#068「我慢し続けている男」
「問題。
ドミナ様は、いつも決まったメニューの朝食をお召し上がりになりました。
では、その朝食のメニューは?」
最近、休日の度にアスタルテを我が家へ招いている。
彼女を招いて何をやっているかというと、女神ドミナについての勉強会だ。
「クロイスパンを一個、サラダ、ポーチドエッグ、それと林檎を半分。
飲み物は濃いめの紅茶」
「……正解」
こうやってクイズをしたり、読書会だったり、形式は様々だが、アスタルテが講師、俺が生徒という形で、勉強会を行っている。
目的はドミナのことを、それも些細なことであっても、彼女のことについて知るためだ。
「……しっかり勉強してるみたいね
感心、感心」
「そりゃあ、そうさ。
人類の未来のためだ」
ドミナのことを知る目的は、ドミナが降臨した際、彼女に好意的印象を持ってもらうためである。
好意的印象を持ってもらい、俺たちの願いをかなえてもらう。
それが、目的だ。
人の魂が消える(行方不明になる)という、目下起きている大問題。
これに対しては、俺や祖父も、天使たちと同様静観するしかなかった。
何せ、輪廻転生に関わる話である。
それは、神の領分で起きている問題だった。
天使たちですら解決法が見出せない問題を、人間である俺たちがどうにかできるとは思えない。
極端な話、人間が術を使わなければ、これ以上人の魂が消えることはなくなるだろう。
しかし、それは無理な話だ。
術は我が軍だけではなく、敵軍にも広く普及している戦闘技術である。
仮に我が軍が術を捨てたとしても、敵軍が使い続けるだろう。
それに、我が軍に術の使用を禁ずること自体難しい相談だ。
祖父を経由して皇帝や軍務大臣から命じれば、あるいは強制することができるかもしれない。だが、それは術を使い続ける敵を相手に、丸腰で戦えと命じることと同じなのだ。
軍の反発は必至だ。
そこまで行くと、もはや宰相派だとか軍務次官派だとかいう派閥次元の対立は吹っ飛ぶだろう。
軍の幹部たちは、戦略面での考えが異なっていても、兵士たちの命を預かっているという認識は共通している。
サイファ公爵はもとより、エレオニー公爵も、ロアノン男爵も仲良く手を取り合って、祖父と対立するに違いない。
下手したら、ドミナが降臨する前に、俺も祖父もこの世から旅立つことになる。
術を禁ずることは、現実的には不可能だ。
そうなると、結局、解決策はドミナにお願いすることしかなかった。
ジブリアが言うように、ドミナが太祖アガレスにしか関心を持たなくなったというのなら、望みはある。
俺や祖父は、その太祖の生まれ変わりなのだから。
「ええ。
ドミナ様は、貴方の努力をきっと認めて下さるわ」
アスタルテの抑揚のない口調にも、幾らか明るさが混じっていた。
ジブリアと激論を交わし、傷ついていたように見えた彼女も、すっかり気を持ち直している。
アスタルテは信仰を捨てなかった。
人の魂が消えるという現象について、その意図を、ドミナ本人から聞いたわけではない。
もしかしたら、ドミナにとって思いもよらぬ、術の副作用なのかもしれない。
皇帝レラジェに与えた特殊な術だって、あくまで国を守るために与えたものであって、その効果や代償まで把握していなかったのかもしれない。
あの特殊な術は、ドミナが行方不明になった後、初めて放たれた術なのだ。
端から見れば、随分と都合の良い、都合の良すぎる希望的観測だろう。
アスタルテの主張だけではない。
祖父の言った、伯父の魂が消えたとは限らないという、言葉もそうだ。
俺と祖父が希望を見出した、ドミナに願えば解決する、という考えだって同様かもしれない。
だけど、そう思わないと、前に進まない。
相手は神だ。
絶望しようと思えば、無限に絶望できる相手なのだ。
「さ、続けましょう。
次の問題。
ドミナ様が好んでお召しになられていた下着の色は?」
「黒。
さらに言えば、左右の腰の辺りにニードルレースが入った、絹の下着だ」
「大正解」
講師は天使だ。
ドミナについて勉強する上で、これ以上の教師はいないだろう。
