#054「リベンジ」
二年の初秋。暑さが落ち着いてきた頃。
我がクラスは野外での実地試験を受けた。
「実地試験では、クラス単位で評価がつけられる。
この評価は、卒業席次に関わるものだ。
心して受けるように」
卒業時の成績上位十名は、百人隊長に任命される。今回の実地試験での評価は、その成績に加味されるのだ。クラス全員の士気は高かった。嫌でも気合が入る。
「我が三組は他のクラスに比べ一人足りません。
不公平ではありませんか?」
「クラス単位の評価は、生徒全員へ平等に分配される。
戦力が少ない分、一人あたりの取り分も多い。
これを不公平と思うか否かは、貴様ら次第だ」
実地試験の内容は、害獣討伐だ。普通は軍や領主が行うのだが、今回は試験だから、生徒たちのみで行う。
「小官も同行するが、あくまで評価のためだ。
引率するわけではないし、助けもしない。
小官を当てにするなよ」
毎年行われる実地試験も、場所は様々だ。毎年同じ場所に、都合よく害獣がいるわけではない。マルコやフリックの話では、去年は討伐相手を求め、わざわざ船に乗って遠征したらしい。
だが、今年は遠出する必要がなかった。場所が、都近くの森だったからだ。
「ここはもしかして」
「ああ、そうだ。
この中には、既に『予習』をしている者が何人かいるのだったな」
実地試験の会場は、俺とヴェスリーが和解するきっかけを作ってくれた、あの森だった。
============
やぶ蚊の大量発生を予防するため、都の西に位置するこの森では、怪物トードの繁殖が半ば放置されている。それでも、数が増えすぎると困るから、時折、駆除されているという。前述の理由があるため、全滅させることはできない。
今回の試験では、一クラスあたり最大で十体まで討伐することが許されていた。
「先生、十体なんて無理だと思いまーす」
「最大で、だ。
実戦経験のない貴様らの力量を考えるなら、五~六体もしとめれば上出来だろう」
「五~六体って言ったって、それでも多いよ……。
去年の学年トップは三体って聞きましたし」
フォキアの言う討伐数三体でトップという話は、マルコから得た情報である。
「怪物トードは、比較的相手にしやすい害獣だ。
去年は討伐相手が皇帝狼だったからな。
単純な数は比較にならない」
そうは言っても、そんなに倒すことができるのだろうか。
マークベス教官の言うとおり、一般的に、怪物トードは弱い害獣とされている。
だが、俺にとっての怪物トードとは、三年前に泥まみれになりながら荷物を捨てて逃げた相手なのだ。あの時、実物と相対した俺は、文字通り腰を抜かしてしまったのである。まさに恐怖の対象だった。
見ると、俺と同じく「予習」を済ませているヴェスリーの取り巻きたちも青い顔をしている。
「ハイラール伯爵。
あのときは、伯爵とヴェスリー様が相手をなさったのでしたよね。
我々は逃げ出してしまいましたけど……伯爵は、怪物トードと実際に相対してどうでした?」
「死ぬかと思った。
一太刀浴びせたが、まったく歯が立たなかったんだ。
恥ずかしい話だが、腰を抜かしてしまったよ」
俺の体験談を聞いて、生徒たちにに恐怖が走る。つい先ほどまで高かった士気が、四散してしまったようだ。
一方、そんな中でも、平気そうな生徒がいた。
「何体倒せるかわからないけど、大丈夫だって。
ヴェスリーは、その蛙の足を剣で叩き切ったんでしょう?
三年前のヴェスリーにできて、あたしたちにできないはずがないし」
五~六体という目標数に不満を漏らしていたフォキアだが、怪物トードを狩ること自体にはやる気を見せている。フォキアは腰にぶら下げた剣をペシペシ叩きながら言った。彼女は、剣を振るうことが大好きなのだ。
「……最大十体ということは、十体倒した時点で試験は終わりなのでしょう?
