#069「友情を犠牲に」
祖父と今後の方針を固めた後も、俺たちはドミナに好かれるための努力を続けていた。
ドミナについて知るための勉強を続け、ドミナ教の聖典を何度も読み通した。
同時に、ドミナへの信仰心を示すため、教会へ喜捨しまくり、ドミナの像や絵画を収集した。
領地の防衛強化を並行して進めていたため、あまり金をかけることができなかったが、それでも、自らが敬虔なドミナ教徒である、と言い訳できるぐらいには行ったつもりだ。
さらに、天使たちへの配慮も欠かさなかった。
天使はドミナが降臨する少し前に人間として生を受け、情報を集める役割を与えられている。言わば、ドミナの目であり、耳なのだ。
ドミナが降臨した後、まず最初に彼女と接触するのは、おそらく天使たちであろう。
だから、俺たちは天使二人に賄賂を送った。
俺たちがいかに良い人間であるかを、ドミナへ伝えてもらうためだ。
「……本当に、浅はかな、考え、ね」
賄賂を頬張りながら言うアスタルテの口調はぞんざいなものだったが、それでもフォークは止まらない。
アスタルテへの贈賄を担当することになった俺は、ことあるごとにアスタルテにおいしいものを献上していた。
今日の賄賂はベリーとヨーグルトのレアチーズケーキだ。
「仕方ないだろう?
相手の目的がわからないのだから。
私たちはやれることをやるしかないんだ」
「……ふぅん。
ま、シトレイ君が形だけでも信仰を大切にしてくれるようになったのは、悪いことじゃないわ。
それに、私もおいしいものがたくさん食べられるし。
ただ、少し心外にも思う」
「何が?」
「こうやって、モノで釣れると思われているところよ。
ジブリアは貴方のお爺様に愛情を抱いているみたいだし、私だって、シトレイ君のことを……少なくとも良い友人だとは思っているわ。
こんなご機嫌取りをしなくとも、ドミナ様への口添えぐらいしてあげるつもりだったのだけど」
「そうか。
気分を悪くしたなら謝るよ。
今後、食べ物で釣るような真似はしない」
アスタルテはケーキを食べ終え、紅茶を飲み干すと、俺の申し出に対して抗議するかのように、ティーカップを少し強めに受け皿へ置いた。
「……シトレイ君。
謝って済むことではないわ。
貴方はすでに私をモノで釣ろうとしたの。
貴方はそういう選択をした。
そして、一度相手に与えておきながらそれを引っ込めてしまえば、決してプラスにはならないわ。
相手の感情を逆なでするだけよ」
「うん。
つまり、どういうこと?」
「つまり、おかわりよ」
すぐにメイドへ命じ、追加のケーキを持ってこさせる。
それも、到着するや否や、すぐにアスタルテの口の中へと消えていった。
「……ふぅ。
それにしても、シトレイ君。
ない知恵絞って努力する姿は滑稽だけど、でも、努力しようとする姿勢はステキよ。
ただ、その努力は徒労に終わるんじゃないかしら」
「徒労に終われば、それでいいんだよ。
だけど、相手は未知の力を持っていて、しかも目的がわからない。
普通は、恐れを抱くものさ」
「……ドミナ様を災厄か何かと勘違いしているのかしら。
まぁ、畏怖も立派な信仰の形ね。
いいわ、納得しているのなら、続けなさい」
そう、災厄……とまでは言いたくないが、これはいわば災害への備えなのだ。
しっかりと、備えられるものは備える。備えた上で、何もなければそれで良し。
そんなスタンスだ。
「まぁ、無理せず続けるよ」
「ええ、頑張って。
ところで、ヨーグルトの、とてもおいしかったわ。
もう一皿だけ欲しいのだけど」
結局、この後アスタルテはレアチーズケーキ二皿を平らげて帰っていった。
今日の賄賂はケーキ四皿と紅茶、そしてお土産に持たせたシュークリーム。
モノで釣るなと言われたが、それでも、気分良さそうに帰っていったアスタルテのことを思えば、これぐらい安いものだ。
七十の老体を押して、身体を使ってジブリアへ賄賂を贈っている祖父に比べれば、安いに違いない。
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「彼はハーヴィッツ男爵。
中央方面軍の司令官だ。階級は私と同じ上級将軍」
「はじめまして、ハイラールです。
どうぞよろしく」
十月の初頭。
この日、サイファ公爵邸でパーティーが開かれた。
名目は半期締めの慰労会らしいが、その内実は、軍務次官派の懇親会である。
「兵站局長官ランドルース卿。
階級は将軍、爵位は騎士だ」
「どうも、ハイラールです」
今、俺はサイファ公爵から軍務次官派の幹部たちを紹介してもらっている。
初対面のお偉いさん相手に少しばかり緊張したが、そんな緊張を振り払い、営業スマイルでガッチリ握手だ。
俺の笑顔は怖いと評判だったから「こんな顔ですが、笑っているんですよ」と付け加えることを忘れない。この一言で笑いを誘う。
相手は俺の顔を見ながら、少し引き気味の乾いた笑いを返してきたが、笑いは笑いだ。掴みはOKだ。
「しかし、世の中わからぬものですな。
ハイラール伯爵閣下と宰相殿下の仲の良さは、一部では有名な話でした。
それがよもや、伯爵閣下が同志として立っていただけるとは。
いや、我々にとっては願ってもないことですが」
「祖父と仲が良かったのは事実ですが……仲が良かったと思っていた、とする方がより正確な表現になるでしょうか。
