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異世界でも現実は厳しい  作者: 懐中電灯
幼年学校編
34/79

#033「婚約」

 祖父から離れることも、軍人を志した理由の一つだ。

 その祖父が、恐怖の対象ではなくなった。


 もし、父親の一件がなければ、俺は別の道を志していただろうか。祖父が恐怖の対象でなければ、母の望んでいた官僚としての人生だって、選択肢にあったはずだ。


 その場合、俺は今頃何をやっていただろうか。

 官僚を目指す場合、役人試験を受けることになる。十五歳から受験可能だったが、成人してすぐに試験を受ける人間は少ない。大抵の場合は大学へ進み、学業を修めながら役人試験の勉強をする。大学は十五歳から入学可能で、五年をかけて単位を取得する。

 もし官僚を目指していたら、今頃大学受験の勉強をしてしたかもしれない。それとも、俺の学習ペースは人よりも進んでいたから、十五歳での役人試験合格を目指していたかもしれない。どちらにせよ、官僚を目指していたら、未だにロノウェやアギレットと机を並べていたであろう。ロノウェだったら軍人になるよりはよほど抵抗なく、俺についてきたであろう。


 官僚を目指していたら、大学進学という選択肢もあった。

 それはもしもの話だったが、俺の選択肢から消えた道を歩む人間がいる。兄アーモンだ。


 まだまだ肌寒い三月の休日。ハイラール伯爵家の都の屋敷(タウンハウス)に兄が訪ねてきた。


「お久しぶりです、兄上」

「やあ、シトレイ。背が伸びたな。少し(たくま)しくなったように見える」


 兄と会うのは一年ぶりだ。

 官僚を目指す兄は、今年の春から大学に入学予定だった。

 二次成長期の終盤に差し掛かった兄の身長は170センチを超えている。一方、俺はまだまだ成長途中だ。


「そうですか?

 兄上こそ身長が伸びました」

「いや、昔よりも背丈の差が縮まっている。

 もうすぐ、私に並ぶだろう」

「まだまだ先だと思いますが」


 父は背が高い方だった。二十歳前までに俺たち兄弟の身長がどこまで伸びるか。楽しみである。


「ところで、兄上。

 帝都大学合格、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」

「それに、伯爵への叙任も、おめでとうございます」


 普通、貴族は十五歳で成年した後、爵位が与えられる。俺は既にハイラール伯爵の地位を得ていたが、これは成人前に前当主が亡くなったためであり、例外だった。

 元々、兄が養子に行かなければ、兄がハイラール伯爵となり、弟の俺は十五歳になったら男爵の地位とコルベルン王領内に適当な領地を貰う予定だったのだ。


 兄にはコルベルン王位継承者のさらに継承予定者として、アスフェン伯爵の地位が与えられる。アスフェンは名目上祖父アーモンの領地、実際には伯父ヴァレヒルの領地であるため、兄が領地を持つわけではない。アスフェン伯爵は継承者に与えられる儀礼称号だった。

 領地は持たない兄だったが、伯爵の待遇を受け、コルベルン王家から伯爵にふさわしい歳費が与えられる。


「これで、公式の場にも出られる。

 お前は皇太孫殿下の結婚式に出席したのだろう?

 私も、もう少し叙任が早ければ、出席できたのだがな」

「式自体は面白いことなど何もありませんでしたよ」

「結婚式自体よりも、聖地ドミニアに興味があるのだ。

 前回行ったのは父上の葬儀だったが、あの時は余裕がなかった。

 本当なら、ドミニアの観光がしたかったのだ」


 俺が皇太孫の結婚式でドミニアに行った際と同じ考えを、兄は言った。

 ドミニアは太祖アガレスが現れるまで大陸の首都だった街である。今なおドミナ教の聖地として栄えているし、太祖アガレスの即位や女神ドミナとの結婚の舞台ともなった場所だ。観光スポットには事欠かない。


「兄上は、ドミニアのどちらに興味があるのですか?」

「どちら、というと?」

「有名な史跡と、恋愛成就の聖地という側面のどちらかという意味です」

「それは決まっているだろう、恋愛の聖地の方だ」


 兄は歳相応にミーハーなようだ。


「私と興味の方向が異なるようですね。

 兄上も聖地で結婚式を挙げることに憧れているのですか?」

「うん、まぁな」

「我々も傍系とはいえ立派な皇族の一員です。

 ドミニア大聖堂での挙式も可能でしょう」

「そうだな。

 まぁ、どの婚約者と結婚するか、相手はわからぬが」

「どの婚約者?」


 初めて聞いたのだが、兄には婚約者がいるらしい。しかも、どの(・・)婚約者。


「兄上は、複数の方と婚約されているのですか?」

「あ、いやいや。語弊があったな。

 今現在婚約しているのは一人だ」


 兄の話によれば、兄は幼少の頃から、幾度となく婚約と破棄を繰り返しているのだそうだ。祖父が決める婚約相手は、当然政略結婚の相手となる。政治の情勢が変わるたびに婚約破棄を繰り返してきたらしい。今、兄が婚約しているのはさる公爵家の令嬢らしいのだが、兄の婚約はこれで四度目だった。


