#066「壮大な話」
人口公称百万人を誇る、大陸南岸最大の都市、帝都。
あるいは、ただ単に都と呼ばれているこの街は、正式にはバアルバーグという名前を持っている。
バアルの城の名は、太祖アガレスの養父バアル・アンデルシアに由来するものだ。
太祖アガレスは、ドミナ教圏北西部の中堅貴族の家に生を受けた。
母親は当時の強国アルカエストの国主バアルの姪であり、決して低い家柄ではなかったのだが、有力な領主でもなかった。
太祖が幼い頃、彼の両親は大国間の紛争に巻き込まれ、殺されている。
両親を亡くした後、幼い太祖は大伯父バアルを頼り、アルカエストへ亡命した。
やがて、バアルの遺言の中で後継指名され、その養子となる。
教会が好んで主張するところによれば、帝都にバアルの名を冠したことは、太祖が養父バアルに恩を感じていたことの表れだという。
あるいは、養子に入った太祖は、自らが有力貴族アンデルシア家の正統な後継者であることを強調したかったのだ、と学者連中は主張する。
おそらく両方の理由だろう。
養父の名を冠した都を定めた太祖アガレスだったが、その彼も、都を定めてすぐに暗殺された。
だから、太祖の時代に建てられた建物は少ない。
その、数少ない建物の一つが帝都大聖堂だ。
帝都大聖堂には広い庭園が付随する。
石やコンクリート製の建物が林立する帝都の中にある緑豊かな庭園は、まさに都心のオアシスだ。庭園は一般開放されており、主に老人たちの散歩コースとなっている。
「この木よ」
三ヶ月間の長期研修から帰ってきた最初の休日に、俺とアスタルテは庭園の中にある林まで足を運んでいた。大聖堂の建物に近い一角だが、整備された散歩コースとは離れており、人の往来はほとんどない。
すっかりと暖かく、過ごしやすい季節となった、五月の初め。
立ち並ぶ木々は緑の葉をまとい、所々花を咲かせているものも見受けられる。
「……これが、幸運を呼ぶ胡桃の木」
アスタルテは、緑の木々の中で一際目立つ、枯れ木を指差した。
「枯れているぞ」
「……去年から元気がなくて、肥料をあげたり、色々頑張ったんだけどね。
残念だわ」
そう言うと、アスタルテは小さな革の袋を取り出した。
中には、湿った布に包まれた胡桃が一粒、入っていた。
「だから、最後の一粒は植えるために乾燥させないでおいたの」
「植えるためにとっておいたのは用意がいいが、最後の一粒というのは、いただけないな。
大事な胡桃なのだろう?
もっとたくさん、とっておけばよかったじゃないか」
「確かに、調子に乗ってバラまきすぎたかもしれないわね。
耳が痛いわ。
でも、胡桃はあくまで道具よ。
貴方みたいな、不信心者を改心させるための道具」
「何個か胡桃を貰ったが、私を改心させることは失敗だったみたいだ」
「……ええ。
残念ね」
俺は神様の存在を信じている。
だが、敬っているかと聞かれれば、返答に迷う。
ドミナは、いくつか前の前世の妻だったという。
興味はあるし、悪い印象は抱かないが、それは敬うとはまた違う感情だ。
「残念ね」と言いながら、まったく残念そうに見えないアスタルテ。彼女は、特に俺の様子を伺うこともなく作業を続けた。手で穴を掘り、取り出した胡桃の種子を植える。
木に成長し、実をつけるようになるまで十五年くらい必要だろう。
「……最初はね、二十本ぐらい植えたのよ。
で、守人をつけたの。
代々この胡桃の木を守り、繁殖させなさい、ってね」
「墓守みたいなものか」
太祖の時代に、女神ドミナから与えられた胡桃の木を、守人は代々受け継ぎ、守っていった。神様から直接与えられた使命を、守人の子孫は必死に果たした。
