#059「天使・前編」
4/30 大幅改稿しました。
アスタルテは術の高速発動を行うことができる。
術発動後の失神を回避する術も知っている。
だとしても、彼女は、犯人ではないだろう。
犯人は水術の使い手だ。
一方、アスタルテは火術の素質を持っている。
もしかしたら、彼女は火術も水術も自在に操ることができるのかもしれない。だが、それなら、襲撃の際は火術を使ったはずだ。火術の方が、相手の息の根を確実に止めることができる。
それに、俺は彼女に命を救ってもらった可能性が高い。
怪物トードの一件だ。
襲撃事件を通して確証を得ることができた、体内を標的にする術の存在。
アスタルテがその未知の術を行使できるであろうこと。
そして、俺とトードが一対一で戦ったときの状況。
これらを合わせて考えてみれば、トードに殺されかけた俺を救ってくれたのが、アスタルテだとわかる。
「伯爵様、調査の結果は、こちらの報告書に」
「ご苦労様」
彼女は犯人ではない。
それどころか、恩義すらある。
しかし、犯人を突き止めるための有力な、今のところ唯一の手がかりだ。祖父ですら知らなかった、未知の術の使い手である。そんな人間が何人もいるはずがない。彼女が犯人ではないにしても、彼女の周りに犯人がいる可能性は大いにあった。
アスタルテ・ラプヘルは俺と同じ十七歳。誕生日は五月。
「門前町のさらに外れ……士官学校から一時間以上かかる距離だな」
彼女は帝都城壁外の、門前町のさらに外れに建つ木造家屋に住んでいる。築八十年を越すであろう古い平屋は賃貸物件で、賃料は月に銀貨二枚。
我が故郷ハイラールでも、これより安い物件はないだろう。
彼女は、その荒ら屋のような自宅から毎日徒歩一時間以上かけて士官学校へ登校しているのだ。
「足腰が鍛えられるだろうなぁ」
家臣たちから渡された報告書に目を通し、俺は他人事のような感想をつぶやいた。
アスタルテが犯人につながるのではないかと思ってから、俺は彼女の調査と監視を家臣へ命令していた。
監視役の家臣の話によれば、彼女は学校と教会へ行く以外に、外へ出ることがないらしい。学校で会うのは俺を含むいつものメンバーだし、教会では人と会ってもほとんど話すことなく、ひたすら祈っているだけだという。
今のところ、彼女の周りに犯人らしき怪しい人物の影は見えなかった。
監視をつけてまだ数日だが、成果は得られていない。
それでは、と、俺は報告書の次のページに目を通した。次のページは、彼女の周りの人間、一番身近な人間であろう家族についての調査報告である。
「両親の欄に保留がついているな。
どういうことだ?」
「はっ。
アスタルテ・ラプヘルの両親の名前は判明しています。
ですが、その両親が実在した、という証拠が確認できないのです」
彼女の両親は幼い頃に亡くなっている。いつか、本人もそう言っていた。
両親の名前はつかめている。
既に故人である、という注釈がついていたが、彼女の両親の名前は、士官学校入学時の提出書類や、彼女が結んでいる賃貸契約の書類にはっきりと明記されていたらしい。
だが、その名前を持つ人間の戸籍が見当たらないというのだ。
「アスタルテ・ラプヘルの戸籍はあったのだな?」
「はい。
門前町の教会に保管されていました。
戸籍の原本自体、助祭の印が押された正式な物に見受けられましたが……」
「両親の戸籍と紐付けされていない、か」
出生届や死亡届を受理し、戸籍として管理しているのは教会である。
我が家の家臣たちは、教会へ忍び込み、アスタルテの戸籍を確認してきたのだった。
「もしかしたら、既に破棄されてしまったのかもしれません」
「普通、二親等までは故人であっても破棄されず紐付けされているのだがな。
破棄されたとして、それは手違いによるものか、あるいは故意か……。
まぁ、教会もいい加減だから、何とも言えないか」
「正式に破棄されたものでしたら、破棄の記録が帝都大聖堂の地下書庫に保管されているはずです。
