#036「ヴェスリーの気持ち」
サイファ公爵家。
建国の元勲であり初代軍務大臣を務めたベリアル・サイファを祖とする武門の名流である。
初代ベリアルは太祖アガレスと同い年であり、十代の頃から彼に仕えていた。最初は小姓として。次に従士として。そして将軍として。
太祖アガレスがアルカエスト公爵になると、ベリアルは太祖の副将として歴史の表舞台に立った。
太祖には軍才がなかった、という話がある。
当時、太祖が軍を率いれば必ず負けるという評が流れていたらしい。歴史書や聖典は、太祖アガレスの軍才について沈黙を守っている。一方、ベリアル・サイファの軍功は華々しく記されていた。
建国戦争勝利の立役者はベリアル・サイファである。彼はほとんどの戦いで総司令官を務め、そして勝利した。
太祖アガレスが聖地ドミニアに入城し帝国を建国すると、ベリアル・サイファは公爵に叙された。ここに、帝国の名門サイファ公爵家が誕生したのである。
建国後も、ベリアルは戦い続けた。軍務大臣として軍政を司る傍ら、軍司令官として前線で指揮を執り続けた。太祖アガレスが若くして倒れた後も、国家と軍を支え続けた。彼は亡くなったときも戦場にいた。コルベルン征服戦争時、老齢の身にありながら総司令官として出陣し、陣没したのである。死後、彼の功績は神話化し、ベリアル・サイファは軍人たちの崇拝の対象となった。
ベリアルの子孫たちも、初代当主の後に続き軍人として活躍した。
サイファ公爵一門は四百年間で十人の軍務大臣と、数え切れないほどの将軍を輩出した。ベリアルの直系のみならず、傍系の者も軍才溢れる人材が多かった。彼らは栄達し、新たに爵位を獲得して、サイファ公爵一門の分家は代を重ねるごとに増えていった。
サイファ公爵家には自負がある。国家の建設も、拡大も、防衛も、その大任を担ってきたのは自分たちだ、という自負だ。
元々、初代ベリアルの軍才がなければ、建国という大事業は成されなかっただろう。その後も、サイファ一門が国家を守ってきたのだ。
いかに皇族と言えども、初代ベリアル以来の神聖な血統を侵すことは許されない。
断絶した名家を皇族の傍系が継ぐ。よくあることだった。だが、それは一門の成員が死に絶えた場合である。普通なら、分家から養子なり婿なりが迎え入れられる。それがルールだ。サイファ一門は分家が多い。皇族が入る余地などないのだ。それでも、ハイラール伯爵は慣習よりも己の野心を優先している。彼は秩序の破壊者だった。
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コルベルン王の孫、ハイラール伯爵は野心家である。彼は我がサイファ公爵家の乗っ取りを企んでいた。私と結婚し、サイファ公爵家当主の座を奪う算段らしい。初めはコルベルン王の発案だったのかもしれないが、今ではハイラール伯爵本人が嬉々として我が家の乗っ取りを主導しているというのだ。
彼のことを嫌う理由はたくさんあった。
彼の野心に加え、そもそも彼は憎き宰相の孫である。あの悪逆非道な宰相の孫など好きになれるはずがない。第一、ハイラール伯爵自身、邪な野心が目つきに表れていて、とても好きにはなれなかった。
そんな彼が私を助けた。
後から聞いた話によれば、あの大蛙は体が大きいだけで大したことのない害獣だったらしい。だけど、あの場にいたのは子供だけだ。私だって、あのカエルに睨まれて命の危険を感じた。
そんな中、彼は危険を顧みず私を助けにきてくれた。
彼は泥の中を突進し、怪物トードに一太刀浴びせた。攻撃は軽く、トードの後ろ足をわずかに傷つけただけだった。
しかし、なるほど、彼は恐怖で固まる私からトードの注意を自分自身に向けさせようとしたのだろう。
案の定、怪物トードの視線は私からハイラール伯爵に移った。トードは私から彼へと向き直る。
すると次に、ハイラール伯爵はトードに対し座り込んでみせた。
トードの注意をそらすことができたとはいえ、私はトードのすぐそばで固まったままだ。彼は、自らをおとりにしてみせたのだ。なぜ、そこまでするのか。
彼の勇気を見て、私は恐怖から解放された。すぐに背負ったままの荷物を降ろし、身を軽くする。そして、荷物から剣だけを取り出した。
ハイラール伯爵は、未だに座り込んだままだ。座り込んだまま、怪物トードと睨みあっている。彼は凄い目つきでトードを睨んでいた。そんなに威嚇しては、おとりには見えないのではないかと思ったのだが、彼の目つきはクラスメートを危険な目にあわせようとした害獣への怒りで溢れているようだった。
彼の勇気にあぐらをかいていては、武門の名流サイファ家の名折れである。私は意を決し、怪物トードの後ろ足に剣を叩き込んだ―――。