ところが、百年ほどで、胡桃の木は顧みられなくなってしまった。守人の家系が途絶えてしまったのだ。
「数年に一回、様子を見にここへ通ったわ。
と言っても、魂だけの存在だったから、本当に見てただけで、何もできなかったけど」
自然はたくましい。
管理する人間がいなくなっても、胡桃は実を落とし、命をつないでいった。
「胡桃は繁殖力が強いからね。
あるいは、山の中だったら、数を減らすこともなかったのかもしれない。
だけど、ここは街の中。
中途半端に、人間が手を入れる場所よ」
見ると、向こうの方で掃除のおばちゃんが地面に落ちた赤い実をホウキではき集め、地面に広がる赤い実の汁を水で洗い流していた。あの辺りは、ベリーの木が生えている場所だ。
ああやって、落ちた胡桃も発芽する前に掃除されてしまったのだろうか。
「ただの胡桃だと思われて捨てられただけではないわ。
効果に気づいて、木を独占しようと企んだ人間もいたの」
今から百年以上前。
大聖堂で働いていた神父の男が胡桃の効果に気づいた。胡桃の幸運によって出世した男は、胡桃の独占を企み、自分の家の庭へ木を移したという。
今、目の前に立っている枯れ木は、たまたま地面にあいたくぼみの中へ落ち、男の目から逃れ、そのまま土の中で発芽することができた運の良い木だったらしい。
「この木は枯れてしまったけど、それでも、枯れるまでは胡桃を手に入れることができたわ。
だけど、移された方の木は、十本以上あったのに全てなくなっていた。
……シトレイ君はウィンディという貴族の家を知っている?」
「ああ。
三十年ほど前に当主が死んで断絶した家だ。
公爵号を持つ有力貴族だった」
いつか読んだ、昔の貴族名鑑を思い出す。
ウィンディ公爵家は出自不明の家祖が百年ほど前に、一代で興した権門だった。家祖は帝都大司教枢機卿から教理大臣を経て、最終的には宰相まで上り詰めた。
だが、勢いが強かったのは初代だけだ。子、孫と世代を経るうちに閣僚名簿に名前を見せなくなり、落ちぶれ、最後には断絶した。
「……せっかく自分の家に木を移したのに、胡桃の効果を子供には教えなかったのかしら」
「さてな。
自分の子供ですら信用できなかったのか、ただ単に子孫が管理を怠っただけか……」
「まぁ、いいわ。
新しい守人ができたと前向きに考えたこともあったけど、やっぱりドミナ様の力を悪用されるのは我慢できないもの。
あの盗人坊主の子孫が死に絶えたのなら、私も溜飲が下がる思いよ」
「水を差して悪いようだが、断絶したのは本家だけで、分家の方は元気にやってるみたいだよ。
婚姻を通して外国の王位を手に入れてね。
我が世の春を謳歌しているそうだ」
「そう」
アスタルテは、いつもと変わらぬ無表情で答えた。
「滅びればいいわね、その国」
未だに彼女の表情からは、彼女の気持ちがつかめないでいる。
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帝都大聖堂の庭園を後にした俺とアスタルテは、馬車に乗って祖父の屋敷へと向かった。
「……神様は人間の運命を調整できる。
そして、私はドミナ様の下僕。
胡桃はドミナ様がお与え下さったもの。
何の不思議もないし、面白くもないでしょう?」
「確かに、予想通りと言ったところだ。
だが、神が植物にまで干渉できるというのは新発見だよ」
広い馬車の中は、俺とアスタルテの二人きりだ。俺たちは大真面目に「神について」議論を始めた。端から見れば狂信的ドミナ教徒同士の不毛な会話にしか見えないが、神は実在する。
しかも、この世界の神は人間の前に姿を表し、国や社会といった人間の営みに直接介入しているのだ。
「一体、神は……ドミナはどんなことができるんだい?