もう少しお時間をいただければ、確認して参りますが」
「門前町の教会ならいざ知らず、大聖堂に忍び込むことなど容易ではないだろう。
お前たちにそこまでさせることはできない」
家臣たちの身の安全もそうだが、もし捕まってしまえば、我が家としては切り捨てるしかない。我が家の家臣にそんな人間はいない、と主張するしかないのだ。
何としてでも伯父暗殺の犯人を捕まえたいが、その手がかりであるアスタルテの、さらにその両親を調べるためだけに、大事な家臣たちを切り捨てることなどできない。
「お爺様がいればなぁ……」
祖父がいればわざわざ家臣を使う必要がない。宰相の鶴の一声があれば、教会の方からアスタルテやその家族の戸籍を持ってくることだろう。
だが、俺だけでは、そうはいかない。俺は一介の学生だ。そんな権限は持っていない。
もちろん、俺は皇族であり、領主であり、何より宰相の孫である。
俺が直接教会へ話をつけにいけば、教会とて無下にはできない。しかし、結局、最終的には「コルベルン王殿下に確認した後、お持ちに上がります」という流れになるのだ。
そういう流れになるのは間違いない。というか、実際そうなった。数日前、俺は教会まで行って、押し問答した後、手ぶらで屋敷まで帰って来たのだ。
祖父は今、都にいない。
俺は軍属だから都を離れることができないが、俺を除く親族たちは、伯父の本葬儀に出席するため、聖地ドミニアにいるのだ。
祖父が帰ってくるのは二週間後の予定だった。
既にアスタルテのことは手紙に書いて報告している。だが、まだ手紙は船の上だろう。教会が言うように祖父へのお伺いを立てていては、どれだけ待たされるかわからない。おそらく、俺が送った手紙の返事や、教会が送るであろう確認の使者が戻ってくる前に、本人の方が先に都へ帰ってくることになる。その間も、犯人は野放しになっているのだ。
「申し訳ありません。
我らの力が至らぬばかりに……」
「逆だ。
私に力がないから、お前たちに苦労をかけている。
お前たちは優秀だよ。
短期間でよく調べてくれた」
再び調査報告書に目を通す。
枚数は少ないが、びっしりと密度の濃い報告書だ。彼女の情報をできる限り集めてくれ、と命じただけで、これほどの物を用意してきたのである。我が家の家臣は間違いなく、優秀で忠誠心が高い。
ふと、調査報告書を見ながら、あることに気づいた。
「……。
ひとつ、聞きたい。
彼女には姓の違う姉がいるはずだ。
ここには両親の名前しか載っていないが」
「姉、ですか。
調査の結果、アスタルテ・ラプヘルには兄弟姉妹はいないと確認しております」
名字の違う、姉のようなもの。
ミヒールと会ったとき、俺はラプヘル家の複雑な家庭環境を想像した。思い浮かんだのは、異母姉妹、異父姉妹とか、そういう関係だ。
「彼女には、他に親族がいないのだな?」
「はい」
戸籍の続柄には載らないような、遠い親戚という可能性もある。
だとしても、アスタルテとミヒールは、お互いを知っていた。近しい関係にあることは間違いない。
アスタルテに近いというだけで、疑う価値はある。
「ベルエット・ミヒールという近衛兵を調べてくれ。
それと、監視もだ」
「はっ」
「ああ、ミヒールは日中、皇宮にいるのだ。
さすがに、皇宮の中に密偵を放つのは難しいか……」
「はい。
ですが、ツテはあります。
常時監視は難しいですが、いくらか金を掴ませれば、あるいは」
「では、そうしてくれ。
この件については、金を惜しむな。
あと、私にもツテがある。
当たってみることにするよ」
近衛軍司令官エレオニー公爵は、兄の舅である。証拠がないうちから上官を通してミヒールを拘束することなどできないが、例えば、彼女を一時的に皇宮から外へ出すことは可能だろう。研修、演習、会議、一時休暇等々、上官であれば名目はいくらでも作れる。
皇宮から出してしまえば、いくらでも監視できる。怪しい行動に出れば、そのときこそ拘束してしまえばいい。