おかげで、今の俺は、女神様のパンツの色まで知っている。
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「お久しぶりです、リュメール、ログレット」
都の屋敷の応接間。
今、俺の目の前には、我が家の領地を預かる重臣二人が立っていた。
俺が国元から、二人を呼び寄せたのだ。
アスタルテとの勉強会が、ドミナとの交渉を成功させるための準備――前向きな考えを基にした準備だとすれば、重臣たちとの再会は、後ろ向きな考え――つまり、交渉が上手くいかなかったときのための準備といえるだろうか。
「シトレイ様……いえ、伯爵様。
しばらくお目にかからないうちに、真にご立派になられまして……」
寄る年波には勝てないようで、老リュメールは随分と老け込んだように見えた。
頭は真っ白に染まり、皺も増えた。腰は曲がっていなかったが、小さく見えるのは歳を取ったからか、あるいは俺の背丈が伸びたからだろうか。
「伯爵様、お久しぶりでございます。
お元気そうで何よりです」
ログレットも歳を取ったように見える。
だが、こちらは脂が乗った、という表現が正しいだろう。
鍛えられた身体を誇る我が家の従士筆頭は、中年に差し掛かりながらも、衰えとは無縁なようだ。
「ええ、元気にやっていますよ。
二人も元気そうでよかった。
ああ、この前ロノウェに会ったのですが、彼も元気にやっていました」
老リュメールにとっては孫、そして、ログレットにとっては婿になる男。
軍人になると言い出した俺よりも、よほど才能があるらしく、幾多の戦場を生き残り、順調に出世している。
「とても、頼りがいのある男になっていました」
俺は二人に、戦場でのロノウェの様子と、彼に助けられた話を聞かせた。
「孫は役に立ったのですね」
ロノウェがこの場にいて、共に再会を祝うことができたら、それ以上に喜ばしいことはないだろう。
だが、彼は軍人だ。
軍務に服す以上、家族であっても容易に会うことができない立場にある。
そして、もう八ヶ月ほどすれば、俺も同じ立場に立つ予定だった。
「孫は、腕力に優れているわけでもありません。
幼い頃から、調子に乗りやすい性格でもありました。
戦場で命を落とすか、あるいは伯爵様にご迷惑をおかけするのではないかと思っていたのです。
少しはマシになったというところでしょうか」
本人のいないところで、孫に辛口の評価を下す老リュメールだが、その口調や表情から嬉しさを隠しきれないでいた。
「命を助けられました。
彼は忠臣ですよ」
嬉しそうに頷く老リュメール。
ログレットはログレットで、「娘が選んだ男ですから」と相槌を打つ。
「そうだ、ログレット。
私の剣の腕なのですが」
自分からロノウェの話題を出しておいて何だが、ロノウェだけではなく、俺も褒められたくなった。
そこで、一番わかりやすい成長の証である剣の腕前について話を振ろうとしたのだが、俺の言葉はトントンというノックの音にかき消されてしまった。
「セバステ様がお越しです」
メイドが告げたのは、この都の屋敷を仕切る家臣の名前である。
老リュメールとログレットの二人が国元家臣のリーダー格とすれば、セバステが上方家臣の中心人物、といったところだろうか。
ちなみに、以前、アギレットやフォキアと再会した際、彼女たちの前にはだかり、嫌味を言った家臣でもある。
いや、嫌味と断ずるのは、気の毒かもしれない。
彼は、主君の藩籬としての役割を担っただけだ。
「セバステが来たので、ここからは仕事の話です。
敬語をやめますが、気を悪くしないで下さい」
「伯爵様、何度も申し上げますが、我々に敬語を使う必要はありません」
家臣に対し、敬語を使わなくなって久しいが、それでも、老リュメールとログレットに対しては別だ。
彼らは、それぞれ俺の帝王学と剣の師匠である。
仕事上はともかく、プライベートな場では、尊敬できる年長者に対し、俺は敬語をやめるつもりはない。
しかし、仕事中はタメ口(命令口調)で、プライベートでは敬語。
