#056「変態」
ヴェスリーは術士クラスの生徒である。
術士クラスの教室は、俺たちの教室とは別の建物に設けられており、学外での授業も多い。努めて会おうとしなければ、学内で顔を会わせる機会は皆無といってもよかった。
「シトレイ様の剣の腕前には、このカールセン、驚愕を禁じえません。
シトレイ様の巧みな剣術に、教官ですら舌を巻いています」
「さすがはダーリン殿。
それでこそ私の夫たる者ですわ」
俺は、放課後にちょくちょくヴェスリーと会っていた。彼女の機嫌をとるためでもあったが、俺自身、ヴェスリーと会いたかったからだ。
その日は、俺の他に、ヴェスリーの取り巻きたちも歓談に参加していた。
「カールセンが言うと慇懃無礼に聞こえるが、ハイラール伯爵の剣の腕前は本物です。
今や、三組でハイラール伯爵に敵うのはフォキアさんぐらいじゃないですか?」
「そのとおり。
実地試験では、一人でトードを倒していましたしね」
褒めすぎだ。
幼年学校の頃よりは、確かに、俺の剣の腕は上がっただろう。クラス最下位が指定席だった俺が、今ではフォキアに次ぐ実力を持っているというのも、事実かもしれない。
だけど、あくまでクラスの中での話だ。
ほとんど実戦経験がない学生集団の中で二位なのだ。唯一の実戦経験の相手となった怪物トードだって、一般的に弱い害獣とされていた。
確かに剣術の教官には褒められるようにもなっていたのだが、それでも、教官に勝てたことはない。俺の剣の腕は、世間一般で言えば、悪くはないほう、といったところだろう。
ここで、驕れば、井の中の蛙だ。
「やめてくれ、恥ずかしいじゃないか」
驕ってはだめだと思いつつ、俺は褒められることを本気で拒否しなかった。わかっていても、褒められるのは嬉しかった。もっと、褒めてくれ。
「皆さんの言うとおり、ダーリン殿は腕の立つ剣士ですわ。
しかも、知ってのとおり、勉学では右に出る者がいません。
そして、とても情が深く、確固たる勇気の持ち主でもあるのです」
ヴェスリーは、俺がサイファ公爵邸へ乗り込んだときのことを語ってみせた。
だが、詳しいやり取りまでは語らなかった。セエレの一件や親との関係、コルベルン王家とサイファ公爵の対立の深いところまで、取り巻き連中に教えることはできない。それに彼女が話したかったのは、もっと別の部分のようだ。
「……ダーリン殿はお父様に対し、一歩も引かずに宣言したのです。
どんな困難が待っていようとも、必ずや私を嫁に迎えて下さる、と。
例えお父様や宰相を敵に回してでも、必ずや私を幸せにして下さる、と」
あれ、あのとき、俺はそこまで言ったっけ。
「あの軍務次官閣下を相手にですか!
愛されていますね、ヴェスリー様」
「ええ、うやらましいでしょう?ホホホ」
「やめてくれ、恥ずかしいじゃないか」
先ほどと同じ台詞だが、今回は本心から出た言葉だった。本当に恥ずかしい。
だけど、ヴェスリーは上機嫌だ。彼女が上機嫌なら、それでもいいか。
「そういえば、ダーリン殿。
ダーリン殿は私の家に何度か来て下さいましたけれども、私は貴方の家にお邪魔したことがありませんわ。
一度、ダーリン殿の家を見てみたいのですけど」
「え?
ああ。
かまいないが」
都の屋敷にはアギレットがいる。ヴェスリーもアギレットも、お互いに相手のことを嫌っているようだった。俺やフォキアだけでフォローできるだろうか。
「いいですね」
「私もハイラール伯爵のお屋敷を拝見したいと思っていました」
「おお!