その場合、祖父に後始末を頼むことになるが、犯人逮捕につながるのなら、祖父とて望むところだろう。
こういう時に、電話が存在していれば、祖父と相談しながら物事を進めることができるのだが。
……皇宮。
ミヒールの勤務先であり、襲撃事件の現場でもある。
確証をつかむには至っていないが、俺の抱いた疑念は、確信には近づいていた。
============
「アスタルテと話をしよう」
後から思えば、俺は焦っていたのかもしれない。
アスタルテやミヒールの監視を続け、犯人の尻尾を掴むまで、俺自身はじっとしていればよかったのかもしれない。
だが、俺は焦っていた。大事なことに気づいたのだ。
祖父が帰ってくるのは、まだ一週間半の日時を残している。一方、俺は、来週には船の中にいる。
もうすぐ、士官学校のメインイベントである長期研修が始まるのだ。冬から初春にかけての自然休戦期に限るが、前線に出て戦場の空気を体験することになっている。
期間は前後の移動を合わせて三ヶ月。場所は東部国境を予定していた。
祖父が都に帰ってくるのと入れ替わりになる。
目の前に有力な犯人の手がかりが転がっているというのに、放置する勇気がなかったのだ。
「大丈夫かな。
シトレイのお爺さんに相談してからの方がよくない?」
「ミヒールに手を出すときは、さすがにお爺様へ相談するさ。
だけど、あくまで、今回はアスタルテに話を聞くだけだ」
彼女はトードから俺を救ってくれた。
彼女は犯人ではない。おそらく、俺を含む家族を襲った犯人とは、考えを異にしている。
「大丈夫、彼女は味方だと思うよ」
と言いつつ、アスタルテに話を聞こうと焦っていたのは、彼女を心の底から信用していないことの裏返しだった。
長期研修が始まってしまえば、その間は、四六時中クラスの連中と一緒にいることとなる。
彼女が絶対に犯人ではない、という確証がないまま、三ヶ月間彼女と寝食を共にすることへの不安があったのだ。心の隅っこの方ではあっても、その不安は確かに存在していた。
「万全は期す。
いいか、フォキア。
笛の音が聞こえたら、二人で一斉に、天使さんへ飛びかかるんだ」
祖父が雇った感知術士は、当然ながら俺が学校出授業を受けているときも術を発動し続けている。
彼らは普段、教室の外にて、複数人で待機している。一人が感知術を発動し、他が交代要員として傍らにいるのだ。
目標が視界に入っていなければならない攻撃術と比べ、感知術はその種の制限がゆるい。屋内にいても、素質に恵まれた術士ならば、最大で周囲一キロの範囲を、三~四時間にわたって感知し続けることができる。
俺は感知術の素質がなかったので、どうも感覚がつかめないのだが、感知術士たちの言によれば、それは「力を感じ取ること」と「力をぶつけること」の違いだという。
普段、教室の外にいる術士が術の発動を感知すると、すぐさま周りで待機している交代要員に知らせ、交代要員が笛を鳴らすことになっていた。
その笛の音を合図に、俺はその場から逃げ出すのだ。
今回は、逃げ出さずに、アスタルテへ飛びかかる。
中庭は校舎に囲まれている。道路に面した窓がある教室や、それこそ敷地外からも丸見えな軍事教練場と違い、外部からは視界に入らない場所だ。
そして、士官学校は軍事施設扱いをされており、部外者の立ち入りが厳しく制限されていた。俺が感知術士を学内に入れることができたのは、サイファ公爵とのコネを持っていたためだ。
だから、笛が鳴らされるとすれば、それはアスタルテがおかしな真似をしたときである。
アスタルテへの不安。
彼女に対する信と疑は、間違いなく信の比率が高い。
おそらく、命を救ってもらった。彼女のことは信じたい。
だけど、万が一、犯人とつながっていた場合はどうか。彼女が内心、恐ろしい考えにとりつかれていたらどうか。彼女は心の内を、言動にも表情にも出さない生徒だった。
彼女のことは信じたいが、命を賭けることはできない。
「シトレイの話だと、天使さんはヤバイ術が使えるのかもしれないんでしょ?