人間の運を操れるというのなら、それこそ何でもできそうな気がする。
だけど、彼女の愛した太祖アガレスは不死身ではなかった。
人間の生命までは操ることができないのか?」
「さぁね。
それこそ、神のみぞ知る、といったところかしら。
ドミナ様のできること、できないこと……そのお力を窺い知ることなどできないわ」
「神は全能、とは言わないのだな」
「全能なんて概念は、人間の妄想よ」
未だ、ドミナは活動を始めていない。彼女が降臨するのは二年後だ。ドミナのやろうとしていること。その目的。それはわからない。
予想することはできる。
彼女は、四百年前に先立たれた夫の魂を、自分の活動に合わせて、呼び戻したのだ。例えば、夫婦生活の続きでもしたいのだろうか。
彼女の目的が奈辺にあるのか。わかるのは、二年後になるだろう。
「ただ、一つだけ、はっきりとわかることがある」
「何?」
「術は人に死を与える。
人を殺すことができる。
そして、その術を人間に与えたのはドミナだ」
「……話の持っていきかたが強引じゃないかしら」
人のことは言えないだろう。と、俺は心の中でツッコミをいれた。
「どうしても、話したくないのか?」
「ええ」
彼女が術を使いたがらない理由。気になる情報だ。
天使である彼女の頑なさを鑑みるに、知っておかなくてはならない気がする。
だが、彼女は恩人だ。
怪物トード、ミヒール、そして蛮族。彼女には三度も命を救ってもらっている。だから、俺は彼女に対し強く出れないでいた。
「……はぁ」
馬車は、祖父の屋敷に到着した。
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「その娘が、例の天使か」
祖父の視線はアスタルテに釘付けだ。
なるほど、二年も同じクラスにいて慣れてしまっていたが、アスタルテは美人だ。彼女は、外見的な美しさだけで言えば、俺が出会った中で一番の女性といってもいい。
いや、他の女性と比べること自体、憚られるかもしれない。
容姿の優れた者は同性の妬みを買いやすいが、アスタルテは無縁だった。彼女の美しさは、周りの人間に対し超然としていた。
「お爺様、見とれてる場合ではありません」
「ん、ああ……そうだな」
祖父はアスタルテから視線を外すと、口髭をいじりはじめた。
「……お爺さんと仲が良いのね」
「うん、仲良いよ」
祖父の屋敷を訪ねたのは昼時だ。話し合いの場所は食堂で、いつかのように山のような料理が並ぶ前で話を始める。他人に聞かれてはまずい話だから、給仕役のメイドたちには退室が命じられていた。
「まずは礼を言おう。
よくぞ、我が息子の仇をとってくれた」
「……別に、そんなつもりはなかったわ。
ミヒールと対立したのは、私自身の判断よ」
この短い間に、祖父は若鶏のローストを丸々一皿片付けてしまった。一方、アスタルテも負けじと、同じ料理を平らげ、次の肉料理に手をつけている。
しゃべりながら、よくこんなペースで食事を進めることができるものだ。
その後も、アスタルテは食事のペースを落とすことなく、事件の顛末と天使について祖父に説明した。
「……一つ聞きたいわ。
ジブリアという私の同胞が、貴方の監視をしていたはずなの。
その彼女と連絡が取れない」
ジブリアの名前を聞き、祖父の食事の手が止まる。
「うむ……」
「まさか、殺したの?」
「いや……」
祖父は歯切れが悪い。
「お爺様……」
「ああ、わかった。
少し待ってくれ」
そういうと、祖父は呼び鈴を鳴らしメイドを呼んだ。
「ジブリアをここへ連れてきてくれ」
「かしこまりました」
どうやら、もう一人の天使ジブリアは生きているらしい。
だが、祖父の監視、身の回りを探っていた女だ。
祖父は俺と同じく臆病な人間である。自分の身や家族の安全を守るためなら、そして敵対者には、苛烈な態度を取るだろう。生きているらしいジブリアの、生きているだけの姿が想像された。
しばらくすると、食堂の扉をノックする音と共に、銀髪の女性が現れた。
歳は三十歳前後だろうか。ミヒールと同様、アスタルテの将来を想像させるような容姿をしていた。
いや、それ以上だ。美しさと、さらに妖艶さを感じさせる。大人の魅力が溢れている。具体的に言えば、でかい。そして引っ込むところは引っ込んでいる。
「御用ですか、アーモン様」
ジブリアは静かな声で、それでいて妹……のようなものたちとは違う、はっきりと抑揚のある話し方で、祖父に問いかけた。
ジブリアは、俺たちなど眼中にないといった感じで祖父の脇まで行くと、何のためらいもせずに祖父座る椅子の肘掛に腰をかけた。
そして、祖父の首に腕を回す。
「ん、うむ……」
随分と馴れ馴れしいジブリアの態度を、祖父は拒否も咎めもしなかった。
「ああ、昨日仰ってた、私を司祭にして下さるというお話ですか?
