#063「初陣・前編」
この世界には蒸気機関や、ましてやエンジンなんて代物は存在していない。だから、船は風の力で進む帆船が主流だ。
俺たちは士官学校の生徒であり、士官学校は軍の機関である。
今、俺たちを乗せて東部国境へ向かう船は、軍艦だった。
当然、帆船であることには変わりないのだが、軍艦には必ず人の背丈の何倍もの長さになる櫂が、何本も備え付けられている。
風に恵まれないときや、微妙な船の進路操作が要求される海戦に対応するためのものだ。軍艦は、例外なくガレー船でもあった。
「いいか、これは訓練の一環だ。
他の船員の足を引っ張るような真似はするなよ」
マークベス教官が音頭をとり、乗組員たちに混じって、俺たち生徒も櫂を漕ぐ。櫂は三人一組で一本を操作する。
俺たち生徒はバラバラに配属され、ベテラン乗組員たちの動きに合わせてひたすら重労働をこなした。おそらく、素人だけに一本の櫂を任せては、他の櫂についていくことができないからだろう。
櫂は一本だけでもタイミングがズレれば船全体のバランスを崩す。それに、他の櫂を引っかけでもしたら、それこそ大事故につながる。
俺たち生徒がバラバラに配属されたのは、全体の足を引っ張らないための配慮だった。
「この中には、将来、艦隊に配属される者も出てくるだろう。
これは、そのための訓練なのだ」
前世の、日本にあった士官学校(自衛隊幹部候補生学校)とは違い、我が国の士官学校は陸軍と海軍に分かれていない。
それもそのはず、帝国軍が陸軍と海軍に分かれていないからだ。
我が国は、国土の中央に内海を持つ。そして、敵国とは全て陸続きであり、前線も陸地となる。
わざわざ大規模な海軍を持つ必要がないのだ。だから、言ってしまえば、艦隊は陸上部隊の添え物という感が強い。
それでも、海賊は出るし、前線では大きな河を防衛線とすることが多い。軍艦の出番も皆無というわけではない。
だから、マークベス教官が言うように、将来、学校を卒業したら艦隊に配属され、櫂を漕ぐという重労働に従事する可能性も十分にあるのだ。
「ああー……疲れた。
何も考えたくない」
風に恵まれれば、重労働から解放される。
すっかり体力を使い果たした俺は、食事もとらずに、甲板の上へ出た。手すりに体を預け、ボーッと海を眺める。あまりに疲れているときは、食欲がわかないものだ。
「食べないと、これから先もたないよ?」
「後で食べるよ。
今は、無理だ」
声をかけてきたのはフォキアだ。
彼女はパンを持ち、口をモグモグさせながら話しかけてきた。
「こういうのは、奴隷の仕事と相場が決まっているのだがな」
前世の世界の、古代のガレー船を思い出す。全てがそうだとは言わないが、ガレー船の漕ぎ手は奴隷たちが担っていたことが多い。
この世界での奴隷は少々特殊だ。
奴隷と言っても、自由人との違いは職業選択の自由がないだけだった。基本的な人権は一般臣民と変わらず、働きに対し給料が支払われる。主人が怒りに任せて鞭を振るうようなこともない。
そもそも、主人は国家だ。昔はたくさん奴隷がいたらしいが、征服戦争の減少によって供給が減り、今では国家所有の奴隷しかいなくなっている。
奴隷たちに与えられた職業は、ほとんどが軍人だ。
特殊な技能――すなわち術の才能を持つ奴隷は術士となり、それ以外の奴隷たちは祭壇塔の移動動力である馬の御者となる。
だから、奴隷たちがガレー船の漕ぎ手になることなど、この世界では絶対になかった。
「なんかシトレイってさ。
時々変なこと言うよね」
「そうかな?」
「うん」
この世界に転生して、四捨五入すれば二十年。
転生当初は、前世の記憶の方が圧倒的に多かったため、何事も前世基準で物事を考えていた。あの頃に比べれば、俺もこの世界の住人らしい考え方を養うことができたと思う。それでも、前世の考えは抜けきっていないようだ。
それも、いいか。
俺は俺だ。
「難しい顔してどうしたの?