笛が鳴ってからで間に合うかな」
「多分、大丈夫だ。
伯父上と近衛兵がやられたのは、数十秒であってもタイムラグがあった。
術士にも、発動を感知した瞬間に笛を鳴らすよう指示してある。
笛が鳴った瞬間に飛びかかれば、間に合うと思う」
感知術は術の発動元、発動先(標的)、威力を感知することができる。そして、相手の発動準備の段階によって、感知できる項目も変わってくる。
相手が術の発動準備入った段階――すなわち、術道具を並べ終えて、祈りの言葉を口にした段階では、発動元しか感知することができない。
相手が祈りを終えて、集中し、目標を見据えた段階で、発動先を感知することができる。
術の威力まで感知できるのは、さらに後、いざ相手が術を放つ直前になってからだ。
この発動元、発動先、威力の三つを感知することがワンセットなのだが、俺は発動元、すなわち術の発動がわかった段階で笛を鳴らすように指示していた。
どうせ、標的は俺で、食らったら死ぬほどの威力だということは、わざわざ感知してもらわなくてもわかる。
「もちろん、天使さんがおかしな素振りを見せたら、すぐに押さえよう。
大丈夫だとは思うが、油断はしない。
そのための、これだ」
俺は懐に忍ばせた短剣をフォキアに見せた。
フォキアも、同じく懐に剣を忍ばせている。
感知術士を用意し、外部の人間が入れない士官学校を話し合いの場に設定した。万が一のときのため、武器も用意した。
準備は、用心は万全だ。
「……それでも、天使さんは想像を絶する力を持っているかもしれない。
常識は通用しない。
危険な目に合うかもしれない。
そうわかっていながら、私はフォキアを頼っている」
「ふっふっふっ!
シトレイには家来がいっぱいいるけど、学校の中じゃ、あたししかいないもんね。
このフォキアさんに、どーんと任せなさい。
散々、タダでご飯食べさせてもらってることだし、働くときはちゃんと働くよ」
あるいは、マルコあたりに加勢を頼めばよかったかもしれない。
だが、用心は、あくまで最悪の時のためだ。
アスタルテには話を聞きにいくのだ。
未知の術について、教えを請いにいくのだ。
アスタルテとマルコは面識がない。変に警戒心を持たせてしまっては、最初から話を聞くチャンスを潰してしまうかもしれない。
同じクラスメートであるフォキアという人選が、最良の選択肢だと思う。
俺とフォキアは、打ち合わせを済ませると学校の中庭へと移動した。
中庭では、事前に呼び出しておいたアスタルテが、既に待っていた。
彼女は普段どおり無表情で、普段どおり美しい顔をこちらに向けながら立っている。
俺は感知術士の笛の音を聞き逃さないよう注意しながら、そして、いつでも懐から短剣を出せるように、腕を組むフリをしながら、彼女へと近づいていった。
============
「……シトレイ君。
放課後にわざわざ呼び出すなんて、もしかして、愛の告白?
身の程知らずな男ね。
……自分が私に釣り合うとでも思っているのかしら?」
アスタルテはいつもどおりの調子だ。
「ちょっと、あたしもいるんですけど」
「……あら、フィッツブニトさん。
貴方もいたの?
