#052「ロノウェ・中編」
東部方面軍。
十二個軍団六万の正規兵と、ほぼ同数の補助兵、合計十二万人の兵員によって構成される。
この数は我が国の全戦線の中でも、最大の兵力であった。大兵力を持ち、常に蛮族との戦いを繰り広げている東部方面軍は、帝国軍の中でも最精鋭という評価を受けている。
東部方面軍が受け持つ戦線全体を見渡せば南側、右翼に位置する軍団が僕の所属する第二十二・神の雷軍団である。
「神の雷」という名前は、通称ではない。軍団の正式名称だった。各軍団は、冗談かと思うぐらい、やたらと威勢のいい名前を採用している。我が軍団の北側には第二十一・異教徒への鉄槌軍団、南側には第二十三・裁きの光軍団が駐屯している。
対蛮族戦線は、他の戦線と比べ過酷と言われている。何十もの部族に分かれている蛮族を相手にするため、その全てと休戦を結ぶことは不可能だった。
また、蛮族は食べていけなくなるとこちら側へ移住しようとする。もちろん、大量の蛮族を受け入れることなどできないから、結局は戦いになるのだ。
東部方面軍の受け持つ戦線では、常に戦闘が絶えなかった。
…と聞いていたのだが。
「暇だなぁ」
いつかシトレイ様から聞いたことがある。前線にいる軍人は休暇が少ないように見えるが、平時においてはむしろ多い方だ、という話だ。
本当にそのとおりだった。
戦いがないときは本当に平和だ。暇すぎて、あくびが出る。
戦いがまったくないわけではない。常に戦線のどこかしらで小競り合いは起きていたし、我が軍団がその当事者になったこともあった。しかし、蛮族の大軍と会戦方式で戦うことは僕が配属されてから一回もなかった。
この戦線での戦闘は、基本的に蛮族側が攻めてきて、我が軍が防御することになる。兵士たちは安全な砦の中に引きこもり、相手の撃ってきた火矢を消し、城壁にかかった梯子を振り落とす。そうこうしてるうちに術士が蛮族の群れに対し術を放つ。総崩れとなり、逃げ帰っていく蛮族を追撃し、何人か殺して終わりだ。被害はほとんどなかった。毎度これの繰り返しである。
「蛮族どもはな、無意味だと知っていながら攻めてくるんだよ。
あいつらは本気で帝国側に侵攻しようだなんて思ってないのさ。
目的は口減らしなんだよ」
同僚の言葉だ。
本気で言ったのか冗談なのかはわからないが、その意見には首肯できる。蛮族側は、毎回得るものもなく、多大な犠牲を払っておきながら同じことを繰り返しているのだ。口減らし以外に理由が思いつかない。
理由はどうあれ、おかげでこちらの被害は少ない。
そして、戦闘が終わればあくびが出るほど暇な平時に移るのだ。
「いい天気だなぁ」
今、僕は国境であり防衛線でもある河のほとりで歩哨の任に就いている。しかし、歩哨といっても、ほとんど散歩のようなものだ。
実際の軍務がここまで平和な仕事だと、半年間の新兵訓練は何だったのかと思ってしまう。
新兵訓練は、まさに地獄のような毎日だった。教官である百人隊長のしごきはきつく、訓練は休む暇もなかった。体力的にも精神的にも追い込まれたものである。何度も脱走しようと思ったし、しごきを受けるたびに、百人隊長の頭に剣を叩き込んでやりたいと思ったものだ。
だけど、あの新兵訓練に耐えたから、今の平和な日常があるのかもしれない。
訓練では、どうすれば上手く敵の攻撃をかわし、受け止めることができるのかを教えてもらった。どうすれば上手く敵の急所に剣を突き立てることができるのかを教えてもらった。僕が今まで生き残れているのは、間違いなく訓練を受けたおかげだろう。
僕は初めて敵を、人を殺した時も、葛藤することがなかった。
無感動な自分を恐ろしくも思ったのだが、これだって新兵訓練での教育の結果かもしれない。訓練では、敵を殺すことこそ家族を守ることに繋がると教育されていた。
「よっこいしょ」
土手に腰を下ろす。一休みだ。
上官に見つかれば怒られるが、平時に、わざわざ一兵卒の服務態度を監視している上官などいない。あまりに平和で緊張感のない生活は、僕にサボる術を身に付けさせてしまっていた。
「助けてくれ」
ふと、遠くで助けを求める声が聞こえる。小さな声だったから、最初は空耳かと思ったのだが、声は確かに聞こえた。
「助けてくれ!」
注意して耳を済ませると、遠く、広い河の中で人が溺れているのを発見した。国境の河は広いが、流れは緩やかだ。よくこんな河で溺れることができるな、と感心してしまう。