おかしな話である。普通は逆だ。
「失礼いたします、伯爵様」
敬語をやめる、やめないの問答もつかの間、セバステが入室してきた。
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「戦が起きるのですか?」
俺の命令を聞いて、真っ先に反応を示したのはログレットだった。
沈黙し、俺の返答を待つ老リュメールもセバステも、恐らく同じ疑問を抱いたことだろう。
いや、俺の命令を聞けば、誰だってそう思うはずだ。
俺が命じたのは以下の通りである。
ひとつは都の屋敷の閉鎖。
俺が士官学校を卒業した後、都の屋敷の大部分を閉鎖し、家臣たちを国元へ帰す。
都へ残るのは最低限の連絡要員だけの予定だ。
次に、ハイラールの街を囲む城壁の建設。
現在、害獣避けの簡易な木の柵しかないハイラールを、石と土塁で出来た城壁で囲むのだ。
建設にかかる諸々の費用は、都の屋敷閉鎖によって浮いた屋敷の維持費、領主の貯蓄および個人収入を充て、さらに屋敷の調度品をいくつか売れば足りる計算だ。
人夫は、農閑期の領民を雇う。農作業が忙しい時期は、祖父が人手を回してくれることになっていた。
最後に、食糧の備蓄。
領内の余剰収穫物はもとより、領外から保存食の購入も行わせる。
「……起きるかもしれない、という段階だ」
戦争の準備。
これは、祖父と相談して決めたことだった。
「あくまで、最悪の事態を考えての準備だ。
起きてからでは遅いのだからな」
ドミナが太祖アガレス(の生まれ変わり)の言葉ならば、耳を傾けてくれるかもしれない。
そこに希望を見出し、ドミナとの交渉に全力を注ぐことを考えた俺と祖父は、同時に、持ち前の臆病さを発揮し、失敗した場合の準備も進めることにした。
例えば、生前の太祖の役割を忠実にこなすことを、ドミナが要求してきた場合。
特に、覇者としての太祖を求められた場合。
俺や祖父は、帝室の嫡流に近いが、決して帝位を伺える立場にはない。
今上アガレス7世には、少々太ましいが、立派な帝位継承者がいる。その弟、セエレの次兄だって控えている。
そんな中で、ドミナが太祖の生まれ変わりに対し、覇者たらんことを望めば、争いは避けられないだろう。いかに神の言葉があろうと、混乱は必至だ。
もしくは、その役割を俺や祖父以外の生まれ変わり、すなわち、セエレに求めた場合。
セエレ本人がやる気十分な以上、悲惨な結果になることは、火を見るより明らかだ。
どちらにしても、最悪の場合、政治情勢の混乱、ともすれば武力を伴った争いが起きるかもしれない。
もちろん、それは仮定に仮定を重ねた話だ。
あるいは、相手は神なのだから、自分の意の沿わないことがあれば、非力な人間など簡単に消し飛ばしてしまうかもしれない。
だけど、事実、過去に二度、ドミナが降臨した際には戦争が起きている。どちらも、ドミナが人間社会の情勢に介入して起った戦争だ。どうも、彼女は、後ろ盾になることはあっても、最終的には人間同士の戦いによって決着をつけさせるやり方を好んでいるようだ。
その、過去二度の過程と実績を、判断材料に加えることは間違いじゃないだろう。
「相手は、サイファ公爵でしょうか」
「ん……」
老リュメールの問いに対し、俺は答えなかった。
まさか、自分たちの信仰する神様に備えるためだ、などとは、口が裂けてもいえない。
「今の段階で、私の口から明言することはできない。
いずれにせよ、これはコルベルン王家としての決定だ。
アスフェンでも城壁の修復工事が予定されている。
これは、私の命令であると同時に、コルベルン王殿下から賜ったご下命でもある」
居並ぶ重臣たちは沈黙した。
「不満か?」
不満だろう。
いかに忠誠心篤い家臣であろうと、彼らは奴隷ではない。自らの意思を以って仕えてくれている人間たちだ。
都の屋敷の閉鎖は我が家の規模の縮小。
戦争準備は、いかに民に配慮したものであっても、負担は大きい。
しかも、その理由を、主が明かそうとしないのだ。抵抗があるに決まっている。
「一つ質問がございます。