ごきげんよう」
「うん、どうも」
彼女を信じたいという気持ちと、敵対するのではないかという恐怖。彼女と会う前、俺は二つの気持ちを抱いていた。
だが、実際に彼女と相対し、さらにもうひとつ、不安も湧いてくる。
術の実技でのことを思い出すと、彼女は術の高速発動や発動後の失神回避を隠しているように見えた。俺が問いただしたところで、彼女は素直に答えてくれるだろうか。
「……それで、シトレイ君は私に思いの丈をぶつけにきたのかしら?」
「だから、あたしもいるんですけど!
何でシトレイが告白するのに、あたしが着いてこなきゃいけないの!
だいたい、シトレイには他に好きな人がいるんだから」
「……へぇ。
誰かしら」
「知りたい?
教えないけどね」
「……別に教えてもらわなくてもいいわ。
おおよその見当はつくしね。
当ててみせようか?」
話がおかしな方向へ向かっている。
「ちょっと、ストップ、ストップ!
こんな話をしに来たわけじゃないぞ」
俺は二人の会話を制すると、本題に入ることにした。
「天使さん。
君を呼び出したのは他でもない。
君の持つ、術の力について話を聞きたいんだ」
俺の問に対し、彼女は表情を変えないまま、首をかしげた。
「……私の術の力?
そんなもの、知っているでしょう。
私の術の素質は火、威力は『下』よ」
「とぼけないでくれ、天使さん。
君は人とは違う、特別な術の力を持っているはずだ」
「……シトレイ君。
貴方の言っていることの意味が、よくわからないわ。
私は普通の学生だし、術の力だって平凡なものよ。
……何か特別なことがあるとすれば、それは、人より美人ってことぐらいかしら」
彼女は、あくまでシラを切る。
「何度も言う、とぼけないでくれ。
君は、術の高速発動ができるはずだ。
それに、発動後、失神することもない」
「……一応聞くけど、根拠は?」
「トードの一件だ。
君は、私を救ってくれたのだろう?
あのとき、君は術の高速発動を行い、トードを焼き殺した。
そして、失神することなく、私たちの前へ戻ってきたのだ。
あのときの状況を考えれば、それが一番しっくりくる」
「……そんなこと知らないわ。
言ったでしょう?
私は、あのときお花を摘みにいってたの。
だいたい、そんな常識外れの術が使われたなんて、話が飛躍しすぎよ」
「そうだね。
私も、最初は常識外れの、超常現象が起きたと頭を抱えていたよ。
だけど、その常識外れの術は存在している。
この前の、皇宮での騒ぎで確信を持った」
「皇宮での騒ぎ……街の皆が噂してることかしら?」
「……」
俺は無言のまま、頷きもしなかった。だけど、否定もしなかった。
「……」
黙ったままの俺に対し、彼女も沈黙で応える。
しばらくの沈黙の後、彼女はポケットに手を突っ込んだ。
咄嗟に、俺は懐の剣を取り出す。俺の横に立つフォキアは、既に剣を構えていた。
「やめろ!