もしかして、船酔い?」
「いや、違うよ」
「ああ、アギレットが心配なんでしょ?」
俺たちが研修に行っている間、アギレットは軍の新兵訓練を受けている。新兵訓練ではきついしごきが待っていると有名だった。俺が士官学校、いや、その前の幼年学校へ入学を決めたのは、このきついしごきから逃れるためである。
アギレットは大丈夫だろうか。
「正直言えば、心配だ。
訓練期間が一般志願者の半分とはいえ、それでも、三ヶ月間きつい訓練を受けるんだ。
心配にならないはずがない」
「だよねぇ。
そうだよね、うんうん。
好きな人のことなら、普通は心配するもんね」
「フォキア、声が大きいよ」
我が故郷ハイラールを出てくるとき、俺は幼馴染たちに対し、アギレットが好きだと宣言した。
その気持ちは変わらない。だが、フォキアとその話をすることは避けていた。避けても彼女の方から話を振ってくるのだが、かわすように努力している。
俺はアギレットが好きだ。同時に、ヴェスリーも好きだ。
もし、フォキアにこのことが知られてしまえば、俺はおそらく幻滅される。では、たとえ気持ちだけにしても、二股かけるのはやめろと言われてしまいそうだが、感情の問題はどうしようもない。
アギレットもヴェスリーも好きだが、フォキアと険悪な関係に陥ることも嫌だ。だから、俺はフォキアとの恋バナから逃げている。
「……へぇ」
気づくと、アスタルテが後ろに立っていた。
彼女は、無関心そうに、無表情のままだ。一方、フォキアは「まずい」という声が表情に出ている。
「じゃ、シトレイ、あたし、パンだけじゃ足りないから、食堂に戻るね。
シトレイの分の食事はとっておくから」
そう言うと、フォキアは船内へと戻っていった。
フォキアと入れ替わり、今度はアスタルテが俺の横に並ぶ。
「聞いていたのか?」
「……ええ。
でも、今さらよ。
ずっと前から知ってたわ」
「そうだね。
知ってなければ、アギレットに変な噂を流すはずがない」
シトレイ・アンデルシア・ハイラールは巨乳志向者。
ヴェスリーに流した裸族という噂もひどいが、巨乳志向者という話は、それ以上のものだ。
「あの噂はひどくないか?」
「あら、一年の時、貴方はいつもサイファさんに対してデレデレしてたじゃない。
好きなんでしょう?
お乳の大きな女の子が」
「そんなことはないぞ。
私は……」
俺は、以前アギレットに演説してみせたように、女性の胸部について語ってみせた。
「……そう」
普段どおり無表情なままのアスタルテ。視線が痛い。
「そ、そういうわけで、私は決して巨乳志向者などではない。
それに、君がヴェスリーに流した裸族という話は、まったくの事実無根だ」
「そう」
普段と変わらぬ表情なのに、彼女の視線には、蔑みが含まれているように感じる。
「あの、私を軽蔑してるんですか?」
「そんなことはないけど、そう見えるならそうかもね。
でも、嫌じゃないでしょう?