このカールセンも、シトレイ様のお屋敷へお供しましょうぞ」
人数が多ければ、ヴェスリーとアギレットが直接対決……もとい、話をする機会が減るかもしれない。
「うん。
何なら、クラス全員を招待しようか。
ヴェスリーが術士クラスに移ってから、全員が集まる機会もなくなったしね。
全員で、親睦を深めようじゃないか」
俺の提案は受け入れられた。クラス全員の予定を確認し、来週の休日に俺の家へ生徒が集まることになったのだった。
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ヴェスリーの家や祖父の家に比べれば、我が家は決して大きくない。大きくないのだが、クラスメートは口々に「大きすぎる」と驚いていた。
「シトレイ様、じゃなくてシトレイ。
君が貴族だと、改めて思い出しました」
「思い出して、出会った頃のように距離を作らないでくれよ、スティラード」
「それは大丈夫です。
今さら、あのときのような態度に戻れと言われても、難しいですから。
それにしても、大きいですね」
俺は客人たちを食堂へ案内した。うちの応接間には、十人分の席がないからだ。
俺たちが席に着くと、アギレットが紅茶を出してくれた。出された紅茶はレモンティーで、すっきりとした味が口の中に広がる。
「ちょっと、アギレットさん。
私の紅茶だけ、色が違うのですが、これは本当に紅茶なのですか?」
隣に座るヴェスリーのティーカップを覗くと、確かに色がおかしい。彼女の紅茶は、赤茶色というよりは黒に近く、カップの底が見えなかった。
「それは紛れもない紅茶です。
色は、ヴェスリー様の気のせいではないでしょうか」
ヴェスリーはアギレットを睨んだ。アギレットはそれを平然と受け止めている。こうなることは予想していたが、まさか、アギレットの方から仕掛けてくるとは思わなかった。
「こんな得体の知れない物質、飲めるわけ……」
と言いつつ、ヴェスリーは俺の顔を見つめた。そして、再び紅茶に視線を戻す。彼女は俺の顔と紅茶を交互に見比べた。
なるほど、彼女は客人だ。
使い古したオイルのような液体を出されたら、普通は口にできない。だけど、彼女は育ちが良かった。主人から出されたものを無下にできないなどと考えているのだろう。
「ヴェスリー、私と紅茶を交換しよう」
彼女の返事を待たずに、自分のカップと彼女のカップを入れ替えた。
「シトレイ様!
それはヴェスリー様にお出しした紅茶です!いけません!」
「落ち着け。
これは紛れもない紅茶だと、君も言っていたじゃないか。
たまたま、ヴェスリーのものが濃くなってしまったのだろう?
大人数に紅茶を入れるときは、均等な濃さになるよう入れなくてはダメだよ」
まさか、毒が入っているわけではあるまい。俺は紅茶のような黒い液体に口をつけた。
苦っ!
……紅茶をどれだけ煮詰めれば、こんなに苦くなるのだろうか。
俺は口に汚泥のような紅茶を含んだまま、固まってしまった。
だが、吐き出すことはできない。あくまで、この紅茶は濃さを間違ってしまっただけなのだ。アギレットがミスしてしまっただけなのだ。アギレットに他意はない。ヴェスリーは歓迎すべき客だ。主人である俺が、そう示さなくてはならない。
目に力が入るのを感じるが、人相が悪いのは今さら指摘されるまでもない。ゴクリと飲み干した俺は、笑顔を見せてやった。
「ほら、普通の紅茶だよ」
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「……苦労してるわね」
歓待が一段落した後、アスタルテが話しかけてきた。今日も、休日だというのに彼女は制服を着ている。
「そうかな」
「ええ。
でも、不思議だわ。
婚約者であるサイファさんにならともかく、どうして自分の家の使用人にまで気を使うのかしら?
使用人を叱って、新しい紅茶に取り替えさせれば済んだ話じゃない」
「アギレットは私の小姓だが、同時に大事な友人でもある。
アギレットを叱れば、アギレットのヴェスリーに対する感情は決定的に悪くなるだろう?
私は、二人に仲良くしてもらいたいんだ」
「ふぅん」
アスタルテが珍しく笑った。意味ありげな含み笑いだ。
「……随分と、使用人の肩を持つのね。
あの子を気に入ってるのかしら?