「毎回婚約する度に、一応相手とは顔を合わせるのだが、本当に色々な人間が相手になるのだ。

 容姿も性格も、歳もバラバラだ。共通するのは、お爺様にとって縁戚関係になれば政治的に有益となる相手の娘ということだけだな」


 そう言うと、兄は今まで婚約した四人の話をしてきた。十も年上の女性と婚約した話、相手が美人だと浮かれみれば傲岸不遜な性格だった話。


「前回の婚約だったが、相手が外国のお姫様だったこともあったのだ。

 お姫様だぞ?シトレイ」

「それは心が(おど)りますね」

「だろう?

 だが実際会ってみたら幼児だったよ」


 そして現在の、四人目の婚約者。彼女は、今まで会った中で一番まともに見えたらしい。


「一回しか会っていないから性格も何もわからないがな。

 ただ、落ち着いた感じの女性だった。

 ……母上に似ていたよ」

「それは……その婚約が成就するといいですね」

「ああ」


 現在の婚約者を語る兄の表情は、前三者を語るときのものと比べ、何やら嬉しそうで、恥ずかしそうだった。

 政略結婚の全てが、愛情のない不幸な結婚になるとは限らない。前世の歴史でも、政略結婚ながら仲睦ましい夫婦は何組も存在した。兄の結婚も、その幸運な例の一つになってほしいものだ。


「そういえば、お前も近々婚約すると、お爺様から聞いたぞ」

「う」


 前言に付け加える。政略結婚の全てが、愛情のない不幸な結婚になるとは限らないが、やはり不幸な結婚は多かった。前世の歴史でも、夫婦関係が破綻するカップルは多かった。


「サイファ公爵の娘だったか。

 我が家とは不倶戴天の敵同士ではあるが、上手くいけば、お前はサイファ公爵の門地を受け継ぐことになるな。

 そうなれば、またお前の方が、位が上になる」

「そうはならないと思いますよ。

 お爺様から聞いていませんか?

 私の婚約は、成立する前から将来の破棄が決まっているのです。

 それに、私自身、婚約相手のことが気に入りません」


 祖父の考えはおおっぴらにはできないものだ。だが、本家の跡取りである兄ならば話しても問題ないだろう。

 俺は兄に、祖父の考えとヴェスリーとの確執を話して聞かせた。




============




 ヴェスリーの話をすると、兄の笑顔は消えた。コルベルン王家とサイファ公爵家の政争の余波に俺が巻き込まれたと知ると、兄は憤慨した。それでも、俺がヴェスリーを大勢で囲んだところまで話が進むと、兄は再び笑顔を取り戻した。ざまぁみろと言いたげな、人の悪そうな笑顔だ。


「お前に協力してくれたマルコシアスと言えば、あいつか。

 確かアンドレフの弟の」


 やはり、共通の話題があると話が盛り上がる。マルコの名を聞いた兄は、とても懐かしそうに微笑んだ。俺と同じく、兄も故郷を離れた身だった。


 その兄の笑顔が再び消えたのは、セエレ先輩の話に差し掛かったときのことだ。


「ついこの間、伯爵位の叙任式で皇宮に参内した際、セエレ殿下にお会いしたのだが、

 どうも、私にはあの方が恐ろしく感じられた」

「セエレ先輩がですか?」

「ああ。私がお前の兄であることを告げると、殿下は親しげに話して下さった。

 だが、私はあの方に違和感を感じたのだ。

 人が良すぎる」

「きっと、セエレ先輩の瞳が、そう感じられたのではないですか?