さっさと終わらせて、休憩しましょう」
アスタルテは、普段どおりの表情と抑揚のない声で、淡々と言った。
「天使さん、君は怖くないのか?」
「……怖さなんて感じないわ。
私にはドミナ様のご加護があるのだから」
「そですか」
怖気づいている生徒の方が数は多かったが、試験から逃げることは許されない。俺たち三組は、意を決して森へと足を踏み入れた。
============
生徒たちは隊列を組んで進む。
先頭は、我がクラスで一番の剣士であるフォキア。その脇をスティラードが固める。スティラードは反射神経や瞬発力が良い。彼は相手の攻撃をかわしたり、受け流すことに長けていた。
スティラードが引きつけ、フォキアがアタックを仕掛ける。このコンビが、我がクラスの主力アタッカーだった。
二人の後を、シムズとオーランドの試験入学組が続く。その次はヴェスリーの取り巻き三人衆が固めた。
殿は俺だった。
驚くべきことに、俺はクラスの中でも「剣の腕が立つほう」という認識を持たれていたのだ。
三百回素振りをするような無茶なやり方はしていないが、稽古自体は続けている。それも、幼年学校時代に行っていた、体力作りを主眼に置いたものではない。実戦で役立つ、剣の腕自体の向上を目指した訓練だ。この一年半の間、フォキアや剣術の教官を相手に、互角稽古や引き立て稽古をやりまくったのである。
俺の隣はアスタルテが歩いている。彼女も、俺と同じく殿を任されていた。
彼女は剣の扱いに長けている。いや、剣に限らず、槍の扱いも、乗馬も、あらゆることを一通りこなすことができた。
彼女の腕は細い。運動神経が良いわけでもなかった。だが、武器の扱いが、戦いの組み立て方が上手いのだ。
剣術の教官に言わせれば「どこにどのくらいの加減で剣を突き出せば、どういう反応が返ってくるか全てわかっている」ように感じるらしい。
「能力自体は平凡だが、戦いの知識が豊富」という評価だ。当の本人は、その評に対し肯定も否定もしなかった。
「……延々と続く木々が途切れたかと思いきや、今度は沼地よ。
見て、これ。
私の黄金の左脚に泥がかかってしまったわ」
既に、我がクラスは沼地まで進んできていた。
見ると、アスタルテの左足、膝の少し上あたりに泥がついている。
この世界にはサッカーというスポーツは存在しない。だから彼女のいう黄金の左脚とは、美しい脚とか、そういう意味だろう。確かに、ブーツとスカートの間から覗く脚は、白くて綺麗だった。
「……早く終わらないかしら。
だいたい、蛙を一体ずつ倒していくなんて効率が悪いわ。
実際に軍がやっているように、術士を使えばいいのよ」
大規模な害獣討伐では、戦争の時と同様、術士が活躍する。兵士たちが害獣を追い詰めるように包囲してゆき、そこに術をぶつけて、一気に何十体もの害獣を駆除するのだ。
「これは試験なんだから無理だよ。
それに、包囲網を組めるほどの人数は投入されていないしね。
ただ、これから実際に戦わなきゃいけないって考えると、確かに、誰かが術で一気にやっつけてくれないかとは思う」
ヴェスリーの強力な雷術なら、怪物トードなど簡単に始末できるだろう。だが、今はもう、このクラスにヴェスリーはいない。
それに、いくら強力といっても、術の発動には時間がかかった。打てるのも一回こっきりだから失敗したらお終いだ。やはり、包囲網を築いて、害獣たちを足止めしなければ、術で駆除することはかなわないだろう。
あるいは、最初の術の実技でアスタルテが見せたように、数分で術を放つことができれば話は違ってくるかもしれない。
結局、アスタルテが見せた術の高速発動は、まぐれだったらしい。二回目の実技でも、三回目の実技でも、彼女は一時間以上かかって術を発動させていた。
「……まぁ、現実味のない、無理な話よね。
ここはもっと、現実的な方法を考えましょう」
「現実的な方法?