結局、祖父は私のことを駒の一つとしか見ていなかったのです。
祖父の本心を知った以上、私も本心を偽ることをやめました」
神妙な顔で答えて見せた。
すると、すかさず横に立つサイファ公爵が俺を擁護してくれた。
「そう、コルベルン王家の成員という立場上、伯爵は自ら考えを隠す必要があったのだ。
伯爵が変節した、などと言う者もおるようだが、それは違う。
私は随分前から伯爵の考えを知っていたが、彼は我々の同志に相応しい良識の持ち主だ」
サイファ公爵はえらく上機嫌な様子で、笑みを浮かべていた。
あのサイファ公爵が、笑顔を見せたのだ。
「伯爵は優秀な士官候補生であり、何より皇族でもある。
将来は確実に、軍の中核を担うことになるだろう。
我らの志を未来へ引き継ぐ意味においても、若く有能な伯爵の参画は多大な利をもたらすこと間違いない」
「なるほど、仰るとおりですな」
サイファ公爵が俺のことを有能だと思っているかは定かではない。
だが、「皇族である俺」が軍務次官派に参加することについては、心から喜んでいるに違いない。
何しろ、現状、サイファ公爵は祖父との政争において負け続けているのだ。
祖父の側にいた俺が、名実共に自派へ加わるというのだから、自然と笑顔にもなるというものだ。
しかし、本当に自然な笑顔だ。こんな顔もできるのかと感心する。
普段の彼は、常に険しい表情を崩さない。それだけに、いざ笑顔を向けられると、感動めいたものと、親近感を覚えてしまう。
例えるなら、いつもぶっきらぼうなあの子が初めて見せてくれた笑顔、だろうか。
それだけに若干、心が痛い。
何せ、俺は彼を騙しているのだ。
俺がこの場にいる理由。
つまり、ハイラール伯爵の変節――軍務次官派への鞍替えは、真っ赤な嘘だった。
これまでもヴェスリーとの婚約継続を認めさせるために、俺はサイファ公爵に嘘をついていた。
その偽りの関係を、いよいよ表立って喧伝することにしたのだ。
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ここ最近、ある噂が都中に広まっていた。
曰く、コルベルン王アーモンとその孫ハイラール伯爵シトレイが仲違いしたというのだ。
事の発端は、ハイラール伯爵が婚約相手であるヴェスリー・サイファ男爵夫人に対し、政略結婚以上の感情を抱いてしまったことに始まる。
十代の青年貴族は婚約者に夢中となり、己の立場を忘れてしまう。まさに、恋は盲目という言葉のいい見本だった。
結果、婚約者の言いなりとなったハイラール伯爵が、その婚約者の父親である軍務次官に半ば取り込まれてしまう。
宰相派の勝利だったはずの婚約が軍務次官派の巻き返しに繋がってしまったのだ。
「婚約者の言いなりねぇ……」
「含みのある言い方だな」
「いえ、ね。
ダーリン殿が本当に私の言いなりになって下さるのなら、どんなに良い気分になるかと思いまして」
パーティーの一幕。
要人への挨拶回りを終えた俺は、会場の隅っこでヴェスリーと一息ついていた。
「まるっきり嘘でもないさ。
君に迫られたら、何でも言うことを聞いてしまいそうだよ」
ヴェスリーは濃い赤のドレスを着ていた。深紅のスレンダーラインのドレスは、彼女の明るい金髪や白い肌との対比が絶妙だ。
彼女は軍服よりもドレスが似合う。素材が豪奢だからだろう。
「そう。
では、貴方の家の女性使用人全員に暇を与えて下さるかしら」
「え?」
「私、貴方の側に他の女性がいることが耐えられませんの。
ですから、全員に暇を与えて、追い出して下さい。
もちろん、アギレットさんも含めてです」
「え、えー……っと」
しばらく返答に窮していると、ヴェスリーが意地悪そうに笑った。
「ホホホ、冗談ですわ。
私、それほど器の小さい女ではございませんことよ。
夫を困らせるような真似はいたしません」
ホッと胸を撫で下ろす。
俺とヴェスリーの関係は、どちらかと言えば今巷で流れている噂とは逆のものだった。
俺の無理強いに、ヴェスリーが付き合ってくれている。
今回も、大嫌いな宰相の利になるとわかっていながら、俺のためにと協力してくれた。そんなヴェスリーには頭が上がらない。
噂に言う「婚約者の言いなり」とまではいかないにしろ、もし彼女が少々無理を言ってきたとしても、俺には断れないだろう。
しかし、あくまで噂、決して事実ではないのだが、その話の上では、ヴェスリーはハイラール伯爵を誑しこみ、宰相を裏切らせた女――ともすれば悪女ということになっていた。
恋に盲目となったハイラール伯爵は、宰相にとって不倶戴天の敵であるはずの軍務次官と誼を通じるようになった。
当然、祖父は孫を嗜める。
だが、浅慮な孫は障害のある恋に反って火がついてしまい、軍務次官派に走ることを公言する始末。
これに激怒した宰相は、ハイラール伯爵の領地と爵位を召し上げることを考えはじめる。
宰相の動きを察知したハイラール伯爵は不安に駆られ、兵を動かす準備をはじめた。
従士団の召集、都の屋敷の閉鎖、領地の防衛強化、食糧の備蓄など、戦支度であることが明らかな動きだった。
これに負けじと、宰相も対抗策を取る。
ハイラール伯爵が若年のため、と派遣していた代官を引き上げさせ、アスフェンの防壁を修復し、なおかつ縁戚のエレオニー公爵を通じて近衛軍を動かせるよう根回しをはじめた。
ここに来て、コルベルン王家のもう一人の成員であるアスフェン公爵アーモンが穏健派家臣たちに担ぎ上げられる形で動いた。