「今助けます!」
僕は近くまで行くと鎧を脱ぎ捨て、河へダイブした。
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溺れていたのは五十歳ぐらいの男だ。長い頭髪と髭、そして大きな耳飾は、男が蛮族の者であることを表している。
たき火を起こすと、僕は持っていた干し肉を食べさせてやった。
「水もいりますか?」
「いや、水はさっき散々飲んだよ」
干し肉に食らいつく男をボーっと眺めながら、この男が何者なのか考える。この当たりに住んでいる蛮族は大きな部族が一つ、小さな部族が四つほどだ。
大きな部族は、よく我が軍に突っ込んでくる問題児である。この男が、その部族の人間だったらどうしようか。僕は今問題行動を起こしているのではないだろうか。
「そこまで警戒するな。
私はカラボネソス族の人間だよ。
ボートに乗って釣りをしていたのだが、居眠りをしてしまい、気づいたら溺れていたのだ。
助けてくれてありがとう」
男は、中立関係にある小部族の人間だという。ならば、助けたとしても問題ないかもしれない。
「お礼はいいですよ。
でも、いかに中立部族の方といえども、河のこちら側は我が国の領土です。
見つかったらまずい。
もう一度泳げますか?」
「え!
ついさっき溺れていた人間に、泳いで帰れというのか!」
「不法越境で縛り首にされるよりは、泳ぐ方がマシだと思いますけどね」
男は「見捨てないで!」と懇願するような目で見てきた。五十男にそんな目で見られても、まったく嬉しくない。
「う~ん、わかりました。
ちょっと待っていて下さい」
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「これでどうでしょう?」
僕は砦の倉庫から天幕を持ってきた。この天幕は、敵地へ遠征する時、陣営を築くための材料である。だけど、遠征なんて滅多になく、半ば放置されていたから持ち出すのは簡単だった。あとで新しいものを買って倉庫に戻せば大丈夫だろう。
天幕は当然ながら防水性だ。袋にして空気を入れ、口をふさげば浮き輪になる。
「にわか作りですが、河を渡るだけならもつでしょう」
「貰ってもいいのか?」
「いいですよ。
あげますから、さっさと泳いで帰って下さい」
この男は事故でこちら側に来てしまっただけだ。戦場で敵を殺すことは何とも思わないが、不幸な事故のせいで処刑されるのは見たくない。
「ありがとう、君は命の恩人だ。
名前は何というのだ?」
「ロノウェです。ロノウェ・リュメール」
「ロノウェか。
私はカラボネソス族のディレックスだ。
ありがとう、絶対に忘れないぞ、恩人よ!」
男は天幕の浮き輪を抱きながら、河を泳いでいく。
対岸に着くと、大きな身振りでこちらに手を振った。僕は槍をかかげ、それに応えた。
その日や次の日はいつもより気分が良かった。
敵の命を奪うのではなく、人を助けることができたのである。特にそれが功績になったわけではない。だけど、気持ちは良かった。人間は根本的には、良心的な存在なのかもしれない。
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東部方面軍の司令官に呼び出されたのは、それから二週間後のことである。
初めは天幕を持ち出したことがバレたのかと思った。しかし、一兵卒の横領で方面軍司令官から直接叱責を受けることなど聞いたことがない。
では蛮族を見逃したことか、とも思ったのだが、それだって同様だ。軍団司令官クラスから詰問を受けることはあるかもしれないが、十二万人の兵を預かる方面軍司令官が直接尋問するような事件ではない。
いずれにせよ、雲の上の人から呼び出しを食らったのだ。
僕は、駐屯地の砦から方面軍司令部が置いてある東部地域の中心都市シントまで昼夜問わず馬に鞭を入れて馳せ参じることになった。
シント城塞の司令官室に入ると、方面軍司令官やその幕僚たちが勢ぞろいしていた。皆将官だ。僕は緊張した。移動の疲れが一瞬で吹き飛ぶ。
敬礼し、改めて並び立つ上官たちを見渡す。すると、司令官や幕僚たちと一緒に、見慣れぬ男が同席していることに気づいた。蛮族のようだが、随分と高価そうな服を着ている。
「あ、貴方は!」
見慣れないのは服装のためだ。よく見れば、顔は知っていた。河で溺れているところを助けた蛮族、ディレックスである。