なんだい、それは」
「ドミナ様に祈ることよ」
下町の教会での一件以来、信仰の話は避けていたのだが、油断してしまったようだ。いや、それにしても、今の流れは強引だ。油断していようが、警戒していようが、どうしようもなかったに違いない。
「また、それか」
「……シトレイ君は、本当に不信心ね。
本当、そんなことでは困るわ」
口調はいつもどおり棒読みで、表情はいつもどおり変化がない。本当に困っているのか、それはわからない。
「いいわ。
これを食べて」
彼女はポケットから包み紙を渡してきた。中には、胡桃が一粒入っていた。
「例の胡桃か」
「ええ。
聖地の司教様が祈りを捧げた特別な……」
「それは嘘だろう?
司教だろうが神父だろうが、彼らはただの人間だ。
そんな力を持っているはずがない」
「……そう、嘘よ。
でも、特別な力があるのは本当。
騙されたと思って食べてみるといいわ」
「毒など入っていないだろうな?」
「入っていたら、今頃私は大量殺人犯ね」
同じものかはわからないが、複数の男子生徒が口にしている胡桃だ。それに、アスタルテから買った胡桃を食べたおかげで幸運が舞い込んできたという話を聞き、俺は疑わしいと思いつつ、試してみたいという気持ちも持っていたのだ。
「銀貨一枚か?」
「……今回はサービスしてあげる。
タダよ」
胡桃を口に入れる。
あ、おいしい。
「ピンチになったら、ドミナ様に祈ることね。
そうすれば、神様が助けてくれるから」
その後、アスタルテは黙ってしまった。
沈黙に耐えかね、声を掛けると、彼女は「後ろを見て」と一言だけ返してきた。
チラと後ろを見ると、十メートルほど後ろからついてくるマークベス教官が、俺たち二人を睨んでいる。
そうだった。これは試験なのだ。マークベス教官が明言したわけではないが、もしかしたら、試験に臨む態度まで評価されているのかもしれない。
俺は前を向き、気を引き締めて歩みを進めた。
============
「こんなに弱かった……のか?」
試験が始まって二時間ほどの間に、我が三組は三体の怪物トードを倒した。
初めの二体は俺たちの前方から現れた。それを、フォキアとスティラードの二人が相手し、試験入学組の男子二人が加勢する。
四人は、特に苦戦する様子もなく、後ろ半分の生徒たちを待つまでもなく倒してしまった。
三体目は後方、ちょうど俺やアスタルテと、マークベス教官の間に現れた。
最初に気づいた俺とアスタルテは、すぐに大声でクラスの連中に注意を促し、トード相手に剣を抜いた。
俺とアスタルテの二人で倒せるとは思わなかったから、まずは牽制し、他の生徒たちの助勢を待とうと考えたのだ。
だが、トードは俺たちの大声にも、剣を構える姿にも、(特に俺の)目つきにも怯むことなく、こちらへ向かってきた。
「……シトレイ君、私が引きつけるから、貴方が攻撃して」
俺はトードとぶつかる直前で横へと回り込んだ。トードは興奮した様子で、そのままアスタルテへ向かって直進していく。
俺はトードをやり過ごすと、その後ろ足に剣を突き出した。
三年前はまったく歯が立たなかったのだが、俺だって成長してるはずだ。動きを止めることぐらいはできると考えてのことだった。
俺の突き出した剣が刺さると、トードは体勢を崩した。
剣を抜き、もう一度同じ場所に剣を叩き込む。すると、トードの後ろ足が吹っ飛んでしまった。
いけると思った俺は、すかさずトードのわき腹に剣を突き刺し、思いっきり引いた。トードは、倒れて動かなくなった。
「だから、シトレイはビビりすぎなんだって。
シトレイが苦戦したのは三年も前の話でしょう?