帝国貴族は封建領主というよりも知行主としての性格が強く、常に政府の厳しい統制化に置かれている。
政府と領主の関係は、例えるならば江戸時代の幕府と藩主の関係であろうか。
お家騒動ともなれば、政府の介入を招く恐れがあった。
いかに帝室の連枝と言えども、政府から処罰を受ける可能性があったのだ。
それを穏健派家臣たちは恐れた。
アスフェン公爵が祖父と弟の仲裁に入る。
一度は宰相から近衛軍派兵の打診を受けていたエレオニー公爵も、娘婿の動きを知って宰相の説得に回った。
結果、ひとまず宰相とハイラール伯爵は和解することになったのだった。
だが、それは表面上の話だ。
祖父と孫の相互不信は続いている。
二人とも、従士団の動員は解除し矛を収めた。だが、「害獣・盗賊対策」や「飢饉に備えるため」と、もっともらしい理由をつけて城壁の建設や兵糧の備蓄を続けている。
そして、当人が公言したとおり、ハイラール伯爵はもはや軍務次官派の一員であるという認識が、巷間に流布していた。
「もちろん、それは嘘。
ダーリン殿は軍務次官派に潜り込み、内部からの切り崩しを図っている、ということですわね」
「うん」
小声で話すヴェスリーに対し、俺は周囲を警戒しながら肯定した。
ここは会場の喧騒から離れた部屋の隅っこ。大丈夫、誰も聞いていない。
「地方の軍務次官派の切り崩しだ。
おそらく、西部方面軍に潜り込むことになると思う」
俺と祖父が行っている領地の防衛強化について、適当な言い訳が欲しかったという理由もある。
だが、噂を流した一番の理由はサイファ公爵を油断させ、その懐へ飛び込むことだ。
祖父が中央(都)で事を成すため、フットワークの軽い俺が敵の懐へ飛び込む、という役割分担になっていた。
「まぁ、正確に言えば、切り崩しというのは努力目標だね。
君の父上から実戦部隊を引き離したいという思惑は確かにある。
だけど、引き離した兵士たちを祖父の指揮下に置きたいわけではない」
災害への対策なのだ。
祖父の強権を発揮すれば、決着はすぐにつくだろう。
だけど、それは将来の反発を残す結果となる。
それではだめだ。
ドミナが降臨した後も、俺たちには未来がある。だから、無理はしない。災害対策で無理をするなんて、そんな馬鹿げたことはしないのだ。
何も、武力によってサイファ公爵を放逐しようとまでは考えていない。
彼の力の源泉である軍事力を削ることが目標なのだ。後ろ盾である実戦部隊がなくなれば、本来、軍務次官は軍務大臣を軍政面で補佐する一役人でしかない。
ただの、一省庁の役人に戻ってくれれば、国政を預かる祖父に対し、沈黙するしかないだろう。
「いずれにせよ、私はこうして君の父上の屋敷にいる。
今のところは上手くいっているわけだ」
世間では、俺は紛うことなき軍務次官派の皇族としての評価が定着しつつある。サイファ公爵も、軍務次官派の幹部連中も、疑っている様子はない。
「ええ。
ダーリン殿は嘘をつくのが本当にお上手ですからね」
「ヴェスリー、どうも、今日の君はトゲがあるな。
何かあったのか」
腕を組んだヴェスリーは俺に対し向き直り、睨んできた。
抗議するような鋭い視線に、一瞬たじろいでしまう。
「何かあったのか、ではありませんわ。
協力するとは申し上げましたが、ダーリン殿の決定に、妻たる私の意志が反映されていません」
「やはり、父親との対立は怖いか?」
「肉親と争うことに恐怖を感じるかと言われれば、それはもちろん感じます。
お父様の名誉も成功も、私には関係のないことですけど、でも、親子の情はありますから」
ヴェスリーはきっと味方になってくれる。
そう思って協力を仰ぎ、実際、俺の味方になってくれた。
だが、どうやら俺は協力を取り付けたことに浮かれて、目が曇ってしまっていたようだ。
「すまない、配慮が足りなかった。
誓って言うが、私や祖父が目指しているのはサイファ公爵の政治的な力を奪うことだ。
命や名誉を奪いたいわけではない」
祖父は「追い落とす」と豪語していたが、それは政治上の話だ。
現実問題、爵位や領地、それこそ命まで奪うことなどできない。
建国元勲の後裔であるサイファ家当主の廃立にまで手を出してしまえば、反発は必ず起る。
そんなことをしては、直接の利害関係にない貴族たちまで祖父の強権ぶりに反感を覚えるだろう。
ドミナの降臨という嵐が過ぎ去った後、周りが敵だらけ、なんて事態は絶対に避けなければならない。
「できれば、穏健な形で引退してほしいと思う」
政治的影響力、権力は徹底的に削ぐ。
だけど、公爵としての名誉と、高位貴族に相応しい生活は保障する。
その辺りが、目指すべき決着の形だろう。
「そこまで考えていただけるなんて、やっぱりダーリン殿は優しい方ですのね。
賢妻を目指すなら、夫のため肉親の切り捨てもやむなし、と私は覚悟していましたのよ。
ありがとう」
先ほどまでの抗議するかのような鋭い視線が、やわらかいものへと変わった。
と思いきや、再び突き刺さるかのような眼光へと変化する。
「……っと、違います。
そういうことを言いたいのではないのです!」
「ええっ?」
結局、ヴェスリーの主張をまとめると、彼女の知らないところで、俺が地方への赴任を決めたことに異議があるらしい。
「もっと早く言って下されば、私も西部へ赴任できるよう動いたのに!