伯爵様個人の歳入まで資金に回すと仰いましたが、本当によろしいのですか?」
沈黙を破ったのは老リュメールだった。
「もちろんだ」
「伯爵様の仰った試算では、二年間、伯爵様の収入がなくなることになります。
場合によっては、庶民にすら劣る生活を強いられることになります」
「そんなことは、些細な問題に過ぎない。
それに、私は来年から兵舎暮らしだ。
期限だって、二年に限った話である」
「……かしこまりました。
御意に従います」
歳入を全て充てるという俺の覚悟を知ったからか、それとも、二年という期限に納得したからか、老リュメールは俺の命令に服した。
「わかりました」
老リュメールに続き、ログレットも賛意を示す。
「伯爵様。
これはつまり、上方の家臣が国元の家臣に合流するということでしょうか」
我が家の家臣団には、上方と国元の間に競争意識がある。
セバステの質問、もとい不満も、織り込み済みだ。
「合流するが、仕事は別々にしてもらう。
後ほど詳しい工事計画書を渡すが、上方家臣は、ハイラールの街の東側城壁を担当してもらう。
国元家臣が西側だ。
先に完成させた方に、褒美を取らせる」
本当は、上方も国元も仲良く協力して作業できるよう、上手い方法を考えなくてはならないのだろう。
だが、今のところ、その上手い方法というものが思い浮かばなかった。
それに、時間は限られている。
ならば、逆に競争意識を煽ったほうが、上手くいくのではないだろうか。そう思っての指示だ。
根本的な解決は、もっと余裕をもって、時間をかける必要があるだろう。
何しろ、上方と国元の関係は、父の代から続いているのだ。一朝一夕には解決できる類の話ではない。
「わかりました」
これで、家臣たちの同意を取り付けることができた。
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「首尾は?」
「上々です」
俺と祖父を乗せた馬車が、都の大路を進む。
祖父が好んで使う馬車、広くて大きい鉄製の馬車だ。ソファはフカフカで、氷を用いた冷蔵庫も用意されている。
この馬車の中なら暮らすのもアリだ、と思えるぐらい快適な造りだった。
何でも、今乗っている祖父の馬車は、既製品としては最高級のものらしい。
馬車にもグレードがある。
資金集めのために、我が家の馬車を何台か売ったのだが、その時に知ったのだ。
まるで前世の世界の自動車みたいに、○○社製の何とかモデルの何々パッケージ云々と、カタログを開けば時間を忘れるほど、種類が豊富だった。
落ち着いたら、馬車を趣味にするのもいいかもしれない。
「上々でないと、困ります。
向こう二年間、私の小遣いがなくなるのですからね」
「結構なことだ。
お前が爵位を継いで五年か。
家臣団の掌握はできているようだな。
真に結構」
「ありがとうございます、と言いたいところですが、まだまだです」
ジブリアの話――伯父ヴァレヒルの魂が消えた可能性を知らされて、祖父は随分とショックを受けていた。
それでも、彼は明言したとおり、立ち直った。
現状、ドミナとの交渉に希望を見出すしかない。
そう考え、前へ進んだのだ。
うらやましいほど、気持ちの切り替えが上手いのは、人生経験が成せる技だろうか。
俺が同じ立場だったら、自力で立ち直れるだろうか。自信はない。
その、自力で立ち直った祖父と共に、俺は馬車に揺られて皇宮へ向かっていた。
皇帝と謁見するためだ。
皇帝は国の代表であると同時に、神の子孫アンデルシア一門の当主でもある。
ドミナが降臨した際、先頭に立って神を迎え入れる役割は、皇帝にあった。
だから、祖父は、ドミナの降臨時に皇帝がどのように動くか、探りを入れたらしい。
それもまた、困難な仕事だった。
事実をそのまま、特に太祖アガレスの生まれ変わり云々の話を、そのまま打ち明けることができないからだ。
三年ほど前、俺たちは、その事実を語った人間を、狂人として糾弾した。
今になって、その狂人の証言が事実だと知られれば、皇帝はどう思うか。
自分の弟と、自分の孫。