もっと子供のときの話じゃん。
成長したんだよ」
「確かに、フォキアの言うとおりだ。
私も、成長したのかもしれない」
あのときよりも、剣の腕は確実に向上している。体力もついた。
「体も大きくなったしな」
「……何センチ伸びたの?」
「三年前と比べると、15センチぐらいかな」
「なんでそんなに伸びるの!?」
怪物トードへの恐怖はなくなっていた。二時間で三体討伐となると、非常に良いペースでもある。目指すは学年トップだ。
============
問題が発生したのは、四体目の怪物トードと遭遇したときである。前方から現れたトードに対し、再びフォキアとスティラードが相手する。
と、ここで左の側面からもう一体現れた。と思いきや、反対側からも怪物トードが姿を現す。計三体だ。 いや、さらにもう一体、左後方の茂みからトードが出てくる。俺たちは四体のトードに囲まれてしまっていた。
「シトレイ様、どうしましょう!」
ヴェスリーの取り巻きの一人、カールセンが泣きそうな声で叫んだ。
後方を見ると、今までトードと遭遇しても顔色一つ変えずに観察していたマークベス教官が剣を抜いている。戦闘には参加しないと言っていた教官が臨戦態勢をとっているのだ。それほど悪い状況なのだろう。
確かに、いくら相手が怪物トードと言えども、一度に四体相手にすることは危険に思える。
「フォキアとスティラードはそのまま前方の一体を相手にしてくれ!
シムズ君とオーランド君は左側のトードと戦うんだ。
無理はダメだ。
まずは牽制して、身を守ることを考えてくれ。
フォキアとスティラードなら、二人だけでも一体倒せるはずだ。
そしたら、君たちに加勢できる」
「わかりました!」
再び後方を確認する。
マークベス教官は剣を抜き、先ほどよりも近い位置に立っていた。だが、立っていたままだ。ギリギリまでは、生徒が命の危険に晒されるまでは、手を貸さないつもりなのだろう。今回は士官学校の、実地での試験だった。
「カールセン、ブルゴ、アティス、君たちは三人で右側の一体を頼む。
きついと思ったら、身を守ることを優先してくれ」
「了解しました!」
あとは、俺とアスタルテで左後方の一体を倒す。すぐに倒して、他の生徒たちに加勢するのだ。余裕のない戦いだが、勝機は十分にある。
「いくぞ、天使さん!」
あれ?
「天使さん?」
つい先ほどまで、隣にいたはずのアスタルテがいない。
左後方の茂みから現れた怪物トードは、すぐ間近まで迫っていた。
「まじかよ、天使さん!!」
迫りくるトードを脇にずれて回避し、俺はトードの前足に剣を叩き込んだ。剣は前足をかすめ、宙を切る。
当たれば、前足を吹っ飛ばすことができただろう。だが、先ほどはアスタルテが囮となってくれたのだ。あの時は、アスタルテに注意を向けていたトードを、後ろから切りつけたのである。
今、俺が相手している怪物トードは、俺をじっと見つめている。
俺と怪物トードはしばらく向かい合った。お互い、牽制してのことである。
しばらく牽制は続いたが、動いたのはトードのほうだった。
トードは体を落とし、屈むような体勢をとる。
「ハイラール!
