#038「セエレ」
セエレ先輩が何を考え、なぜ嘘をついたのか。確かめなければならない。
そう決意しつつも、俺は少し迷っていた。
ヴェスリーの主張を鵜呑みにするならば、俺へのイジメや野外演習での失態の責任をセエレ先輩に求めることになる。もしかしたら、彼女は自分の責任を回避するために、セエレ先輩が嘘をついたなどと言っているのではないか。
俺は暗い疑念を抱いた。
『貴方に許してもらえないのではないかと思っていたの。
……本当に、本当にありがとう』
いや、ヴェスリーが嘘をついているはずがない。
セエレ先輩が嘘をついているとも思えなかったが、それ以上にヴェスリーを疑うことができなかった。
女の子の涙を判断の基準に据えるなど。愚か者と言われるかもしれない。だが、彼女とは和解した。ヴェスリーの謝罪は本物だった。あの涙は本物だった。
結局、ことの真偽を確かめるにはセエレ先輩に聞くほかなかった。
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放課後。
意を決した俺は、昇降口広場でセエレ先輩を待った。しばらくすると、目的の人物がやってきた。彼は口元に微笑をたたえている。
「セエレ先輩」
「やあ、シトレイ君。
吾輩に何かご用ですか?」
「はい。
大切なお話があるのです。
少々お時間を頂けないでしょうか。
それと、できれば場所を移したいのですが」
「……?
ええ、わかりました」
セエレ先輩の案内の元、俺たち二人は、学校の敷地内では北側に位置する林へとやってきた。ここは寮の立ち並ぶ敷地と校舎の敷地の境目にある。
俺はセエレ先輩を軍事教練場の隅に連れ出そうと考えていたのだが、毎度秘密の話をする度にあそこを使うのはどうかと思っていたのだ。
遠くに見える寮や、反対側の校舎から生徒の声が聞こえてきたが、周りには俺たち二人しかいなかった。なるほど、ここで話をすれば他人に聞かれる心配はない。いい場所を知ることができた。
林に到着するなり、セエレ先輩の方から声をかけてきた。
「シトレイ君、無理です」
「えっ、何がですか?」
「申し訳ないのですが、吾輩、男性とお付き合いするのは……」
「違う、違う!」
真面目な話をしにきたのだ。俺は神妙な面持ちを崩さなかった。それを察し、セエレ先輩が謝る。
「すいません、冗談を言っている場合ではないようですね。
大切なお話と言っていましたが何でしょうか?」
「野外演習での、我がクラスの失態はご存知ですか?
ヴェスリーの主張した近道を使い、危険な目にあった話です」
「ええ、伺っています。
あれは災難でしたね。
ですが、君が無事でよかった」
「……近道の情報の出所は、セエレ先輩という話を聞きました」
俺の言葉を聞いた瞬間、いつも口元に微笑をたたえていたセエレ先輩が真顔になった。笑みが消えて残ったのは、俺と同じ四白眼の瞳だった。
しかし、真顔になったのはほんの一瞬だ。彼の表情はすぐにいつもの笑顔に戻った。
「誰からそのような話を聞いたのですか?」
「ヴェスリー本人からです」
彼は笑顔で頷く。
「なるほど。
ヴェスリーと和解したのですね?
それはよかった」
「ええ。
そのヴェスリーから聞いたのです。
彼女は近道の地図をセエレ先輩から貰ったと言っています。
本当ですか?」
「嘘です。
そのような事実はありません」
彼は即答した。
「では、私がサイファ公爵家の乗っ取りを企んでいる、という話をヴェスリーにしたことがありますか?
