越し、ヴェスリーがアギレットへ挨拶した。
「……はい」
その挨拶に対し、アギレットの消え入りそうな声が聞こえる。
「では、ダーリン殿。
ごきげんよう」
その後しばらくの間、俺はスタスタと歩いて帰ってくヴェスリーに釘付けだった。
ヴェスリーを見送った後、俺は初めて振り返り、周りの人々の顔を見てみた。
皆、各々驚きや微笑を浮かべている。
「や、ビックリしたよ」
皆に対し、恥ずかしさを隠しながら、そう言うのが精一杯だった。
「……アギレット?」
周囲の人たちが様々な表情を向ける中、一人だけ無表情だったのはアギレットだ。
いや、無ではない。負だ。彼女の周りには負のオーラが漂っていた。
「シトレイ様。
お見事です」
「え?」
「ああやって、あの女……いえ、ヴェスリー様を虜にしておく限り、シトレイ様のお立場は安泰です。
お辛うございましょうが、ハイラール伯爵家のため、コルベルン王家のため、そしてシトレイ様ご自身のためです。
どうぞ、ご辛抱下さい」
「あ、いや、別に……いや、何でもない。
うん、ありがとう」
「では、参りましょうか」
船は帝都の外港から、冬の厳しい海を越えて西へと向かう。
旅程はおおよそ一ヶ月。
その一ヶ月の間、毎夜アギレットの船室から呪詛の声が聞こえてきた。
呪詛とセットで行われているであろう儀式を、数日前初めて目撃した。
しかし、実のところ、特に引いてはいない。
好意を抱いている相手の行動ゆえフィルターがかかってしまっているのか。それとも彼女の持つ容姿ゆえ、つまり可愛いは正義だからか。
ただ思うのは、俺とヴェスリーが結婚した後の、ヴェスリーとアギレットとの関係。
あるいは、そこに俺を含めた三人の関係についてであった。
~おまけ~
三組の皆さんの進路(姓名アルファベット順)
Andelsia シトレイ・アンデルシア・ハイラール 西部方面軍
Atis アティス 軍務府兵站局
Brooks スティラード・ブルックス 近衛軍
Bulgo ブルゴ 中央方面軍
Carlsen ラウム・カールセン 西部方面軍
Cypha ヴェスリー・サイファ 術学院
FitzBunit フォキア・フィッツブニト 西部方面軍
Orlando オーランド 東部方面軍
Raphel アスタルテ・ラプヘル 西部方面軍
Sims シムズ 東部方面軍