「こちらはカラボネソス族のディレックス族長だ」
「やあ、命の恩人。
恩を返しに来たぞ」
彼の言葉を合図に、司令官が着席を促す。僕は一礼し、下座に座った。
「考えあぐねていたのだが、君に助けられて決心がついた。
我が部族は帝国に味方する」
ディレックスの話によれば、近々蛮族の大攻勢が行われるらしい。勢力の抜きん出ている五つの大部族を中心に大軍を編成し、カラボネソス族のような小部族にまで招集をかけているというのだ。その数、総勢で二十万人。
「私たちのように、帝国との国境近くに住んでいる部族は、本当なら帝国と友好関係を築いて交易でもしたほうが豊かになれる。
それはわかっているのだ。
だが、大部族に逆らうのは難しくてね。
我が部族や周辺の同じような小部族の中でも意見が分かれていたのだよ。
だけど、決心がついた」
「二十万人は大軍だが、向かってくる以上は戦わなければならぬ。
カラボネソス族や同じ考えを持つ部族がこちらの味方になってくれれば、我が軍は対岸に橋頭堡をもつことになる。
そうなれば、戦略も戦術も幅が広がる」
我が国とカラボネソス族の利害は一致していた。結局、その場で同盟が締結されたのだった。
決められたのは大まかな条件だけだ。
蛮族の大攻勢に対し、帝国とカラボネソス族および賛同する小部族は共同戦線を張ること。戦後、カラボネソス族を含む同盟を結んだ部族の領地に帝国軍の砦を築くこと。交易の許可を出すこと。
都にお伺いを立てていては、その往復だけでも三ヶ月以上はかかる。こういう場合は、同盟の締結という重要な事柄でも現地司令官の判断に一任されていた。あとは、戦いが終わったら事後報告し、正式な承認を得るのである。
「監察官の意見は」
「同盟の締結は国防大綱から逸脱するものではありません。
軍務府の方針と合致するものであると考えます」
「よろしい」
東部方面軍の方針の話となると、僕は蚊帳の外だった。
司令官や幕僚たちが議論している間は黙っていたのだが、話が終わると、司令官は僕に向き直った。
「リュメール二等兵。
同盟締結と敵の大攻勢の情報を得ることができたのは君の功績だ。
引き立ててやるぞ」
「本当ですか」
「ああ。
君は今日から上等兵だ」
一等兵を飛び越して一気に二階級昇進である。溺れた五十男を助けただけで出世したのだ。素直に嬉しかった。
「リュメール上等兵、君のことは覚えておこう。
今回の戦いに生き残れば、十人隊長に昇進させることも考えておく」
「ありがとうございます」
士官学校に入学していれば、十人隊長への就任は卒業後だ。次の戦いに生き残れば、二年も短縮できるのである。
そもそも、一兵卒が隊長格に上がることは難しい。狭き門である。それが、入隊一年で手が届くというのだ。
これだけ早い昇進ペースなら、シトレイ様やヴィーネにだって胸を張って会うことができるはずだ。
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そう、生き残ることができれば、である。
僕たち第二十二・神の雷軍団は、第二十三・裁きの光軍団や補助兵部隊と共に戦線最南端の地域を担当している。
事前に、カラボネソス族から蛮族の渡河地点の情報を得ていたため、その周辺の防柵を土塁で強化し、新しい監視塔を建てた。防御は完璧だ。
だけど、対岸でうごめく蛮族の数を目の当たりにすると、完璧と思える防御の構えも心細く感じてくる。
この地域を担当する我が軍は二万人弱。一方、敵は目視した数だけでも六万人を越えている。
「ここを抑えている間に、対岸の同盟部族がこちら側へ寝返ることになっている!
それに、北の主戦場では方面軍主力が蛮族どもの中枢に大打撃を与えてくれるはずだ!
いいか、ここを守るだけでいいのだ!
簡単な話だ!
貴様ら、気合を入れろ!」
百人隊長の怒号が聞こえる。
簡単な話だって……そりゃあ、勝つか負けるかの簡単な話であるが、それはどんな戦いでも言えることだろう。
「蛮族どもが渡河を開始した!
総員、弓を構えろ!」
対岸にうごめく蛮族たちが、ボートやイカダを使って次々と河を渡ってくる。こんな数を相手にして、本当に生き残れるのだろうか。
「放て!!」
僕が軍人になってから最初の、そして東部方面軍にとっても久方ぶりの、蛮族との大きな戦いが幕を上げた。