彼女はセエレ先輩からそう聞いたとも言っています」
「それも嘘です。
そんな話は初耳です。
彼女は嘘をついている」
彼女は嘘をついている。セエレ先輩の言葉に、俺は違和感を感じた。
ヴェスリーが嘘をついているのなら、セエレ先輩はそう主張するしかないだろう。だが、これまで、彼の口から他人を直接批難するような言葉を聞いたことがなかった。
常ならば「なぜ彼女がそのようなことを言ったのでしょうか」とか、もっとソフトな、オブラートに包んだような言い方をするのではないか。
「彼女は嘘をついています」
「その言葉、ヴェスリーの前でも仰っていただけますか?」
「……いいでしょう。
ヴェスリーの前でも、吾輩の主張は変わりません。
明日、ヴェスリーを連れてこの場所に来て下さい」
この日の話し合いはそこで終わった。
セエレ先輩はヴェスリーが嘘をついていると主張している。ヴェスリーの前でも主張を曲げないと宣言した。
彼の自信満々な態度に、ヴェスリーへの信頼が揺らぎかける。
だが、ヴェスリーの涙は本物だ。俺はセエレ先輩よりもヴェスリーを信じると既に決めている。
この件を預かると豪語しておいて何だが、明日はヴェスリーに同行を願おう。
彼女の前でもセエレ先輩はシラを切り続けるつもりなのか。明日、明らかになる。
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翌日、ヴェスリーは学校を休んだ。
マークベス教官の話によれば、彼女は体調を崩して寝込んでいるらしい。今朝、サイファ公爵家の使いの者が学校まで伝えにやってきたというのだ。入学以来皆勤を続けていた彼女の欠席に、生徒たちは驚いていた。
昨日、セエレ先輩が俺とヴェスリーの和解を知った直後に、ヴェスリーが学校を休んだ。今日はヴェスリーを連れて話を聞きに行く予定だったのだ。セエレ先輩が何かしたのだろうか。ヴェスリーは無事だろうか。
俺の中では、セエレ先輩への疑念が不信へと変わっていた。
放課後になった途端、俺は真っ先に教室から飛び出し、セエレ先輩との待ち合わせ場所である林へと向かった。
しばらく待っていると、昇降口広場の方角からセエレ先輩がやってきた。表情はいつもと変わらない。
「セエレ先輩、ヴェスリーが学校を休みました。
体調を崩したという話です」
「本当ですか。
それは心配ですね」
「……ヴェスリーに何かしたのですか」
セエレ先輩は笑顔のままだ。
「彼女には何もしていませんよ。
ただ、サイファ公爵閣下にはお伝えしました。
ヴェスリーがシトレイ君に篭絡され、コルベルン王家側に取り込まれた、と」
セエレ先輩が策動し、ヴェスリーの動きを封じたようだ。彼への不信について確証が得られた。セエレ先輩は、いやセエレは、嘘をついている。
「サイファ公爵閣下は大変お怒りでした。
大方、ヴェスリーを君に会わせないため、部屋から出ることを禁じたのではないでしょうか」
「……ヴェスリーは無事なのですか?」
「何度も言いますが、吾輩はサイファ公爵閣下にお話しただけです。
その問いかけは、サイファ公爵閣下にすべきでしょう」
彼は自らの策動を、自ら告白している。
「セエレ・アンデルシア。
私とヴェスリーの対立を煽ったことと、野外演習の一件、認めるのですね?」
「ええ」
昨日は否定したことを、彼はあっさりと認めた。
「昨日、シトレイ君に詰め寄られた時点で、君やヴェスリーを騙し続けることは諦めました」
彼の表情に変化はなかった。笑顔のまま、表情とは程遠い内容を淡々と話す。
「一つ聞きたい。
私や私の父のことを語った不快な噂。
あれをヴェスリーに伝えたのは貴方ですか?」
野外演習での一件では、彼の標的が俺なのかヴェスリーなのか、それとも両方なのかわからなかった。
彼は俺とヴェスリーの対立を煽ったりもした。それだって、俺を狙ってのことかヴェスリーを狙ってのことかわからなかった。俺とヴェスリーが対立した際、追い込まれたのは俺の方だったが、あれは俺の心が弱かったからだ。最初から毅然としてヴェスリーと対峙していれば、結果はどうなっていたかわからなかった。激しく対立し、校内で騒動を起こし、両者共に罰を受けたかもしれないのだ。
「そんなこともありましたね。
確かに、噂を伝えたのは吾輩です。
シトレイ君に噂を聞かせ、君がショックを受けているのを確認した上でヴェスリーに伝えました」
あの噂は俺一人を狙ったものだ。これで、彼の標的がはっきりとわかった。
「狙いは私か。
貴方の目的は一体何なのですか。
コルベルン王家とサイファ公爵家の政争の再開ですか?