押しつぶされるぞ!回避しろ!動け!」
マークベス教官の叫び声が聞こえる。
トードが屈むのは、ジャンプするための予備動作だ。トードがジャンプするのは、相手を押しつぶす意図を持ってのことである。体の大きな怪物トードが屈んだら、すぐにその場を離れなくてはならない。全部、授業で習っていた。
一人でトードに立ち向かわなくてはいけない状況に、気が動転したのかもしれない。俺の判断は一瞬遅れた。
自分やトードの動きがゆっくりに見える。危機的状況において、周りがスローモーションに見える、タキサイア現象というやつだ。
既に、トードは宙に浮いていた。一方、俺はまだ、回避行動に出始めたところだ。半歩、間に合わない。このままでは、片足が持っていかれる。
俺は恐怖に駆られ、目を瞑り、前方に剣を突き出し、遮二無二振った。
死にたくない。片足をつぶされるなんてごめんだ。
「――――ッ!」
ドーンという音と、地面の揺れを感じる。足も、体の他の部分にも、痛みはなかった。
目を開けると、目の前で怪物トードが倒れている。
「え、なんで」
俺の突き出した剣は、トードを捉えていたものの、皮膚を浅く傷つけただけだった。
だけど、トードは倒れていた。目の前の巨体を剣でつついてみても、反応がない。トードは死んでいた。
「無事か、ハイラール」
「え、ええ。
大丈夫です」
「そうか。
状況が状況だ。
今、小官が貴様に注意を促したことはなかったことにする。
それよりも、まだ三体残っているぞ」
「はい」
その後、俺は前方で苦戦する取り巻きたちに加勢した。
============
「……あら、無事だったのね。
よかったわ」
すべての怪物トードを倒し終えた頃、アスタルテがひょっこりと現れた。
「どこへ行っていたのだ」
「……言えないわ」
少人数での戦闘は、例え一人欠けただけでも大幅な戦力減になる。しかも、アスタルテは勝手に隊を離れたのだ。
「どこへ行っていたのだ」
俺は怒りを隠さずに、同じ質問を繰り返した。
「……お花を摘みに」
「は?」
「……あら、隠語を理解できないのかしら?
私はトイレへ行っていたのよ。
もちろん、こんなところにトイレなんてないから、必然的に野ショ」
「わかった、わかった。
もういいよ」
どうも、彼女と話すと調子が狂う。
「活躍したみたいじゃない。
よかったわね。
これも、ドミナ様のご加護の賜物よ」
それだけ言うと、アスタルテは休息をとる他の生徒の元へ行ってしまった。俺にはお花を摘みになんて言ったくせに、他の生徒にはしっかりと謝罪している。
ドミナの加護か。
地面に横たわる四体の巨大な死骸のうち、俺は最初に倒したトードの死骸を見つめた。
いや、俺が倒したのではない。勝手に倒れたのだ。それがドミナの加護だとでもいうのか。
じっと死骸を見ているうちに、俺は違和感を感じた。何か、変なにおいがする。香ばしいというか、焦げ臭いというか、そんなにおいがするのだ。
気になって、トードの死骸を触ってみる。死骸はとても熱い。
今度は、死骸に剣を突き立て、捌くように引いてみる。
「なんだ、これ……」
見ると、トードの内臓の一部が黒焦げになっていた。
「……」
焦げた内臓は、見ていて気持ちのいいものではなかった。俺は、死骸から離れ、休息をとる生徒たちに合流した。
============
結局、我が三組は、その後さらに三体の怪物トードをしとめることができた。討伐した数は合計十体。
結果はもちろん、学年トップだった。
「どうしたの?
シトレイ」
屋敷で夕食をとっている最中、フォキアが声をかけてきた。
フォキアは家臣ではなく客分という扱いだったから、こうして主人である俺と共に食事をとることができる。
「考えごとしてた」
「ああ、評価のこと?
考えるまでもないよ!
ぶっちぎりの一位だったし」
「うん、そうだね」
怪物トードの内臓が勝手に燃えていた。どう考えても、ありえない話である。実は、俺は火炎剣を放つことができるのだ、というオチはない。あれは超常現象だ。
超常現象という単語から思い浮かぶのは、女神ドミナのことである。
アスタルテのいう「神のご加護」を信じるわけではない。だが、例えば術の存在や、そして転生者の存在は、全て女神ドミナが関与していた。前世の感覚で言えばまさに超常現象と呼べるものが、全て女神ドミナに起因していたのだ。
確信があったわけではないが、このことは他の人間に黙っておいたほうがいいと思った。
いや、女神関連のことだったら、祖父であれば相談できるだろう。今度、祖父に話してみようか。
「お疲れですか?