確かに、あの子は整った顔立ちをしているしね。
……私には負けるけど」
「そんなんじゃないよ」
そんなんである。
俺はアギレットが好きだ。アギレットの気持ちは……おそらく、俺のこと好きでいてくれていると思う。けど、確証はない。
確証はないが、いずれ、はっきりさせるときが来ると思う。
はっきりさせて、もし、アギレットが俺と一緒になってくれたら、ヴェスリーを加えてハイラール伯爵家のハーレムが完成だ。
そうなったとき、二人が不仲だと困る。
「俺のために争わないで!」というわけだが、そんな可愛い表現をするつもりはない。
俺は二人が欲しい。そのために、仲良くしてもらいたいのだ。これは俺の醜く深い欲と、そこから来る打算なのだ。身の程知らずという自覚はある。
「とにかく、仲が悪いよりは、仲が良いほうが絶対にいいだろう?」
「そうね。
ただ、シトレイ君があの子に向ける気持ちを、少しでもドミナ様への敬慕に回すべきじゃないかしらとも思うわ」
また、それか。
「天使さん。
君はどうして、そこまでドミナにこだわるのだ?
君のお家の教育方針かい?」
皇宮で会ったミヒールという名の近衛兵を思い出す。アスタルテの姉……のようなものだ。ミヒールと交わした言葉は少なかったが、彼女も強い信仰心の持ち主に見えた。
「私の家?
どうかしらね。
両親は私が幼い頃に亡くなったわ」
「では、お姉さんの影響か?」
「姉……?」
アスタルテは怪訝そうな顔をする。
「どこで会ったの?」
「皇宮だ。
君のお姉さんは近衛軍に務めているのだろう」
いつも無表情なアスタルテ。その彼女の表情が、少しばかり険しいものに変わっていった。
「姉、ね。
会ったのね。
そう……」
その後、彼女はずっと黙ってしまった。
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それから数日後のことである。
俺は放課後、ヴェスリーに呼び出された。場所は、本校舎と、術士クラスの入る建物の間にある中庭の隅だ。
「……ここ数日間、私は葛藤していました。
私の心の中では、ダーリン殿への愛と、モラルと羞恥心が激しい戦いを繰り広げていたのです。
苦しい戦いでしたが、やはり、ダーリン殿への愛が勝利をおさめました」
「何の話だい?」
「既に予行演習は済んでいます。
メイドには止められましたが、私の決意は変わりません」
「だから、一体、何の話をしているのだ?」
「……ダーリン殿が、裸族だといことについてです」
「は?」
ヴェスリーの話によれば、俺は裸族だという。
屋敷にいるときは、常に裸で過ごしているというのだ。
「待て待て待て、この前、君は我が家に来たじゃないか!
私はちゃんと服を着ていただろう?」
「それは、客人がいるときは服を着ているのだと」
「待つんだ、落ち着くんだ。
一体、誰からそんな話を聞いたんだ?」
どこから仕入れた情報かと問いただすと、ヴェスリーは要領を得ない答えを返してきた。
「……そういえば、どなたからお聞きしたのでしたっけ。
えっと……ダーリン殿の家臣の方……?
いえ、三組の生徒からでしたかしら……そうすると、フォキアさん?
いえ、でも……あれ……?」
情報源を思い出せないような、あいまいな話を、なぜヴェスリーが信じたのか。理由はわからなかった。
とりあえず、俺が裸族であることを否定し、彼女は納得してくれた。
屋敷へ帰ると、念のためフォキアに問いただしたのだが、フォキアも何のことだかさっぱりわからないと言う。一体、なぜこんな話が出回ったのだろうか。
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「あれ?