私、もう術学院への進学試験を受けて、合格してしまったのですよ!」
術学院は術士の世界の中でもごく一握りのエリートのみが進むことのできる教育兼研究機関である。
この国の機関にしては珍しく、100パーセント実力主義で、身分や血統を一切考慮しないらしい。
進学した時点で、いや進学に内定した時点で、将来の栄達と富を約束されたも同然だ。
何でも、進学内定者は皇帝臨席の記念パーティーに出席し、皇帝から一人ひとり名前を呼ばれるという。
「すごいね、ヴェスリー。
私も鼻が高いよ」
「何を呑気なことをおっしゃっているのですか!
さすがの私でも、記念パーティーで陛下から名前を呼ばれ、恩賜の銀杯まで賜っておきながら、今さら西部へ行きたいなどと言えませんわ」
怒気を含んだ表情が、今度は泣きそうな顔へと変化した。
本当に、彼女は感情が豊かだなぁ。
「ああ、私たちは将来を誓い合った仲だというのに。
私は都、貴方は西の国境。
一体、何年離れ離れになるのでしょう」
「一~二年ぐらいだと思うよ」
と言ってから「しまった」と思った。
ヴェスリーを筆頭に、兄アーモン、兄の舅である近衛軍司令官エレオニー公爵、東部方面軍司令官ロアノン男爵。そして祖父の腹心とも言うべき各省庁の大臣たち。
さらに、アギレットやフォキアを含む、我がハイラール家の主だった家臣たち。
噂に関わる人たちや、腹心たち、宰相派の人物たちには、俺がサイファ公爵の懐に飛び込み、油断を誘うために軍務次官派の皮を被るというシナリオを伝えてある。
だが、その期間については「しばらくの間」と言葉を濁していた。
なぜなら
「一~二年?
そんなに短いのですか?
どうして?」
という質問が返ってくるからだ。
期限は当然ドミナの降臨まで、ということになるのだが、それをそのまま話すことはできない。
この世界の人間にとって、ドミナは絶対善だ。
それは狂信ではない。
ドミナは国家の根幹であり、秩序の礎であり、道徳そのものなのだ。
幸い、天使たちから得た情報と別の人生経験が、俺や祖父をこの種の固定観念から自由にしてくれた。
しかし、それはあくまで例外だ。
普通の人間にとって、俺と祖父が行おうとしている「備え」は、道徳への挑戦であり、秩序へ疑問を呈することと同義だった。
「……予定だけど、ね。
早く勝負を決めたいのさ。
決着をつけて、君と結婚したいしね。
それに、うちの祖父も、もう七十だ。焦りもある」
親との対立を顧みることなく、俺と一緒になる覚悟を決めてくれた彼女だ。おそらく、話しても大丈夫だろう。
それでも、俺は話すことができなかった。
政治上の派閥争いとは次元が違う話だし、それに、転生に関わることと同時に、ドミナに関することも内密にしておくようにと、祖父の厳命もある。
「……いつもより、眉間に力が入っていますわね。
それと瞬きの回数。
ダーリン殿は本当に、嘘がお上手ですこと」
内心、冷や汗を感じる。
君は超能力者か何かか。
「いいですわ。
イジワルはこの辺にしておきましょう。
私、何も夫を支配したいわけではありません。
それに、一~二年程度で再会できるのであれば、それに越したことはありませんから」
結局、ヴェスリーは二つほど条件を出し、それで納得すると言ってくれた。
一つは、俺が西の国境から戻ってきた後、帝都を離れて仕事に行く際は必ず相談すること。
それともう一つ
「絶対に、私を裏切らないで下さい」
それが今しがた決めた事を守れという話なのか。
それとも、彼女に対し誠実であれという話なのか。
おそらく後者だろうが、俺は二つ返事で彼女の条件を飲むことにした。
その際、一瞬、アギレットの顔が頭をよぎった。
西での仕事を終え、ドミナ降臨を上手いことやり過ごせば、俺はおそらく二十歳になっていることだろう。
いい加減、そろそろ考えなきゃいけないと思う。
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「こんなところにいたのか、伯爵」
俺や祖父の企みについての話。
そして、言葉の隙間から漏れ出る人間関係についての心情の吐露。
緊張を含むやり取りが終わり、気楽な雑談に移って少しした頃、サイファ公爵が俺たちの姿を認めて近づいてきた。
サイファ公爵の顔からは先ほど見せた笑顔が消えている。
「すいません、公爵閣下。
ご令嬢と少しお話したいと思いまして、私が連れ出したのです」
「娘を庇う必要はないのだ、伯爵。
大方、うちの娘が我侭を言ったのだろう」
「いえ、本当に、私の方から連れ出したのですが」
俺と話ながら、サイファ公爵はヴェスリーを睨みつけた。
「あら、お父様。
私が婚約者殿とおしゃべりすることに、何の問題がありますの?」
「……最近はしおらしいと思っていたが、そう簡単には変わらぬか」
そうじゃないだろう。
ヴェスリーの言は、挑発じゃなくて、ただ甘えているだけだ。