どちらの味方につくか。
いかに祖父の傀儡と言えど、どう動くかわからない。
そこで祖父は、やんわりと皇帝に探りを入れた。
政務の合間の、何気ない雑談の中で、ドミナを話題に出したのだ。
『もし、ドミナ様が降臨されたら、陛下はどうなさいますか』
国家の繁栄を願う。
ただ、ひれ伏す。
あるいは、相対してみないとわからない。
これら予想していた答えと、皇帝の返事は異なっていた。
「皇帝は言った。
質問したいことがある、と。
父祖が抱いていた疑問を、自分は受け継いだ。
だから、その疑問をぶつけたい、と」
政務の合間で交わされた、雑談だ。
『知りたいのならば、後日、改めて話そう』
そう言って、雑談は打ち切られた。
その後日が、今日だ。
「皇帝は、何か知っているのでしょうか」
「さてな。
あの襲撃犯、ミヒールは皇宮に勤めていたが、セエレだけではなく、皇帝とも接触していたのかもしれない。
だが、心配する必要はない。
今日の参内に関して、皇宮内に不穏な動きはなかった」
「はい」
馬車の窓の向こう、大路の先に、高い城壁に囲まれた建物が見えてきた。
皇宮だ。
しかし、いつ見ても皇宮の正門はでかい。
その大きな正門の向こうに、そびえ立つ天守が見えた。
皇宮の天守は、最初に築かれた時から建て替えを行っていないと聞いている。
あの大きな建物のバルコニーで、ジブリアの語った術が放たれたのだ。
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正門をくぐり、庭園を抜けると、謁見の間がある表宮殿へと入る。
ミヒールによる襲撃事件によってめちゃくちゃにされた表宮殿の正面玄関も、今ではそんな事件などなかったかのように片付いていた。
そのまま、俺たちは待たされることなく、謁見の前へと通された。
「ハイラール伯爵も同席するのか?」
人払いをした謁見の間にいるのは、俺と祖父、そして皇帝だけだ。
皇帝の枯れた皺顔は、表情の変化を見せなかったが、それでも、声色から困惑気味な様子が感じられる。
「ハイラール伯爵も、陛下にお話を賜りたいと申しておりまして。
同席が許されぬとあらば、退室させますが」
「いや、無用だ。
ここでハイラール伯爵を下がらせたとしても、コルベルン王から話がいくのだろう」
皇帝は興味なさそうな、諦めたような声色で同席を許可してくれた。
「ドミナ様への質問についての話だったか。
よいか、これから余が話すことは、他言無用だ」
皇帝の言葉は、俺たち二人に対してというよりも、俺に対してのみ釘を刺しているように感じられた。
「……ドミニアの大聖堂に、封印の間という部屋がある。
我がアンデルシア一門の聖廟の奥にある部屋だ」
そんな場所があったのか。
ドミニア大聖堂には何度か足を運んでいるが、初耳だ。
皇帝や祖父の説明によれば、封印の間は新しい皇帝が即位し、聖地詣でを行った際に開かれる場所らしい。
入れるのは皇帝ただ一人だという。
「部屋と言ったが、中庭といったほうが適当だろう。
中は天井がない開けた空間でな。
見事な庭園であった。
皇帝以外の人間は入れぬというのに、手入れが行き届いていたのだ。
庭園の真ん中には大きなスギの木が立っていて、その根元に、棺のような大きな石の箱が置いてあった」
その石棺を開けると、今度は鉄で出来た碑文が入っていたという。
「そこには皇帝アガレス二世とベリアル一世の連名で、『禁術』が封じられた経緯が書いてあった」
封じられた経緯は、以下の通りだ。
神の子レラジェ一世が禁術発動によって崩御した後、後を継いだ皇帝たちは禁術の強大さに恐れおののいた。
碑文曰く「我が家に破滅と虐殺者の汚名」を着せるであろう術を使うことはかたく禁じる。
しかし、一方で、神から与えられた術を破棄することはできない。
だから「人が使うにあるまじき術を与えた真意を、母に問うてくれ」と。
皇帝が言う、父祖から受け継いだ疑問。
それは、まさに天使たちが抱いた疑問と同じものだった。
「……時に、コルベルン王は、術を使ったことがあるか?