私の周りに集まってくる男子は、皆私から蔑まれたり、罵られると喜ぶわ」
「私にそんな趣味はないよ。
……ああ、でも、そういう男がいるのは確かだ。
私も一人知っているのだが、紹介しようか」
特殊な性癖を持つ大男を、一人知っている。
彼は、俺たちが研修に行っている間、士官学校を卒業することになっていた。だから、既に別れを済ませている。異国の女への期待が、彼と交わした最後の会話だった。
「集まってくる男子を罵るだけでお腹いっぱいよ。
これ以上M男を集めて、私にどうしろと言うの?」
本人の知らないところで、マルコは一つの出会いを失った。
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シント城塞の東部方面軍司令部を数日間見学した後、俺たちは前線へ出ることになった。配属先は戦線南部を受け持つ一翼、第二十一・異教徒への鉄槌軍団である。
「鉄槌」の名前どおり、威勢のいい大男たちがわんさかいるのかと思っていたのだが、駐屯地に入ると、そんなことはまったくなかった。
確かに、屈強な兵士たちも多かったのだが、ヒョロっとした体格の者や、あまり鍛えてるとは思えない肥えた者もいたのだ。さらには、女性兵士の割合が思ったよりも多かった。
だが、彼ら(彼女たち)は皆、本物の兵士だ。
基本的に親切な人たちが多かったが、眼光は鋭い。幾度となく、戦場を潜り抜けてきた証であろう。
「おお、よくぞいらっしゃいました、ハイラール伯爵閣下」
小柄な軍団司令官が愛想のよい笑いを浮かべて握手してきた。
「ロアノン閣下からお話は伺っております。
短い間ですが、伯爵閣下が快適に過ごせるよう、精一杯、おもてなしいたします」
祖父の言う「東部方面軍を押さえた」とはこういうことなのだろう。宰相派の方面軍司令官が着任してくれば、部下たちは、少なくともその司令官がいるうちは宰相派になびくしかない。特に、出世を気にし、上官の心象を一番に考えているであろう中堅幹部連中ならなおさらだ。
「将軍閣下、シトレイ・ハイラールは我が校の生徒です。
身分は軍属、階級で言えば二等兵です。
あまり、特別扱いをなさらないで下さい」
軍団司令官に対し、マークベス教官が毅然とした態度で注文をつけた。
「マークベス……筆頭百人隊長。
一将校である貴様は、将官に意見できる立場にあるのか?」
「申し訳ありません」
「それに、ハイラール伯爵閣下を呼び捨てにするとは何事か。
分を弁えろ」
重く、悪い空気だ。
マークベス教官が上官に意見したためだが、彼は何も間違っていない。
「将軍閣下、お気持ちは嬉しいのですが、マークベス教官は私の尊敬する教官であります。
どうぞ、このあたりでお怒りをお鎮めいただけませんか」
「伯爵閣下がそう仰るのなら……」
一時、嫌な空気になったが、とりあえずは大事にならずに済んだ。
もちろん、マークベス教官へのフォローも忘れない。
「教官……なんか、すいません」
フォローを忘れない俺は、軍団司令官の部屋を退室した後、マークベス教官に話しかけた。話しかけたまではよかったのだが、いざ話すと、うまい言葉が見当たらなかった。
祖父の屋敷でロアノンと初めて会ったときもそうだったのだが、軍での階級と貴族としての身分や立場のギャップには、やはり悩んでしまう。
「気にするな。
将軍の言葉は尤もだ。
小官も慣れている。
それよりも、貴様に気を使わせてしまったな」
俺がフォローするまでもなかった。
彼はプロの軍人、立派な社会人なのだ。
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研修は、忙しいが平和だった。
兵士たちの訓練や軍事演習には参加したし、駐屯地の雑用もこなしたのだが、実際に戦いへ出ることはなかった。
季節は冬。自然休戦期である。
実戦を経験させるなら、研修の時期は初夏を選ぶだろう。あくまで、研修は前線の雰囲気を体験させるだけのものだ。
そういう意味では、我が三組の生徒たちは、第二十一・異教徒への鉄槌軍団にとって、「お客様」だったのである。
ところが、研修も終盤に差し掛かった頃、不測の事態が起きた。
「蛮族どもの襲撃だ!」
稀に、越冬用の食糧を食いつぶし、飢餓にあえいだ蛮族たちが自然休戦期を無視して攻めてくることがある。我が軍の妨害をかいくぐり、落ちた瞬間凍死しそうな冷たい河を渡ってくるのだ。自殺行為に近いが、何もしなければしないで、餓死が待っている。あるいは口減らしという目的があるのしかもしれない。
「何で蛮族どもが河のこちら側にいるんだ!?」
その蛮族たちが、河――つまり、防衛線のこちら側にいるらしい。
我が軍は不意を突かれる形になった。不測の、緊急事態だ。
「おい、学生ども!