彼女が相手に対し真に嫌悪した時は、言葉よりも先にきつい睨みを浴びせるのだ。そんなこと、俺にわかるぐらいなのだから、父親だったら理解しているだろう。
「……」
父親から突き放され、ヴェスリーは黙ってしまった。
会場の隅、三人の間に微妙な重い空気が流れる。
「伯爵、少し場所を変えようか。
大事な話がある」
「はい」
ヴェスリーは顔を逸らし、黙ったままだ。
「ヴェスリー、ちょっとお父上とお話してくるよ。
また後で」
「ええ」
この重い空気を彼女から遠ざけるため、俺はサイファ公爵に連れられて別室へ入った。
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「本当に、あれは我侭な娘だ。
伯爵にも迷惑をかけておろう?」
「いえ、そのようなことはありません」
別室に連れ込まれた俺は、サイファ公爵とサシで話すことになった。
「さて、伯爵。
例えばの話だが、仮に今、君とうちの娘との婚約を破棄したら、君はどちら側につくかね?」
いきなり何を言い出すんだ。
婚約の継続は、俺が軍務次官派に鞍替えすることで話がついているはずだ。
今回のことで世間にも公表したのだ。この期に及んでこの男は一体何を考えている。
「実はな、まだ表には出ていない話なのだが、軍務大臣殿下の奥方が亡くなられた」
「専制公妃が?」
「そう、難産でな。
生まれた男児も死産だったそうだ」
以前、軍務大臣――皇太孫の結婚式に出たことがある。
花嫁はとても可憐な少女だった。
……あの花嫁が亡くなったのか。
まだ、若かっただろうに。
「そこで、新たな専制公妃を立てる必要が出てきた」
「皇太孫殿下がヴェスリーを望まれているのですか?」
「いいや、殿下はショックのあまり臥せっておられる。
もう当分結婚する気にはなれぬと仰せだ。
だが、殿下個人のお考えは関係ない。
君主には世継ぎを儲ける義務があるのだからな」
なるほど、これは踏み絵だ。
ヴェスリーを軍務大臣の令夫人、そして将来の皇后にすることが出来れば、軍務次官派の大きな躍進となる。
俺が真に、軍務次官派に忠誠を誓うのなら、ヴェスリーを諦めてしかるべき、ということなのだろう。
「私は……」
言葉が出ない。
ここは「断腸の思いだが、我々の利になるのなら身を引く」とでも返すのが模範解答だろう。
だけど、言葉出なかった。
今さら、ヴェスリーを諦めることなどできるわけがないだろう。
「娘を連れて、宰相と和解にでも行くかね?」
サイファ公爵はまっすぐ俺を見据えている。
一方、俺はすぐに目を逸らした。
軍務次官派に潜り込むと決めた以上、行動に出た以上、ここで引くわけにはいかない。
しかし、皇太孫――あの脂肪の塊にヴェスリーをくれてやるなど、絶対に無理だ。いや、皇太孫自体悪い人間じゃないのはわかっているが。
チラと、再びサイファ公爵を見る。
彼はずっと俺を見つめたままだ。
脂汗が額ににじむのを感じる。
「冗談だ」
「は?」
「例えばの話と言っただろう。
冗談だ。
しかし、これで君を信用することができた。
娘をあてがっておく限り、君は我々の側につくのだろう?」
「お戯れが過ぎます」
「ひどい汗だな。
茶でも飲んだらどうだ」
部屋に入った時点で出されていた紅茶に、俺はようやく気づいた。
公爵の言葉を合図に、紅茶を一気に飲み干す。
「先ほどは軍務大臣殿下のお考えは関係ないと言ってみせたが、実際はそうもいかぬ。
今のところ殿下は中立のお立場にあるが、軍務大臣就任のいきさつからして宰相派寄りの中立だ。
強引に事を進めて殿下の勘気を被る事態は避けねばならぬ。
殿下の妃には我が家の遠縁の女子を推薦させていただくに留めておくとして……しかし、これもまた宰相と競争になるわけだな」
その後、サイファ公爵による我が祖父の悪口を延々聞かされることになった。
「新しい専制公妃についても、どうせ姑息な政治工作を仕掛けてくるのだろう」
「最後は陛下を動かして強引に事を進める違いない」
「本当に強引で強権的で、陰気な男だ」
「君側の奸とは、まさに宰相のためにある言葉だ」
最後の方は「だいたい、あの男の、何を考えているかわからぬニヤケ面が気に食わぬ」と、もはや子供の悪口レベルのことを言われた。
それに対し、俺は「ご尤もです」「その通りです」といちいち頷いてみせる。
サイファ公爵が自己の心情――祖父への悪感情の爆発を俺に見せているのは、先ほどの言葉通り、俺を信用しているということだろうか。
しかし、俺はヴェスリーのこととなると嘘をつけなかったというのに、祖父への悪口に対しては自分の心情を隠し、取り繕うことが出来ている。
不思議なものだ。
俺がお爺ちゃん大好きっ子であることは間違いないのだが。
「ああ、どうも気持ちよくしゃべりすぎてしまったようだな。
本題に入ろう」
「えっ」
今までのやり取りが本題ではなかったのですか。
これからが本題だというサイファ公爵の言葉に、俺はひどい疲労感を感じた。
=============
疲労感の中、身構えて本題に入ったものの、その話自体はすんなりと進んでいった。