何をする気だ」
アスタルテは俺の制止を意に介さず、ポケットの中身を取り出した。
彼女が取り出したのは――胡桃だった。
彼女は無言のまま、胡桃を食べ始めた。
沈黙の中、胡桃を咀嚼する音が、やけに大きく響く。
バリバリと胡桃を噛み砕くアスタルテ。
笛の音は聞こえない。
俺とフォキアは構えを解き、剣を鞘へ収めた。
マルコではなくフォキアを連れてくるという、一応の気配りをしてみたのだが、結局剣を抜いてしまった。
剣を抜いてしまった時点で、アスタルテとの話し合いはここで終わりだろう。場合によっては命の危険があったのだ。恐怖ゆえの行動だ。仕方ないと思う。しかし、仕方ないと思いつつ、後悔を感じる。
「……シトレイ君。
貴方の言っていることの意味が、本当に理解できないの。
術を発動するためには時間がかかるし、発動したら失神する。
そんなの、常識でしょう」
彼女は胡桃を食べ終えると、同じ主張を繰り返した。俺たちが剣を抜いたことには触れてこない。
俺はわずかばかりの希望を感じ、話を再開した。
「常識ではないことを、君がやってのけたんだ。
私はそう思っている」
「……さっき、貴方は怪物トードが死んだときのことや、皇宮での騒ぎのことを根拠に挙げたけど、それは貴方が、私が変な術を使えると思った経緯よね。
証拠ではないわ」
「だけど、私はそう思ってる」
実際、そこを突かれると痛い。
彼女が言うように、証拠がないのだ。
「……はぁー」
彼女は飽きれたようにため息を吐いた。そして、俺から顔を背けるようにうつむく。
「あ、銀貨だ。
ラッキー」
視線を下に向けたことで、足元に銀貨が落ちていたのを発見したらしい。彼女は軽い動作で銀貨を拾い上げ、先ほどまで胡桃が入っていたポケットに銀貨をしまいこんだ。
「……ふぅ。
幸運は幸運でも、望むものとは違うわね」
銀貨一枚儲けたアスタルテは、この場から去ろうと、俺たちに背を向ける。
「ちょっと、待って。
帰らないでくれ。
まだ話は終わっていないぞ」
「……もう終わったわ。
シトレイ君が何を言おうと、私のことをどう思うと勝手だけど、私の答えはさっきのとおり。
貴方の言っていることが理解できない、よ。
そうとしか言えないわ」
振り向いた彼女は笑っていた。
「……今はね」
そう言うと、アスタルテは再び振り返ることなく、中庭から出て行ってしまった。
============
アスタルテとの話し合いの後、俺たちは校門に待たせていた大きな馬車に乗り込んだ。
馬車の中には家臣が二人、術士が二人待機していた。術士のうちの一人は、感知術の発動に専念している。
「天使さん、何もしてこなかったね」
「うん。
だけど、彼女の頑なな態度は怪しいと思う。
ボロも出してたしね」
俺はアスタルテが特殊な術を使い、トードを焼き殺した、と言った。アスタルテが本当に何も知らないのなら、この「焼き殺す」という表現に疑問を持ち、異議を唱えるはずだ。
トードには、一見、外傷がなかったのである。
内臓を標的として、トードが「焼き殺された」事実を知っているのは、俺と、俺から伝え知ったフォキア(と祖父)、そして実際に術を放った人間だけのはずだ。
「確定じゃない?」
「そうだな。
でも、シラを切られた。
正直、手詰まりだ。
どうしたものかな……」
命の恩人(仮定)が隠したいと思っていることだ。できれば、本人の意思を尊重したい。
だけど、彼女が隠し通そうとしていることは、犯人の手がかりにつながることなのだ。
伯父を殺した犯人だ。俺や家族の安全にも関わってくる問題である。「いつか話してくれよ」と引き下がることはできない。
「このままだと、研修が始まっちゃうもんね。
もうこうなったら、天使さんを役所に突き出せばいいんじゃない?