お前らは邪魔だから下がっていろ」
平和が破られれば余裕がなくなり、お客様の扱いも雑になってくる。
俺たち三組の生徒たちは、言われたとおり、兵士たちの邪魔にならないよう、後方に下がり待機した。
「大丈夫でしょうか……」
スティラードの表情は暗い。他の生徒たちも同様だ。周りの兵士たちの緊迫した騒がしさを前に、生徒たちには不安が広がっている。
「東部方面軍は精鋭だ。
そう簡単に負けるようなことにはならないだろうさ」
そう言ってスティラードを勇気づけてみるものの、前方の兵士たちを見ていると、俺も不安を感じてくる。
ふと、城壁にとりつく兵士たちと、後方で待機する俺たちの間に、大きな石のようなものが投げ込まれてきた。ドスッと鈍い音を立てて着地したそれは、よく見ると、人間の頭だとわかる。
「大隊長殿の首だ……」
「そういうことか。
裏切ったな、蛮族どもめ!」
後から聞いた話になるが、この騒ぎは、河のこちら側で我が軍との合同軍事演習に参加していた同盟部族が反乱を起こした結果らしい。
投げ込まれた首の持ち主は、合同演習の指揮を執っていた将校のものだった。
「と言うことは、裏切ったのはカラボネソス族か。
何が同盟部族だ!
これだから蛮族どもは信用できないのだ」
「先に仕掛けてきたのはやつらだ。
ここをしのいだら、奴らの集落を叩き潰してやろう」
「そうだ!
女子供も容赦はしない。
一人残らず殺してやる」
恐ろしい発言だが、ここは命のやり取りを行う戦場だ。
兵士たちの怒りに満ちた強気な発言に、俺が抱いた不安も和らいでくる。
ところが、次の瞬間響いた大声によって、和らいだ不安が再び息を吹き返してきた。
「対岸にも蛮族が姿を現したぞ!」
第二十一・異教徒への鉄槌軍団が駐屯する砦は、外側と内側から挟み撃ちにされることになったのだった。
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不意打ち、しかも挟み撃ちである。
状況は芳しくない。
戦闘開始から数十分。
多勢に無勢でも持ちこたえているのは、やはりこちらが篭城する側だからだろう。城壁に身を隠しながら矢を放ち、我が軍の兵士たちは次々と蛮族をしとめていく。
それでも、もともと河側に比べ防御の薄い内側で、敵と相手することになった兵士たちはボロボロだ。
まだ、城壁は破られていない。俺の周りでは、戦死者も出ていなかった。だが、敵の矢を受けた負傷者は確実に増えている。城壁が突破されるのも、時間の問題かもしれない。
「天使さん。
君の術の力で、何とかできないか?」
状況は芳しくないが、こちらにはアスタルテがいる。
彼女は術を高速で発動することが出来る。術発動後失神することもなく、連続で術を放つことができる。威力も自在にコントロールすることができると聞いている。
彼女は、その存在そのものがチートだ。彼女がいれば、絶対に負けない。
「嫌よ」
天使の役割の一つに、太祖アガレスの生まれ変わりを導く、というものがある。アスタルテなら、その役割を果たすため、きっと俺を助けてくれる。そう疑うことがなかった。事実、俺を助けるため、彼女はトードや、そしてミヒールを葬ったのだ。
だが、彼女は今、俺を助けることが嫌だという。
予想だにしない返事に、俺は耳を疑った。
「嫌!?」
「ええ、嫌よ。
貴方、最初から私に頼って、自分で何とかしようとは思わないの?」
確かにそのとおりだ。
きっと助けてくれると勝手に期待していたのは俺だ。その考え自体、自分本位で都合のいい考えだ。