本題とは、俺の士官学校卒業後の進路のことである。
目下、西部方面軍への赴任を望む俺にとっても、一番の気になる話題だった。
最初、サイファ公爵は中央方面軍への配属を打診してきた。
「君は士官学校の進路面談で部隊指揮官を希望したと聞いている。
中央方面軍に席を用意しているのだが、どうかね」
その提案に、俺は否と答えた。
「確かに、私は部隊指揮官になることを望んでいますが、同時に前線へ出ることも希望しています」
祖父との抗争を経て半減した軍務次官派の実戦部隊。
現在、サイファ公爵の手中にあるのは、中央と西部の二個方面軍だ。
その中でも、中央方面軍はサイファ公爵の子飼いの部隊である。司令官以下、中堅幹部から、はたまた末端の兵士に至るまで、サイファ公爵を支持しているらしい。
『中央方面軍は捨て置く』
今後の方針を決めた、祖父との密議を思い出す。
『今は、捨て置く。
あれを我々の側へ引き入れることは、一年や二年そこらでは無理だ』
『ですが、よろしいのですか。
遠い前線にいる他の軍とは違い、中央方面軍は本国に駐屯しています。
近い分だけ、より直接的な脅威です。
サイファ公爵にとっては強力な武器であり、お爺様にとってはより強い圧力です』
『そのために近衛軍を押さえた。
それと、儂に考えがある。
だから中央のことは儂に任せて、お前は安心して西へ行くといい』
『わかりました』
『よろしい。
任せる以上は、しっかりと結果を出してくるのだ。
もちろん、助けが必要な時は儂も最大限努力しよう。
だが、お前はもう正式な軍人、一人前の人間として世に出るのだ。
これまでは儂が保護者、お前が被保護者である場合が多かった。
これからはお前を対等な仲間、対等な同志として扱う。
お前に期待し、儂がお前に頼ることにもなるだろう』
期待されている以上、俺はその期待に応えなきゃいけない。
まずは、俺が西部方面軍へ赴任することを、祖父に頼ることなく実現したい。
実際問題、軍の外にいる祖父よりも、表向き軍務次官派に潜り込んだ俺の方が、軍の人事決定へ関与しやすい立場にもある。
もちろん、それは今、目の前に座っている男を通してのことになるが。
「叶うことなら、私は西部へ赴任したいと考えております」
「西か」
「はい。
先ほど申し上げたとおり、前線に出たいという気持ちもあります。
それと同時に、私なりに我が派全体の利も考えました。
現在、西部方面軍の司令官は閣下のご一門の方が就いておられると伺っています」
「ゴルツか。
確かに、彼は私の又従兄弟に当たる男だ」
「はい。
しかしながら、いささか失礼かとは思いますが、西部方面軍が中央方面軍と同様末端の兵士に至るまで閣下を支持しているかと言えば疑問を抱く余地もあります」
だからこそ、切り崩しが可能と考えたのだ。
「客観的に見るに、私自身は非才の身なれど、私の皇族としての立場、そして閣下の娘婿であるという立場は、西部方面軍の完全な掌握に役立つのではないかと思うのです」
「その立場を武器に、未だ中立を決め込んでいる中堅幹部や兵士たちを味方へ引き入れることができると?」
「その一助にはなるかと」
サイファ公爵は目を閉じ、しばし黙った。
俺の提案について検討しているようだ。
「……万が一にも、君に戦死されては困るのだがな」
「大丈夫、これでも悪運は強い方です。
それに我が家には優秀な従士が揃っています」
公爵は腕を組み、目を閉じたままだ。
もう一押しいってみるか。
「閣下、私は若輩者です。
しかし、自分で言うのも何ですが、そういった政治工作や宣伝の類は苦手ではないのですよ。
セエレ殿下……いや、今は庶人ですか。
彼の一件を思い出して下されば、ご理解いただけると思います」
ここで、公爵が目を開けた。
「よかろう。
条件をつけるが、概ね君の希望どおりに手配しよう」
公爵が出した条件とは、俺を西部方面軍の司令部が置かれているサミンフィアへ配属させるというものだった。
西部国境を構成するいくつかの砦や城塞の中でも、一番堅固な城壁を持つサミンフィアなら、安全度が高い。それが理由だ。
西部への赴任を勝ち取れるのならば、こんなものは条件でも何でもない。
俺は即座に条件を受け入れた。
ここまでが本題だ。
先ほどの、婚約破棄云々と言われて試された時とは違い、すんなりと話がまとまった。
俺が西部へ赴任することが、サイファ公爵の利益と相反しないことが大きな理由だろう。
それに、彼を納得させるための台詞を用意していたことが功を奏したのかもしれない。
だから問題は、本題が終わった後の、何気ない会話に混ぜて繰り出されてきた不意打ちの方だった。
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「それでは、伯爵。
君は来年から西部方面軍の百人隊長ということになる。
君が宣言した言葉どおりの働きを期待している」
「はい。
……はい?
百人隊長ですか?