いや、この碑文の話ではない。
普通の術だ」
「成人の儀の後、好奇心で一度だけあります。
ですが、それきりです。
もう、半世紀以上も昔の話ですな。
陛下もご存知のように、儂はその頃から政治家を目指していました故」
「そうか。
となると、もう、術を放つ感覚は思い出せぬか」
成人の儀で術の才能が無いとわかり、軍人を目指すわけでもなければ、実際に術を使うことなどないだろう。
放ったら放って、数日ぶっ倒れてしまうのだ。
術は、特に軍事において根付いていたが、接点がない人間にとってはその程度の存在なのである。
「では、ハイラール伯爵はどうか」
「私は、士官学校に在籍しておりますので、何度かございます」
「そうか。
では、そなたはわかるであろう?
術を放つ瞬間の、ひどい頭痛を」
術を放つ寸前。
血管がドクドクと脈打ち、頭が割れそうになる。
「わかります。
あの感覚は……好きなれそうにありません」
「であろうな。
あの感覚まで行けば、術を放つのは目前だ。
逆に言えば、あのひどい頭痛から開放されたいがため、術を放つ。
では、な。
あの感覚のまま、術を放たずに我慢したことはあるか?」
そんな無意味なこと、したことはない。
「放つのを我慢、ですか……?
ありません」
そもそも、術を放つために集中し、あの頭痛を迎えるのだ。
そこで放たずに、我慢する理由がない。そんなもの、無意味だ。
無意味だが……。
「陛下、もしやとは思いますが……」
「コルベルン王は、好奇心で術を放ったと言ったがな。
余に言わせれば、好奇心こそ身の破滅だ」
今上アガレス七世の在位は、四十年におよぶ。
「慣れとは怖いものだな。
いっそ、放ってしまえば楽になると何度思ったことだろうか」
碑文には、禁じるとは書いてあったが、同時に破棄することもできないと書いてあった。
そう、禁じると同時にやり方も書いてあったのだ。
やるなと言っておきながら、やり方を懇切丁寧に教えているのだ。
何と意地悪な碑文だろうか。
今上皇帝は、その意地悪な誘惑に負けてしまったらしい。
「……陛下。
お聞きしておいて何ですが、よろしかったのですか。
我々にこのような話をされて」
祖父の質問に対し、皇帝は明確に答えた。
「かまわぬ。
そなたらに話すことが、余にとって不利にはならない。
そなたと協調してこそ、余は長く帝位に留まることができる。
今に始まったことではあるまい」
皇帝の考えには、一本の筋が綺麗に通っていた。
つまり、保身に全力投球するという考え方だ。
それが、地位であっても、生命であっても、皇帝は失うことを恐れ、その回避に全力を注いでいた。
============
「……セエレを処分しておいたほうがいいかもしれません」
皇宮から帰る途中、再び馬車の中。
俺は、セエレを殺すことを祖父に提案した。
「どうした、藪から棒に」
「ドミナが降臨した後、皇帝とセエレが結びついたら、やっかいなことになります」
政治にも軍事にも社交にも無関心で、暗君だとすら思っていた皇帝。
それが、どうも違うらしい。
術の発動を我慢しながら、四十年以上の年月を過ごす。
並大抵の精神力ではない。
あの男は、暗愚でも無気力でもない。超人だ。
「皇帝が恐ろしいか?」
「はい」
「術の発動を我慢していたという話は、確かに驚いた。
だが、あの男の性格は昔から知っているが、当人の性格を逸脱する話でもなかった。
皇帝は昔から、陰気で、保守的で、何より保身に情熱を傾けてきた男だ。
ドミナが降臨しても、恐らく本人の言葉通り、『質問』するだけだ。
あとは、自らの命と地位の保障を求めて終わりだろう」
「はい……」
言われてみれば、そうだ。