それとも、帝位への野心を持っているのですか?」
セエレへの疑念を抱いてから、俺はセエレの目的について考えた。
俺とセエレは遠い親戚同士である。幼年学校では先輩後輩の関係だ。ついこの間までは、良い関係を築けていると思っていた。
彼に恨みを買われるようなことをした覚えはない。そもそも、ヴェスリーに俺がサイファ公爵家の門地を狙っているなどというデタラメな話を吹き込んだのは、俺が幼年学校に入る前の話だ。俺とセエレが直接出会う前の話である。
彼は俺自身ではなく、「コルベルン王の孫であるシトレイ」を標的としているのではないだろうか。
となれば、彼の目的は政治的なものであると考えるべきだ。
政治的には中立とされる彼は、実は密かな軍務次官派なのかもしれない。
そして現在の小康状態に不満を抱き、コルベルン王家とサイファ公爵家の政争の再開を望んでいるのではないだろうか。
野外演習では当の軍務次官の娘も危険に晒されたわけだが、主張者への心酔ではなく主張自体への支持であれば、主張者の娘の命などに関心はないのだろう。
俺とヴェスリーの婚約は両家の表面上の和解だったが、それが本当の和解になってしまっては困る。セエレにとって、俺とヴェスリーの婚約は破談にすべきものだったのだ。
あるいは、帝位への野心を持っているのかもしれない。
彼には二人の兄がいる。長兄の皇太孫が帝位継承権第一位、次兄が二位。そしてセエレ本人は三位だった。
皇太孫は軍務大臣就任のいきさつから祖父の息がかかった人物と見られていた。一方、次兄は政府の官僚であり、宰相派で間違いない。
自分より上位の競争相手が、揃いも揃って宰相とつながっているのである。彼の目標は祖父の排除ではないだろうか。
祖父を排除する場合、対抗相手としてぶつけるべきは軍務次官だ。
この場合も、両家の和解の芽を摘むことが重要となる。彼にとって婚約は破棄されてしかるべきものなのだ。
「……そう、政治的理由ならば、いくらでも考えつく。
もちろん、その政治的な理由もあります。
ですが、吾輩の目的は、根本的な理由はもっと別の、もっと単純なものです」
「それは?」
「吾輩が生き残るため」
セエレの言葉の意味がわからなかった。政争や派閥争いに生き残る、という意味ではないだろう。政治的理由とは別と前置きした上での言葉だ。
「どういう意味ですか?」
「この言葉だけではわかりませんか。
やはり……なるほど」
セエレはしばし押し黙った。何か考えごとをしているようだ。
再び口を開いた彼は、口元の微笑はそのままだったが、目つきがすこし鋭くなっていた。
「……理由を聞けば、君は引き返せなくなりますよ。
今の時点では引き返すことができます。
その場合、吾輩が君に対して求めることはただ一つ。
今回のことを忘れ、日常に戻ること」
「ふざけるな。
そんなこと、納得できるわけがない」
ふっとため息を漏らすと、セエレは俺から視線をはずし、空を見上げた。
あたりは既に薄暗く、空の色もくすんでいた。
「吾輩は君とヴェスリーの婚約が破談になることや、あわよくば君が事故死することを望んでいました」
セエレは笑顔のまま、俺が事故死することを望んでいたと言った。
いつか、兄がセエレに対し違和感を感じると言ってきたことがある。あのときは一蹴したが、今では賛同できる。セエレの笑顔は、その表情は演技なのだ。顔は心を映す鏡というが、彼の笑顔は本心をまったく映していなかった。
セエレの言葉を聞き、俺はとっさに身構えた。武器になりそうな物は持っていなかったし、素手での殴りあいになれば確実に負けるだろう。だが、セエレは俺の死を望んでいたと言った。目の前の人物は、俺に死ねばよかったと言ったのだ。
「そんなに警戒しないで下さい。
望んでいた、つまり過去形です。以前の話です。
今は、君に何かしようとは思っていません。
吾輩は後悔してるのです。
自分では正当防衛のつもりでしたが、吾輩は君を誤解していたのです。
不幸なすれ違いでした」
「……信じられない」
俺は構えを解かなかった。
「……ふう。
吾輩が理由を話しても、君が信じてくれるか心配になってきました。
いいでしょう、わかりました。
受身で情報を与えられるよりも、自分で考えた方がいいのかもしれない」
ふいに、セエレは校舎の一角を指差した。
「あのあたりが図書室です。
行ったことがありますか?」
「ええ」
学校に入ってからも読書は続けていた。この学校の図書室は蔵書量が多く、満足している。特に、話し相手のいなかった入学当初は大変お世話になっていた。
「君はオリアス・アンデルシアについて調べて下さい。
学校の図書室なら情報があるでしょう。
もちろん、都の屋敷に帰って調べてもいい」
「オリアスとは、我々の大伯父ですか?」
「そうです」
今現在、皇族の中にオリアスという名前を持った存命の人物はいないはずだ。となれば、対象は故人になる。一番最近まで生きていたオリアス・アンデルシアは、今上皇帝や我が祖父の兄に当たる人物だ。最近といっても、亡くなったのは半世紀も前の話だった。
いつか、家系図で名前だけ見たことがある。
「貴方が私に害意を抱いていた理由と、大昔に亡くなった大伯父に、一体何の関係があるというのですか」
「それが関係あるのです。
調べればわかります。
……いや、先ほど、君は吾輩の『生き残る』という言葉に首をかしげたのでしたね。
大伯父さんのことだけではヒントが足りないかもしれません」
既に日は落ち、周囲は闇に包まれていた。
闇の中を、セエレの四白眼が光る。
「一番のヒント、前提となる話は我々の中身についてです」
「中身?」
「転生した自覚を持つ、我々の中身について」
「……」
「そのことをよく考えた上で、大伯父さんのことを調べて下さい。
では、また」
セエレは昇降口前広場に向かって歩いていった。
残った俺はしばらくの間、暗闇の中で沈黙し続けた。