どうぞ、これを食べて元気を出して下さい。
今日は私が作りました」
メイド服のアギレットが、シチューを出してくれた。
給仕役に徹するアギレットは、俺やフォキアと食事を共にすることがない。彼女の身分が家臣だからだ。俺やフォキアは気にしないし、口うるさい他の家臣がいなければ一緒に食事をとっても構わないと思うのだが、アギレット自身が遠慮している。彼女は、変なところで律儀だった。
随分と美味そうなシチューである。しかも、アギレットが作ったシチューだ。一刻も早く味わおうと、俺はスプーンを持った。
「そういえば、晩餐会でもないのに、どうして銀のスプーンが出てるんだ?
しかも真新しい。
いつもの、木のスプーンは?」
我が家は決して貧乏というわけではない。だが、俺は倹約家だ。少しでも多くの硝石を買い集めなくてはならない。火薬の開発自体は急いでいなかったが、開発後の量産を見越しての考えだった。
貴族としての体面を保つため、見栄を張ることはある。滅多にないが、うちで晩餐会を開くときは、銀製の食器に山のような料理を並べていた。
だが、普段の食事では木製の食器を使う。料理だって、食べきれないような量は決して作らせない。
食事に関することだけではない。祖父の家のように、屋敷の周りまで松明や灯篭を設置してライトアップすることは決して許さなかった。燃料代だって馬鹿にならない。門の前だけ照らしておければ、それで十分だろう。
必要以上に見栄を張らなければ、財布にも環境にも優しい生活を送ることができるのである。ケチではない。エコなのだ。
「すいません、シトレイ様。
実は私がスプーンを失くしてしまいまして……それは私のお給金で買いました」
「そっか。
ああ、別に咎めるつもりはないよ。
でも、銀のスプーンは高かっただろう?」
以前も、彼女はシーツにインクをこぼしたと言って、シルクのシーツを買ってきたことがある。
お咎めなしでは他のメイドたちに示しがつかない。しかし、そのたびに代わりのものを買わせるのは心苦しかった。
「失くしたのは私ですから。
それに、私も成人して、普通の家臣並にお給金を頂けるようになりました」
「その給金は、君自身のために使うべきものだよ。
代わりを買うとしても、木のスプーンを失くしたのなら、木のスプーンで充分だ」
「……すいません。
私は、シトレイ様に使って頂く物を買うなら、いい物を買いたくて。
そのためなら、お給金を使うのも、楽しいですし……」
アギレットの表情が暗くなる。
「あ、いや、違う。
嬉しいよ。
でも、無理はしないでね、って意味だよ」
俺はこの話題から逃げるように、シチューに口にした。
具は鶏肉や玉ねぎ、人参、ジャガイモが入っていた。シンプルなシチューだ。シンプルなのが一番美味い。
「ん、胡桃が入ってる?」
「はい。
炒った胡桃です。
アクセントになると思って入れたのですが、お気に召しませんでしたか?」
「ううん、すごい美味しいよ。
気に入った」
そういえば、トードと戦う前に、アスタルテから貰った胡桃を食べたのだったな。
もしかして、トードが勝手に倒れたのは、あの胡桃の効果なのだろうか。
……まさか。
カールセンに恋人ができたことは超常現象だが、それでも、胡桃のおかげでトードの内臓が焼け焦げたなどとは思えない。
「伯爵様!」
シチューを食べながら考えごとをしている最中、家臣の男が食堂へと入ってきた。火薬製造の責任者に任命した家臣である。
「お食事中すいませんが、伯爵様!
できました!
完成したのです!
カヤクが、完成したのです!」
「本当か!」
「はい!
伯爵様の仰るとおり、火にくべた瞬間、パンッとはじけたのです!」
胡桃を食べた生徒には、いいことが起きたという。
胡桃の効果による「いいこと」とは、トードとの戦闘で命拾いしたことか、あるいは火薬開発の成功か。
今この時点では判断がつかなかった。