祖父は、俺などよりも、皇帝の人となりを知っているだろう。
彼らは、七十年近く兄弟をやっているのだ。
「セエレは殺せぬ。
ミヒールの行動は『暴走』だと、天使たちは断じておった。
儂も、ドミナの意図を確かめないまま殺すのは、リスクが高いと思う。
そんな事情がなければ、さっさと処断するところだが、しかし、シトレイ。
不安に目を曇らせてはならぬぞ」
「申し訳ありません」
「いや、いい。
もっと今後のことを前向きに考えよう。
あと二年弱、時間がある。
その間、どうするかだ」
「そのことについて、少々考えたのですが……。
私の進路なのですが、軍人ではなく、もっと別の道を目指しましょうか。
例えば、聖職者とか」
ドミナ様をお慕いするあまり、神へ祈る職へ就きました! というわけだ。
「いや、無用だ。
ドミナに良い印象を持ってもらうなら、軍人の方がよいだろう。
太祖アガレスは、軍事には無能だったが、自らが有能な将軍たらんことを欲していたからな。
ドミナの好意を得るためならば、坊主などになるよりも、太祖の意志を模倣するほうがよい」
軍を率いれば必ず負けた、と評判の太祖アガレス。
それはつまり、その評が残るほど、太祖が自ら軍を率いた――でしゃばったということだ。
ベリアル・サイファをはじめとする有能な将軍たちに恵まれながら、それでも、太祖は自ら軍事的功績を立てることに執着したのだ。そのエゴが、どれだけ無駄な犠牲を生んだことか。
ドミナに並び、神のごとく崇拝されている太祖を、天使たちは「一人の男」と評した。
ただの、一人の人間。
それが真実なのだろう。
大昔の、何個も前の前世とはいえ、我ながら情けなくなる。
「それに、ドミナを迎えるにあたって、国論の統一を図っておきたい。
いざドミナと相対した際、余計なところで足を引っ張られたくないからな。
そうなると、やはり一番邪魔になるのは、軍務次官だ。
儂は、あと二年以内に奴を追い落とす。
中央での、軍務次官との対決は儂がやる。
お前には、その間、地方軍の掌握を任せたい」
俺は、祖父のこの提案を嬉しく感じた。
祖父の庇護が届かない場所での任務は、困難を極めるだろう。
だが、それを任せてくれるということは、祖父が俺を信頼してくれているという証だ。
「わかりました」
「うむ、期待している」
『期待に応えたい』という言葉が頭に浮かんで、ハッとした。
期待に応えたい――褒められたい。
一番最初に軍人を目指すと決めた動機も、確か、そんな感情だったと思う。
「任せて下さい」
やっと、しっかりとした自覚を持つことができた。
父を亡くした後、俺は祖父に、「父」を感じていたのだ。
「ああ、シトレイ。
話が変わるが、お前、硝石を買い集めているそうだな」
「は?
はぁ、ええ、まぁ……」
皇族が硝石を買い集めている。
その情報だけで、価格の上昇に寄与するだろう。
だから、俺が買い集めているとバレない形で硝石を集めていたのだが、どこから情報が漏れたのだろうか。
「一部の商会が悲鳴を上げている。
何に使うかわからぬが、少し手加減しろ」
「すいません……」
「必要なら協力してやりたいが、儂も為政者として国政を預かる身だ。
身内以外にも、気を配らねばならぬ」
「心得ております。
大丈夫です。
向こう二年間は、資金に余裕がなくなりますので」
「父」は、何でもお見通しだった。
登場人物のうち禁術が打てそうな人まとめ
シトレイ
祖父アーモン
兄アーモン
アガレス七世(今上)
アルカエスト専制公アガレス(皇太孫)
アンドレアス(皇太孫の弟、セエレの次兄)
セエレ
帝都大司教枢機卿(成人の儀でシトレイの術能力を見てくれた人。今後出番の予定はありません)