私が?」
通常、士官学校の卒業生は十人隊長として配属される。
だたし、卒業席次の上位十名には、百人隊長としての地位が与えれるのだった。
「当然だろう。
君は学年首席で卒業するのだからな」
どうやら、十位どころの話ではないならしい。
しかし、何とまぁ、おかしな話だ。
今は十月。
卒業席次が決まる三年次最後の試験まで、あとニヶ月はあるというのに。
「何を不思議そうな顔をしている。
先ほど自分自身で言ったとおり、君は皇族であり、私の婿なのだ。
首席に決まっているだろう」
「は……」
身分や立場のことを言われれば納得だが、それでもモヤモヤする。
人生を再スタートさせてから早十八年。
前世で蓄積した記憶と知識の分、幼い頃は神童ともてはやされた俺だったが、歳を重ねるごとにそのアドバンテージは小さくなっていった。
今では同世代の本当に頭の良い生徒たちに追い抜かされてしまっている。かろうじて上位の成績を保っていたが、学年十位には到底及ばないであろうというのが本当のところだ。
「しかし、まだ試験が残っている段階ですが、そこまで仰られてよろしいのですか?」
「順位がわかってしまったから、試験の手を抜くかね?」
「いえ、そのようなことはいたしませんが……」
「伯爵は普段どおりにやればいい。
最後の試験といっても、内容はこれまでのまとめだ。
例年、最後の試験の結果を以って、卒業席次が大きく変わることはないとも聞いている」
「閣下は随分と評価基準の事情に精通しておられますね」
「ああ。
私も卒業生だしな。
術士クラスへ移ったが、娘もそうだ」
ヴェスリーのために、士官学校のことを調べたのだろうか。
だとすると、どうもサイファ公爵の人となりを見失ってしまう。ついさっき、その娘を冷たく突き放したというのに。
「……セエレ殿下も、な」
「……」
広々とした部屋の中に、微妙な空気が流れる。
その空気から逃げるため、俺は話がそれたという名目で、話題を移した。
「先ほどの話ですが、最後の試験によって卒業席次が大きく変わることがないということは、今の時点である程度の席次が決まっているということでしょうか」
「ああ、そうだ」
「それでは、私以外の生徒たちの成績も?」
「うむ。
伯爵は学友たちの成績に興味がおありかな?」
「ええ、そりゃ、もう」
「そうか。
実はこんなものがあるのだが」
ただの話題そらしだったが、公爵の反応は意外なものだった。
公爵が懐から取り出した紙切れに目を通すと、そこには卒業席次であろう士官学校生徒の名簿が記されていたのだ。
何のためにこんな名簿を持っているのかと首を傾げたが、よくよく考えれば答えは簡単だ。自分の力でハイラール伯爵を学年首席にしてやった、という証拠を見せてやらないと、恩を売ることができないからだ。
この場合、今この時期に名簿を見せることが、その証拠となる。
「ああ、本当ですね」
首席:ハイラール伯爵シトレイ・アンデルシア
学年首席で嬉しいか、嬉しくないかと問われれば、それは当然嬉しい。だが、それが実力ではないと俺自身わかっている。サイファ公爵も明言した。
やはり、モヤモヤとした気分になる。
次席:アスタルテ・ラプヘル
恐らく、彼女が本当の首席なのだろう。
彼女も俺と同じ、前世の知識を使うというズルをしているのだが、それでも彼女の実力は本物だ。
コネで首席の俺とは違う。
俺が首席だと知ったら、彼女に何て言われるだろうか。
きっと、俺の実力を冷静かつ的確に見抜き、最低の恥知らずの卑怯者とでも罵られるのだろうな。その様子が簡単に想像できる。それでも悪い気分にはならないのは、俺が批難されても仕方ないと自覚しているからか、あるいは俺に若干のMッ気があるからだろうか。
三位以下は、名前は知っているが顔が思い出せないような、あまり交流のない他クラスの生徒たちが並んでいた。
……お。
第八位:ラウム・カールセン
あのヴェスリーの腰巾着が学年十位以内に入るとは。
カールセンの父親は軍務次官派の人間だ。先ほどのパーティーで紹介された人々の中にもいた。確か、中央方面軍の軍団監察官だった。その縁で、昔からヴェスリーの取り巻きをやっているらしい。
とすると、カールセンの順位は、俺と同じ不正の結果だろうか。
……いや、あのおべっか男、あれで中々器用だ。
決して首位を取ることはないが、何をやらせても、気づけば二番手あたりの位置にいる。彼の能力を冷静鑑みれば、これぐらいの席次にいてもおかしくない。
「はぁ……」
「どうしたのだ、伯爵」
「いえ、少し自己嫌悪しまして」
彼の能力を冷静に鑑みたのと同じく、自分自身の実力を考えてみる。
興味のある学科は高い成績を維持している。戦略、戦術、軍組織、それに歴史等々。
しかし、興味のない科目は、お世辞にも好成績とは言えない。特に、数学がひどかった。この世界の言葉に慣れる前は、数学こそが得意科目の筆頭だったのだが、それに慢心しサボっていたためか、今では成績が中の下という有様である。
たぶん、今の俺は、ハイラールにいたころよりも数学が苦手になっている。
ヴロア先生が聞いたら泣くだろうな。
実技も同様、種目間の差が激しい。
努力を続けた結果、剣の腕前は上がったし、軍人として耐えうるスタミナはついた。
だが、同じ武器の扱いでも勝手の違う槍術では、何故か昔剣を扱い始めた頃のへっぴり腰が復活していた。
何より、馬術がひどい。
相性なのか、どうも馬の扱いが下手で、何とか馬に揺られるまではできるようになったが、馬を操り野を駆けるなど到底不可能な状態だった。
都の屋敷の厩舎につながれているアーテルは、不甲斐ない主人を見ておそらく泣いているだろう。
こうして自分自身の能力を鑑みてみると、俺の成績は学年二十位から三十位の間といったところか。
数学の勉強を続け、馬を乗りこなせていたら学年十位に届いただろう。
逆に、戦略や戦術の好成績や剣の腕の成長がなかったとしたら、学年の中でももっと低い位置にいたと思う。
こんな俺が、有能なカールセンを軽視しているなんて、おこがましいな。
いや、カールセンのことについては、悔い改めて彼への態度を正せばいい話だ。
問題は、学年十一位の生徒である。
俺が学年首席に割り込んだがだため、学年十位から漏れてしまった生徒だ。俺のために、その生徒は名誉と、百人隊長からキャリアをスタートさせる権利が奪われることになる。
第十一位:スティラード・ブルックス
「……」
「どうしたのだ、伯爵。
溜息の次は、顔色が悪くなったぞ」
「顔色が悪いのは生まれつきです」
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自分のために犠牲になる人間が出てきたとして、それを当然と受け止めることができるのが、ホンモノの貴族なのだろう。
そういう選民意識を理解することはできないが、一方で少し羨ましくも思える。
何せ、自然とそういう考えができるようになれば、ことさら思い悩むこともないだろうからだ。
「というわけで、お前が本来勝ち得るはずだった地位を、私が奪うことになった」
「……」
サイファ公爵邸でのパーティーの後、俺は数日間悩み続けた。
百人隊長として任地へ乗り込むことの利と、友人への不誠実に対する罪悪感が、俺の中で闘っていたのだ。
百人隊長として赴任することができれば、西部の切り崩しにおいても有利な位置からスタートすることができる。何せ、十人隊長と比べ単純に権限が十倍なのだ。
一方、有利なスタートを切ることができた俺は、ずっと心に引っ掛かりを残したまま、戦いに赴くことになるだろう。
結果、俺は利を取りながら、それでいて自分の罪悪感を少しでも拭えるような選択を行った。
「殴っていいぞ」
「え?」
「私を殴ってくれ」
わかっている。
スティラードにとっては意味のないことだ。俺を殴ったところで彼が百人隊長になれるわけではない。彼の気が晴れるわけでもない。
気が晴れるのは、俺のほうだ。
殴られることによって、罰を受けたと思いたいのだ。
そう、これが俺のエゴだということは、わかっている。わかっているんだ。
と、次の瞬間、顔の左側の感覚がなくなった。
「うぼげっ」
俺は吹っ飛び、地面に投げ出された。
一瞬何が起こったかわからず、顔を上げてスティラードの方を見てみる。
彼も彼で、自分が何をやったわからないと言うように、オロオロとしていた。
「あれ?