あのお話はお断り申し上げたはずですよ」
「いや……」
ジブリアは、祖父の白髪頭を撫で回している。仮にも、皇族にして宰相たる男の御髪を、だ。
「ただでさえ、アーモン様はご多忙なのに、私まで忙しくなったら、お会いできる時間がさらに減ってしまうではありませんか。
お気持ちは嬉しいのですが、私はお金や地位は欲しくありません。
私のことを思ってくださるのなら、もっとお会いできる時間を増やして下さいませ」
ジブリアの腕の中におさまり、頭を撫で回されながら、祖父はチラチラをこちらを見てきた。糸目で、笑っているような無表情はいつもどおりだが、その仕草には「儂を見るな」という羞恥心が感じられる。
「そうです。
どうせなら、私を従士にして下さいませ。
この前のような、不届きな近衛兵の襲撃にでもあったら、私が必ず守って差し上げます。
いかがですか」
「……ジブリア」
ジブリアの提案に対し、答えた、というより待ったをかけたのはアスタルテだ。
アスタルテの声もいつもどおりなのだが、その声はとても冷たく感じられた。飽きれたといった感情に、若干のイラつきが混じっているような声だ。
アスタルテが声をかけ、ジブリアは初めて俺たちに気づいた様子だ。
祖父を抱きしめたまま、驚いた顔でこちらを見てくる。
「あら、ラプヘル。
久しぶりですね。
二年ぶりでしょうか」
「そうね」
天使ジブリア。
ドミナが地上に使わした三大天使のうちの一人。
人間としての肉体を手に入れた後、彼女は教会のシスターとなり、祖父の監視役を経て、現在では監視対象の妾におさまっているらしい。
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「お前が天使だったとはな。
ジブリア、何故、黙っていたのだ」
「ああ、仰らないで下さいませ、アーモン様。
私は恐れていたのです。
私が人間でないと知って、アーモン様の心が私から離れてしまうのではないか、と」
「その心配は無用だ。
現に、お前が天使だと知っても、儂の気持ちは何ら変わらぬ」
「アーモン様!」
抱き合う二人。
目の前でここまでおおっぴらにイチャつかれると、孫としては複雑な気持ちになる。
「……お爺様」
俺が声をかけると、祖父はジブリアから手を離した。
「ん、おお、すまぬな」
「いえ……」
何歳になったって、人間は恋をする。
俺だって中身は中年と言える年齢だが、好きな女がいるのだ。
それに、祖父は独身だ。
俺の祖母にあたるコルベルン王妃を亡くしてから、既に十年以上再婚していない。
そして、祖父は妾を持てる地位にある。だから、ジブリアの存在を咎めるものはない。
ジブリアが祖父の妾であることは都合がいい話でもある。
ジブリアが真に祖父を愛しているのだとしたら、彼女がミヒールのように暴走することはないだろう。そのときは、祖父が止めに入ってくれるはずだ。
もちろん、ジブリアが演技している可能性もある。
だが、アスタルテのことを考えれば、あまり疑う必要はないとも思う。
天使は、人間と同じ感情を持つ存在だ。
何より、疑えばきりがない。
今のところ、ジブリアに対し身構える必要はないと思う。
「ジブリアさん。
ひとつ、聞きたいことがあります。
貴方は術を使うことにためらいを感じますか?」
アスタルテが話してくれない以上、聞く相手はジブリアに限られる。横に座るアステルテは、何やら批難がましい視線を向けてくるが、仕方ないじゃないか。君が教えてくれないのだから。
「ためらい……なるほど。
ラプヘルは、シトレイ様に術のことを話していないのですね」
俺の質問の内容で、ジブリアは全て察したらしい。
アスタルテは下を向いていた。
「私も、そして恐らくラプヘルも、術を使うこと自体にためらいは感じていません。
躊躇するとすれば、それは、術を使って『人間を殺す』ことです」
「どういう意味ですか?」
「術の標的となった人間は、魂が消えます」
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術一発に対する標的は、必ず一体だ。