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マークベス教官から説教されているときも、反省文を書くために机に向かっているときも、私はハイラール伯爵のことを考えていた。
『あ、先ほどは申し訳ありません。
もしかしたら誤解されているかもしれませんが、
決して貴方を睨んでいたわけでは……』
幼年学校に入って、最初に彼と交わした会話を思い出す。私が宣戦布告する前の、そして実際に対立する前の彼は、とても礼儀正しいように見えた。
あのときは、心の中では身の程知らずな野心を抱いているのだろうと一蹴したのだが、もしかしたら、あの礼儀正しく話しかけてきた姿こそ彼の本来の人となりなのかもしれない。
思えば、街でガラの悪い男に絡まれた際もハイラール伯爵に助けてもらったことがあった。
彼はいつも目つきが悪かったし、普段から彼と一緒にいる大男もその場にいた。(あと、もう一人小さいのもいた)
ガラの悪い男は彼らの恐ろしげな姿を見て逃げていった。あのときは、ハイラール伯爵が直接助けてくれたわけではないから気にも留めなかった。だけど、よくよく考えれば、彼は私のことなど無視して通り過ぎてもよかったのだ。
婚約者とはいえ、無視されても文句は言えない。危機に陥っても無視されるだけのことを、私は彼にしてきたのだ。
それでも彼は私を助けてくれた。
そして、野外演習では、間違いなく命がけで私を助けてくれた。
彼は我が家の乗っ取りを企んでいる。
私を助けたのは、婚約者に死なれてしまっては野望の達成に支障が出るからだろうか。
しかし、自らの命を賭してまで、我が家の門地が欲しいのだろうか。私はハイラール伯爵の考えがわからず、混乱してしまった。
……ふと、野外演習で散々な目にあった原因である地図のことを思い出す。
あの地図どおりに進んだ結果、広大な沼地に突き当たり、トードのナワバリに足を踏み入れてしまった。クラスを危険な目にあわせたのは私だ。功を焦って冷静な判断が下せなかったのだ。軍人失格だ。
野外演習の前日、ハイラール伯爵が述べた近道使用に対する反対意見。彼の意見は正しいものだった。結果のことではない。冷静になって彼の反対意見に耳を傾ければ、結果を見る前でも正論であり首肯すべき意見であることがわかる。
彼の反対意見は、言われたときから正しいものだと感じていた。
ではなぜ、それでも私は近道を使うという主張を押し通したのだろうか。
もちろん、憎きハイラール伯爵の意見に賛同することはできなかった。だけどそれ以上に、地図を渡してくれた人への信頼があったのだ。
ハイラール伯爵は我が家の乗っ取りを企んでいる。
……思えば、この話も、地図を渡してくれた人から聞いたのだ。
近道として渡された地図どおりに進んだ結果、とても近道とは思えない危険な沼地に足を踏み入れてしまった。
野外演習の後、私は近道のことが気になり情報を集めたのだが、情報を集めれば集めるほど、ハイラール伯爵の意見が正しかったということを確信したのだった。
あの地図は怪しい。
こうなると、地図を渡してくれた人への信頼も揺らいできた。
人の意見に躍らされてはいけない。
まずは、ハイラール伯爵の真意を確かめる必要がある。
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「あの、ハイラール伯爵。
少しお話があるのですけど」
「えっ!」
私に声をかけられた彼は、とても驚いた様子だった。
私も内心ドキドキしていた。
彼に話しかけることに対して葛藤があった。だけど、ハイラール伯爵の真意を確かめなくてはならないのだ。
ハイラール伯爵の野心が本当だったとしたら、野外演習での一件について感謝を述べても、関係はこれまでどおりだ。命を助けられた恩義はあっても、我が家を売り渡すことはできない。ガラの悪い男に絡まれたとき同様、一言礼を言って終わりだ。
……もし、彼の野心が嘘だったら。
これまでのことを誠心誠意謝らなくてはならない。
彼の野心が嘘だったとしたら、私が一方的に勘違いし、一方的に憎悪し、そして嫌がらせをしたことになる。彼に理不尽な仕打ちをしたことになる。それでも、彼は助けてくれたのだ。謝り、感謝し、そして彼に相応しい態度をとらなくてはならない。
もしかしたら許してくれないかもしれない。ひどい罵りを受けるかもしれない。それでも、謝らなくてはならない。許してもらえなかったら、許してもらえるまで謝り続けなくてはならない。
私は彼を連れて軍事教練場の隅までやってきた。ここなら邪魔が入らない。
彼に向き直ると、私は覚悟を決め、声をかけた。
「貴方に、一つお聞きしたいことがあります」
果たして、彼の真意はどこにあるのか。
私は自分自身がひどく緊張していることを感じていた。