怪しいのは間違いないし、あとは役人が調べてくれるよ」
「ダメだ。
天使さんが拷問される可能性がある」
天使を拷問。
字面を思い浮かべれば、倒錯した感情が湧いてくる。
アスタルテを拷問。
あの綺麗な顔立ちの少女が、鞭やロウソクでアレコレされる姿を思い浮かべれば、これまた倒錯した感情が湧いてくる。
いやいやいやいや、何を考えているのだ、俺は。
実際の拷問は陰惨極まるものだ。
鞭は皮膚が裂けるほどの強さで打たれる。ロウソク――火責めは、それこそ見るに耐えないものだろう。実際の拷問を見たことはないが、話を聞くだけで怖気が走る。
皇族暗殺の重要参考人として役所に突き出す。
素直に口を割らなければ、拷問される可能性は大いにあった。この国は専制国家なのだ。
何より、被害者は宰相の嫡男である。祖父は冷静さを取り戻していたが、内務府の役人などは血眼になって捜査を続けている。
手がかりが出てこない状況の中、アスタルテという参考人を与えられれば、それこそなりふり構わず話を聞きだそうとするだろう。
アスタルテが拷問を受けるなんて、絶対にダメだ。
彼女は(おそらく)俺の命の恩人でもあるのだ。
「今度は、ミヒールに接触してみるか……」
だが、アスタルテとは違い、ミヒールは何をしてくるかわからない。
ミヒールはアスタルテとつながりのある人物というだけで、特殊な術が使えるかはわからない。だが、同時に俺の敵か味方かも判然としない。
もし、ミヒールが犯人だった場合、強大な術の力を持つ彼女との対決は避けられないだろう。
アスタルテのように、多分大丈夫だと思いながら話を聞ける相手ではない。
「それとも、こうなったら研修を休んでしまうか」
「え、留年するよ!?
いいの?」
「よくはないが、伯父上の仇と我が家の安全が懸かってるんだ。
私一人にできるのはここまでだよ。
あとは、お爺様に相談しながら進めるしかないと思う」
我ながら情けない限りだが、やはり何事も祖父に相談するのが近道だと思う。
「それに、私はサイファ公爵にコネがある。
もしかしたら、研修を休んでも留年は回避できるかも」
「うわー……汚い。
権力に溺れてるね、シトレイ。
小さい頃はこんなじゃなかったのに」
「ああ、都会生活で擦れてしまったんだよ」
フォキアは変わらないね、と言おうとしてやめた。
絶対、身長のことに絡ませて怒ってくると思ったからだ。
「しかし、な。
本当に手詰まりな状態だよ。
とりあえず、監視を続けさせるけど、おそらく尻尾を掴むことはできないだろう。
研修を休むのも、本気で検討しなきゃいけない」
と、そのとき。
俺たちを乗せた馬車に、騎乗した男が近づいてきた。
「伯爵様!」
既に辺りは暗かったのだが、声で我が家の家臣とわかる。
「どうした」
「先ほど、皇宮で再び事故が起きました!」
「馬車を止めろ!」
報告に来た家臣の男を馬車へ乗せると、急いでドアを閉める。
「詳細を話してくれ」
「はっ。
どうやら、ミヒールの監視を依頼していた者が殺されたようです。
現場は水浸しで、アスフェン公爵閣下のときと状況が似ております。
そして、ミヒールが行方をくらませました」
「……感づかれたか」
もはや、間違いない。
遅かれ早かれ、ミヒールの調査が進めば、彼女が水術の使い手であると判明していただろう。
だが、もはや、調査を待つまでもない。
ベルエット・ミヒールが犯人だ。
同時に、彼女は行方不明となった。監視がついていると知って逃げ出したか、あるいは……。
「私を狙ってくる可能性も、なくはないな」
犯人が狙ったコルベルン王家の成員のうち、今都にいるのは俺だけだ。そして、犯人――ミヒールが、再び人を殺めたという。未知の力を持つ殺人鬼は、たった今、都の中へ解き放たれた。
もう、なりふり構ってなどいられない。
「今すぐ、天使さんを我が家へお招きしよう」
「え?
どうして?」
「天使さんが敵にしろ味方にしろ、犯人と接触させるわけにはいかない。
彼女の身柄を確保しておくべきだ」
「あんな話した後に、素直に来てくれるかな」
犯人やその手がかりを三ヶ月以上野放しにしてしまうのではないか、という焦り。
焦りを感じると同時に、俺は、自分の行動が裏目に出ているのではないかという不安も感じていた。
「最悪、拉致する」
俺は馬車を繰る御者に、このままアスタルテの後を追いかけるよう命じた。