あ……やっちゃった。
すいません、シトレイ様」
「いや、いい。
殴れと言ったのは私だ」
しかし、すごいパンチだ。
さすがは学年十位。体術の心得もバッチリというわけか。
「もちろん、殴られて終わりだとは言わない。
補償というわけではないが、私にできることなら何でもするよ。
これでも、私は貴族だし、軍務次官閣下の娘婿(予定)だ」
「しかし、シトレイ様」
「『様』はやめろ」
「……シトレイ。
何故、そこまでしてくれるのですか?
卒業席次の話、シトレイが黙っていれば、自分が知ることはなかったでしょう。
黙っていれば、殴られる必要も、補償する必要もないはずです」
「罪悪感から逃れたいだけだよ。
君もそうだとわかったからこそ、殴ってくれたんだろう?」
「……」
「だから、欲しいものは遠慮せずに言ってくれ。
それで、私は救われる」
スティラードはしばらく考え、そして要求を口にした。
「以前、話したことがあるかもしれませんが、自分の父は故郷のご領主様に従士としてお仕えしています。
そのご領主様が……嫌な奴なんです」
「なるほど、ではその領主を失脚させればいいのだな」
「違います、違います!
ご領主様をどうこうなんて、そんな恐れ多いことは考えていません!
ただ、このままだと、自分は父の後を継いでご領主様にお仕えすることになります。
自分は、できればそれを避けたいのです」
士官学校を卒業し、何年か軍務に服す。
その後、父が引退する時期を見計らって予備役へ回る。軍籍はそのまま、父の後を継いで従士になる。
それがスティラードの将来設計だった。
ただし、その将来を、彼自身は望んでいない。
「シトレイが自分の望みを叶えてくれるというのなら、卒業後、自分が都に残れるよう取り計らってほしいのです。
田舎出身の平民にとって、都で公務なり軍務なりで国に仕えるということは、大変名誉なことなので。
それが叶えば、自分は親を説得することができます。
婚約者と都で結婚して、ゆくゆくは両親も呼び寄せる。そうすれば故郷へ帰らなくて済みます」
なるほど。
であれば、我が家の家臣として召し上げるか。
都の屋敷詰めの家臣とすれば、都に住むことになる。故郷との関係で彼が不利な立場になった時は、ハイラールの領地にかくまうこともできる。
いや、だめだ。
都の屋敷は規模を縮小中だ。俺が卒業するのと同時に、ほとんど閉鎖する予定でもある。
それに、他の貴族の家に仕えるくらいなら、故郷へ帰ってこいという話になるだろう。
となると、やはり、彼が軍務として都に配属されるようサイファ公爵を動かすことが一番か。
……いや、それよりもいい方法がある。
「近衛軍にツテがある」
「近衛軍!
もし自分が近衛軍に配属されたら、故郷の皆に自慢できますよ!
両親を説得するのだって楽になります」
サイファ公爵に頼むとなると、おそらく軍務次官派の息がかかった中央方面軍か軍務府の部局への配属になるだろう。
いずれ軍務次官派は解体する。その時のいざこざに、スティラードを巻き込みたくなかった。
それに、サイファ公爵にあまり借りを作りたくないという理由もある。
俺は軍務次官派に参加していることになっているのだから、自派のボスに頼るのは自然な流れだ。それでも、借りを作りたくないのは、俺の心情的な問題ではあったが。
「ありがとう、シトレイ」
こうして、俺は友人を無くすことなく、学年首席の地位を得ることができたのだった。
……と、この時は思っていた。
後に振り返ってみると、この時既に俺とスティラードの友情は失われていたのではないかと思う。
近衛軍という赴任先は、魅力的な提案だ。
だけど、それと引き換えに、幼年学校から六年間の、努力の成果を捨てろと言われたのだ。
何より、貴族の俺が、平民の彼へ頭を下げてのことである。
彼からしてみれば、断れるはずがない。
俺が殴れと言った瞬間、彼は俺を殴り飛ばした。
それが、彼の本音ではなかったか。
彼は本音を吐露したことに自分自身戸惑っていたが、後に冷静になり、俺の提案を受け入れるという大人の判断を下したのではないか。
貴族という強者には従わざるを得ないという、彼の判断。
友情よりも自らの利益を優先した、俺の判断。
俺とスティラードはそれぞれ大人の判断を下した。
だが、残念ながら、俺とスティラードの友情は、大人になってからも続く類のものではなかったのだ。