これは威力が「上」であっても変わらない。一体の標的に対し、広範囲に被害が及ぶであろう威力の術をぶつけ、周りを巻き込む形で、複数の敵を葬るのだ。
「蛮族に術を放ったとき、剣で止めを刺せと言ったのは、そうすれば魂が消えることがないから、ということか?」
「……ええ」
ひとしきりジブリアの話を聞いた後、俺はアスタルテに質問した。
その質問に対し、彼女は観念したかのように返答する。
アステルテの肯定は三つの意味を持っていた。
蛮族を葬ったときのように、術で直接命を奪われなければ、魂は消えないということ。
アスタルテは、術によって人間の命を奪うことにためらいを感じていたこと。
そして、ジブリアの話が事実であり、少なくとも、アスタルテも同じ認識を持っているということ。
「……あの蛮族の魂は、ちゃんと輪廻転生の輪へ戻っていったわ。
シトレイ君が剣で止めを刺すまで、確証がなくて怖かったんだけどね」
術の標的にされた人間は、魂が消える。
正確には、輪廻転生の輪に戻らず、行方不明になるという。
天使は魂が見えるらしい。
といっても、それは生き物の形をしていない。モヤモヤとした気体のようなものが、薄っすらと見えるのだという。
「剣でミヒールに止めを刺したのも、同じ理由か?」
「……彼女の魂が消えてしまうかもしれない、と恐れていたのは事実よ。
でも、天使は輪廻転生の流れには関係のない存在だから、大丈夫かもしれないとも思っていたの。
だけど、試すことなんてできなかったわ。
仮にも、彼女は……姉、みたいなものだから」
では、トードはどうなのか、と質問すると、大丈夫と返ってきた。
どうも、術の標的の魂が行方不明になる、という現象は、人間限定らしい。
「しかし、解せないな」
「……ええ。
……そうね。
どうして、こんなことが起きるのかしらね」
俺が解せないとつぶやいたのは、魂が消えるという現象に対してではない。
このことを、アスタルテが必死に隠していた理由についてだ。
彼女が、術を使うこと――術で人を殺めることを頑なに拒んだ理由は、話を聞けば十分に納得できる。
だったら、正直に話してくれればよかったじゃないか。
俺が転生者であることは、アスタルテは最初から知っていたのだ。
俺に隠す理由がない。
事実、ジブリアとは初対面だというのに、何らためらう素振りも見せず説明してくれた。今も、その説明は続いている。
「シトレイ様は、歴史はお詳しいですか?」
「歴史は好きですよ。
前世でも好きでした。
この世界の歴史についても、人並みに勉強したつもりです」
「そうですか。
では、この世界の人口が減り続けていることや、文化や技術が停滞していることについて、疑問に思われたことはありませんか?」
「え、そうなんですか?」
前言撤回だ。
俺は歴史が好きだが、満遍なく好きなわけではない。
俺が興味を持っているのは、歴史上の有名人やその家系、そして戦争だ。要するに、戦国武将と戦が好きなのだ。
歴史好きを自認しておいて恥ずかしい話だが、俺はこれまで文化や技術、各々の時代の人口について、ことさら注目したことがなかった。
ジブリアの話によれば、長期の飢饉や疫病、そして破滅的な大戦争がないにも関わらず、この世界の人口は減り続けているという。
同時に、文化は停滞し、技術上の新しい発見も途絶えて久しい状況らしい。
前世の世界だって産業革命以前の技術の発展は緩やかだった。伝統が重んじられ、一見すれば文化の大きな発展が見られなかった時代だってあった。
だが、何千年も人間の営みを見てきた天使からすれば、現在の停滞ぶりは、度を越しているという。
異常事態なのだ。
「人間の魂は、それ自体がエネルギーであり、輪廻転生の流れは、大きな力です。
流れは力――新たな生命、新たな魂を生み、文明を加速させます。
輪廻転生の流れが正常であれば、人間は繁栄するはずなのです。
事実、今のような状態に陥る前は、人間社会は緩やかではありましたが、確実に発展してきました」
今は逆だ。
この世界は、緩やかに、確実に衰退している。
随分と壮大な話になってきたものだ。
何せ、世界の仕組みと、危機について話しているのである。