しかし、懸かっているのは俺の命だけではない。クラスメートの命、ひいてはこの砦に詰める第二十一軍団の兵士たちの命が懸かっている。
「その点は別の機会に反省するよ。
だけど、今は、私だけではなく、皆も危ない」
「そうね。
皆……クラスの皆。
悪い人たちじゃないと思うわ。
もちろん、私だって精一杯戦うつもりよ」
そう言うと、彼女は剣を持った。
「ああ、嬉しい返事だ。
だけど、私は、君の剣の腕よりも術の力に期待しているのだが」
「それはできない」
「何故?」
「……」
彼女は頑なに、術の使用を拒否する。
「術は使いたくない、か。
まだ、何か隠しているのか?」
「……私は貴方の味方じゃないわ。
ミヒールと対立したのは、私が彼女のことを許せなかったからよ。
私には、私の考えがある」
「怪物トードからは助けてくれたじゃないか。
あれは、ミヒールとは関係ないことだ」
「それは……」
ふと、前方から悲鳴が聞こえてきた。
城壁を守る兵士のうちの一人が、倒れこむ。倒れた兵士の向こう側に、蛮族が一人立っていた。倒した兵士の返り血を浴びた蛮族だ。
その蛮族は、すぐさま周りにいた我が軍の兵士に殺された。
だが、次の瞬間、味方の仇をとった兵士も、別の蛮族の男に頭を撥ねられてしまった。
蛮族は次々と城壁を登ってくる。
その様子を見て、マークベス教官が剣を抜いた。それを受けて、生徒たちも震えながら剣を構える。
「議論している時間はないようだ」
アスタルテとの会話の中で術が話題に出て、俺は思い出していた。
戦闘開始から一時間弱。我が軍の術は、まだ発動していない。相手は異教徒の蛮族だから、敵から術が放たれる心配もない。
「術の反応は?」
俺は、さらに後方で控える感知術士たちに問いかけた。もう一人残っている天使ジブリアの動向がわからないため、戦場まで連れてこられた哀れな術士である。
「術反応は、十!
全て、標的は敵軍に向かっている模様です。
そのうち、威力まで感知できるものは……一つ!
威力『上』の術です。
もうすぐ、発動されると思います」
一個軍団は十個大隊で構成される。一個大隊に術士が一人配属されるため、我が軍の術士は十人。まだ、我が軍から術は一発も放たれていない。
感知術士から報告を受けた直後、後方、河側で大きな落雷の音が響いた。
「術の……反応が、九つに減りました……」
術を感知したことで、役割を果たした術士が失神してしまった。役目を終えた術士は、寝かせられたまま後方へ運びだされ、すぐさま別の術士が交代する。
今の雷で、数百人単位の蛮族が消し飛んだことだろう。
そう、我が軍には術がある。
戦闘参加者になりうる成年男子の数で言えば、百万の戦力を誇ると言われている蛮族。その蛮族から国境を守る我が軍の兵士の数は十二万。
別に、我が軍が少数精鋭主義だというわけではない。
術士の数を考えれば、それが妥当な兵力と考えられているのだ。
戦いの基本は、術が放たれるまで、前面の兵士たちが敵を食い止める。術が発動し、敵に大打撃を与えた後、今度は追撃に移り、敵を殲滅する。
そうやって、この国の軍人は戦い、戦果を挙げてきたのだ。
アスタルテが言うように、最初からチートを期待するなどお門違いだろう。俺は軍人を目指している。軍人だった我が父アガレスとて、現役時代はそうやって戦ったのだ。
俺は交代した術士に引き続き術を感知するよう命じると、剣を鞘から抜いた。
「待って。
これ……」
前方へ移動しようとする俺を、アスタルテが呼び止めた。
渡されたのは、胡桃だ。
「そう言えば、胡桃についても話を聞いてなかったのだったな。