パンツがない」
夜、入浴の前に、俺はお気に入りの緑のパンツがなくなっていることに気づいた。
衣装係のメイドに問いただすと、アギレットが失くしてしまったという。シーツやらスプーンやら、彼女は色々とドジを踏んでいるが、今度はパンツか。
「それで、リュメールさんが代わりのパンツを買ってきたのです」
衣装係のメイドから黒いパンツを手渡された。普通の、綿のパンツのようだが、編み目は細かく、肌触りがいい。生地は薄そうだが、触った感じは丈夫そうに思えた。
質の良いパンツのようだ。
俺は新しいパンツを持って風呂場へと向かった。
すると、途中でアギレットと出くわした。
「アギレット、このパンツなんだけど」
「申し訳ありません、シトレイ様。
実は、シトレイ様の緑のパンツを失くしてしまい……」
「ああ、失くしてしまったものは仕方ないよ。
別に怒ってない。
だけど、この黒いパンツは、もしかして、またアギレットが自腹を切って買ったものかい?」
「はい!」
そういうと、アギレットは自慢げに新しいパンツの解説を始めた。
何でも、良質な南ファフニア産の綿、しかも年に一掴みしか採れないという一本一本が長い最高級コットンを使っているらしい。織ったのは都でも有名なデザイナーの工房で、卸したのは中央広場に店を構える有名ショップだという。
値段は、銀貨一枚と銅貨五十枚。前世の感覚で言えば、一万円から二万円はする高級パンツだ。
「なぁ、アギレット。
気持ちは嬉しいのだが、本当に、君の財布は大丈夫なのか?」
貴族としての体面があるから、身に付けるものは気をつけなければならない。だが、下着は別だ。誰に見られる心配もない。
その辺の商店で安売りされているパンツで十分だ。
「大丈夫です。
お気になさらないで下さい。
今は、これぐらいしかできませんから……」
アギレットは意味深に顔を伏せた。
「今は?
どういうことだ」
「……ここ数日間、私は葛藤していました。
私の心の中では、シトレイ様への忠誠心と、諦めとやり場のない怒りが激しい戦いを繰り広げていたのです。
苦しい戦いでしたが、やはり、シトレイ様への忠誠心が勝利をおさめました」
「何の話だい?」
「主君の喜びこそ、家臣の喜び。
身体のこととなると、自分の意志どおりとはいきませんが、それでも最初から諦めることだけはしたくないのです」
「だから、一体、何の話をしているのだ?」
「……シトレイ様が、巨乳志向者であることについてです」
「は?」
アギレットの話によれば、俺はおっぱい星人だという。
Dカップ以下のバストを持つ女性は、女性として見ることができない、いや、それどころか、Dカップ以下の女性には嫌悪感すら持っているのだそうだ。
「ちょっと待て、私が巨乳志向者だと?
そんな事実はないぞ。
そんな考えは持ち合わせていない」
「本当ですか?」
「本当だ。
第一、単純なサイズのみで語るのはナンセンスだ。
張りや形こそ重視すべき点であろう。
それを理解せず、単純なサイズの大小のみを騒ぎ立てる人間が多い。
とても、嘆かわしいことだ」
「では、例えば、私のような女性はどうですか。
私のように、その、無いのはどうですか」
「愚問だ。
張りや形こそ重視すべきと言ったが、それよりもさらに大事なのは、その人間に合っているかどうかだ。
顔や胸ばかり気にする人間は多いが、一番重要なのは、体全体のバランスなのだ。
服装だって、個々のコートやシャツのデザインよりも、全体の、トータルコーディネートが重要だろう?
それがわからぬ人間の多いこと多いこと。
アギレット、君の場合は清楚な、線の細い美人といった印象を受ける外見だから、胸は小さい方がいい。
君のような女性が、胸だけ大きかったら違和感を感じるよ。
逆に、そういうギャップが良いという人間がいるのも事実だ。
だが、私は、その人に似合っている大きさこそ正解であり、ジャスティスだと思っている。
私は正統派だ」
俺の熱のこもった説得が功を奏し、アギレットの悩みは解消した。一件落着だ。
しかし、ヴェスリーと同様、アギレットの話も、情報の出所がわからないらしい。誰かから聞いた話らしいが、その誰かがわからない。
流された話の内容だけ見れば、ただのイタズラのように思える。
だが、話の出所は巧妙に隠されており、なおかつ、アギレットもヴェスリーも、その話を信じきっていた。
何者かが、暗躍している。
俺は危機感を持つことはなかったが、薄気味悪さは感じていた。