これは、あれか。
もしかして、俺はこの状況を何とかするために転生させられたとか、そういう話だろうか。
ファンタジーな物語においては、よくあるパターンだ。
確かに、今しがたジブリアが話してくれた内容は、輪廻転生の事実を知っていることが前提として成り立つ話である。
なるほど、俺や祖父のように、前世の記憶を持つ転生者なら、飲み込むことのできる話だ。
世界を救うために召喚された俺。
だいたい、こういう場合は、原因となる魔王なり邪神なりが存在していて、そいつを倒せばクリアとなり、元いた世界に戻ることができる。
いや、今さら前世の世界に戻りたいとは思わないが。
「それで、ジブリアさん。
今の状況を作り出した『魔王』はどこにいるのですか?」
俺は半ば冗談でジブリアに質問した。
正直言えば、話が壮大すぎて、置いてけぼりを食らっている感があったのだ。
だが、ジブリアは俺の冗談に対し、真顔で答えをくれた。
「現れますよ。
二年後に」
……壮大な話だ、などと、どこか他人事のように考えていたが、そうではない。
神様が関わっている話なのだ。そりゃあ、壮大だろう。
中年サラリーマンのような風貌をしていた前世の神。
そして、人間の男と結婚したこの世界の神。
俺はどこか、神様は人間味溢れる親しみやすい存在……言ってみれば、俺のような人間と対等な人格の持ち主のように錯覚していた。
だが、違う。
彼らは人知の及ばぬ力を持っている。
俺がこの世界に転生したことからして、その神様の意図によるものだ。
俺は最初から、この壮大な話に巻き込まれていたのだ。
「……」
ふと、隣に座るアスタルテを見る。
彼女は、無表情のまま、うつむいていた。
「本当に、ドミナが仕組んだことなんですか」
「ドミナ様が意図したことなのか、否かはわかりません。
ですが、魂が消える現象が起き始めたのは、前回ドミナ様が降臨された四百年前からです。
それに、輪廻転生の流れに干渉することができるのは、ドミナ様だけです。
そもそも、術はドミナ様に由来する力です。
ドミナ様以外に、考えられません」
「……ジブリアさんは、そのことについてどう思いますか」
「特になにも。
私には関係ありません」
ジブリアは俺と、アスタルテを見つめながら答えた。
「私は真実の愛を見つけました。
私には、アーモン様がいればそれでいいのです」
真顔で熱愛宣言を出すジブリア。
その横では、祖父が居心地悪そうに、何か思案する様子で口髭をいじっていた。
「ドミナ様がどのようなお考えをお持ちであっても、私には関係ありません。
……ラプヘルは、そう割り切れた様子ではないみたいですが」
ジブリアに話を振られ、うつむいていたアスタルテが顔を上げる。
「ジブリア。
ドミナ様が……私たちの主が関係ないってどういうことかしら。
私たちドミナ様の下僕よ。
貴方には、罰を下されるかもしれないわ」
「あら、ドミナ様は、恋する乙女には寛容だと思いますよ。
ご自身だって、恋する乙女だったのですから。
それに、私は怖くありません。
必ず最後に愛は勝ちます」
そう言って、祖父と腕を組むジブリア。
さすがに、今度は祖父もジブリアを嗜めた。
怒られたジブリアは、「照れないで下さい」と言いたげな余裕の表情を見せ、再びアスタルテへ向き直る。
「ラプヘル。
貴方は恐れているのですか」
「ええ。
畏れているわ。
神は畏れ敬うべき存在よ」
「違います。
貴方が恐れているのは、ドミナ様ではありません。
ドミナ様に不信感を抱いている、自分自身を恐れているのです」
「そんなことない!」
アスタルテらしからぬ強く激しい口調で、彼女は答えた。
「少し、黙って……」
アスタルテが術を使いたがらなかった理由。
その理由を頑なに隠していたのは、あるいは彼女自身の問題だったのかもしれない。
彼女は、自分の中にあるドミナへの疑念と向き合うことを恐れていたのだ。
ドミナへの疑念を彼女は否定したが、その様子からして、おそらくジブリアの指摘は的を射ているのだろう。
そして、ドミナへの疑念は、俺の中にも確かに芽生え始めていた。