食べると幸運を呼び込むというのは、本当なのか?」
「ええ」
「そうか。
ありがたく貰っとくよ。
ここを切り抜けたら、胡桃のことを詳しく教えてくれ。
それと、できれば、君が術を使いたくない理由も」
「……」
俺は受け取った胡桃を口に放り込み、バリバリと噛み砕きながら歩いた。ちょうど胡桃を食べ終えた頃に、マークベス教官の横に到着する。
「教官、ご報告があります」
「何だ」
「はい。
私が個人的に連れてきた感知術士の報告によれば、我が軍の術士たちは、既に標的を定め、発動に集中している段階のようです。
もうしばらく待っていれば、蛮族の群れを我が軍の術が薙ぎ払います」
「そうか。
となれば、我々もあまり悲観することはないようだな」
マークベス教官の表情は変わらないが、緊張していた面持ちが、少しばかり和らいだように見える。力みすぎ、といった表情から程よく力が入っている、という顔色だ。
「……ここだけの話だが、今、小官は国へ殉じることを説く演説を考えていた」
「気が早いですよ、教官」
「そのようだな」
小声で話すマークベス教官は、再び前方へ視線を移す。
前方をよく見れば、我が軍の兵士たちと同様、蛮族も幾人か殺されていた。城壁を乗り越えられて一時的に混乱したが、元々我が軍の兵士たちは錬度が高い。混乱が収まると隊列を組み、大柄な蛮族たちと互角以上の戦いに持ち込んでいた。
我が軍は、持ち直してる。
「ハイラール、お前が何のために感知術士を伴っているのか、ここ最近ずっと疑問に思っていた。
今回のようなことを考えて連れてきたのか?」
「まさか。
術士は、学校で授業を受けていたときから伴っていましたよ」
「そうだったな。
あ、いや、理由は言わなくていい」
研修に術士を連れてくるのも、サイファ公爵とのコネを持っていたおかげである。マークベス教官からしてみれば、あまり首を突っ込みたくないのだろう。
俺の報告を受け、マークベス教官は死ぬ覚悟ではなく、生き残るための決意を込めて演説する。それを受けて、生徒たちの生気が吹き返してきた。
感知術士は、敵の術発動を察知することに全力を挙げる。味方の術発動の状況をわざわざ感知することはないし、仮に感知したとしても、敵に知られてはまずい情報のため、最前列で戦う兵士に伝えられることはないだろう。
だが、最前列の兵士たちは、いつ自軍の術が放たれるか、不安なまま戦いを続けているのだ。ゴールが見えない中、一体いつまで戦い続ければ生き残れるのか、不安の中で戦っている。
生徒たちは剣を構えていた。先ほど見せた震えはない。
「蛮族と言っても、所詮、トードよりは小さいですね」
「楽勝だね」
自分や周りを勇気付けるための、という理由が何割か含まれているだろうが、生徒たちの間には楽観的な言葉を口にするだけの余裕も生まれていた。
「よく考えたら、マルコがいっぱいいるだけじゃん」
ある程度のゴールが見えれば、不安も取り除かれる。
自軍の術の発動進捗を伝えることは、士気を高める一助になるのではないか。俺が出世して自分の部隊を持ったら、もう一度試してみようか。
「来たぞ、貴様ら、気を引き締めろ」
マークベス教官が見据える先に、蛮族の姿があった。
整然と隊列を組み、敵を正確にしとめていく我が軍の攻撃から逃れてきた蛮族だ。
「三人か。
一人は小官が引き付けるが……残り二人は貴様らに任せよう。
できるか?」
「「「はい!」」」
稽古や授業ではない、実戦。
人間を相手にした戦い。
俺、いや、クラス全員がこれから初陣を飾る。