 セエレ先輩は私と同じ瞳の持ち主ですが、それ以外はとても爽やかな外見や立ち振る舞いをされています。

 瞳とのギャップに違和感を感じられたのでは?」

「違う、殿下の外見ではない。

 何か、こう、……すまない、言葉で表すことができないのだが」


 セエレ先輩に対して抱く印象は、俺と兄とでは真逆のようだ。外見ではない、だけど言葉では表すことのできない何か。俺がまったく感じることのなかった感想だ。

 あるいは、同じ瞳を持つ者としての親近感が、俺の目を曇らせているのだろうか。

 だが、セエレ先輩には親切にしてもらっている。一方、兄の抱いた感想は、根拠がなかった。

 客観的な根拠のない、非好意的な捉え方。それは偏見ともいう。


「とにかく、殿下はサイファ公爵家の縁戚でもあるのだ。

 用心しろよ」

「わかりました」


 俺は適当に相槌を打った。

 

 俺は、別にセエレ先輩のことを味方だとは思っていない。いや、味方とは思っているが、俺だけの味方とは思っていなかった。

 セエレ先輩には出会ってからずっと親切にしてもらっている。きっとヴェスリーにも親切にしているのだろう。それは裏表がある、ということにはならない。彼は誰に対しても親切なのだ。


 兄が抱いたセエレ先輩への印象は偏見が入っている、というのは言いすぎだろうか。


 兄と和解してから、俺は自分よりも年下である兄を尊敬というか、良い部分もあると見直していた。しかし、この件については、兄の忠告を素直に受け止めることができなかった。




============




 別の日の休日。

 俺は祖父に呼び出され、お昼前に祖父の屋敷を訪ねた。屋敷に入るなり案内のメイドによって一室に連れ込まれた。そして、着替えを促される。


「なんだ、これは?」

「はい、お館様のご指示でございます。

 こちらの服をお召し下さい」


 別のメイドが、高そうな服を持っていた。


「わかった、着替えるから出ていってくれ」

不束(ふつつか)ながら、お召し替えのお手伝いをさせていただきます」


 部屋には四人のメイドがいる。前世ではもちろん、ハイラールでも学校の寮でも、俺は一人で着替えをしていた。母は衣装係のメイドに着替えを手伝ってもらっていたが、俺や兄は一人で着替えるよう教育されている。おそらく、軍人だった父の教育方針だろう。戦場では鎧の装備を除き、貴族でも一人で着替えなくてはならない。

 だから、こんなプレイは初めてだ。




 着替え終わると、メイドが二人がかりで大きな全身鏡を俺の前に置いた。着替えの最中、俺のズボンを下ろすメイドの白いうなじが見え、少し興奮してしまった。全身鏡を見ると、口元がニヤけた少年が映っていた。


 普段、あまり鏡で自分の姿を確認する機会が少ない。学内では、鏡が置かれているのは大浴場だけだった。そもそも、この世界のガラスは高級品である。当然、鏡も高価な物だった。

 久しぶりに、湿気の少ない、明るいところで自分の顔を見た。あれ、俺ってこんなにクマが濃かったっけ。年々ひどくなっている気がする。


 しかし、服は高そうだったが、派手すぎる。俺は普段黒い服ばかり着ていた。学校の制服――軍服は真っ黒だったし、私服も暗い色を好んだ。礼服も黒だ。


「少し派手ではないか?」

「この服はお館様御自ら伯爵様のためにお選びになったものでございます」


 青いフロックコートは、縁に金の刺繍が施されていた。ネッククロスはシルク製だったが、銀でも織り込んでいるのか、キラキラと光っている。ネッククロスの結び目には大きな宝石がついた金のブローチが付けられた。宝石は詳しくないが、フロックコートと同じ色の、やたらでかい石だった。サファイアだろうか。ベルトのバックルやブーツの留め金も金だった。祖父は金が好きなのだろう。高貴な生まれなのに、趣味は成金そのものだ。


「おお、似合っているではないか」


 祖父が部屋にやってきた。祖父の声を聞き、メイドたちは後ろに下がる。


「うむ、いいぞ、男前だ」

「そうですか?」


 もう一度全身鏡を確認する。とても似合っているとは思えなかった。首から上と下のギャップが凄い。別物のフィギュアの首を入れ替えたような違和感を感じる。滑稽にすら見えた。


「ところで、本日の用件ですが……」

「ああ、例のな、お前の婚約が決まったのだ。

 今日は顔合わせ、つまり見合いだな」

「着替えさせられたときから、そんな予感はしてました」


 空腹を感じたが、サイファ家との見合いは昼食会の形をとってあるらしい。


「すまないが、少し我慢してくれ。

 なに、場所は近い。すぐに着く」


 俺と祖父は屋敷を出ると、用意された馬車に乗り込んだ。


「どこまで行くのですか?」

「リュブロンという貴族の屋敷だ」


 聞いたことのない名前だった。

 祖父の話によれば、通常見合いをする場合はどちらかの家で行われるらしい。大抵は婿側の家に嫁側の人間が招かれるのだが、サイファ親子は祖父の屋敷に来ることを拒んだというのだ。


「本当に馬鹿な男だ。

 儂に暗殺されるとでも思っているのだろうか。

 わざわざ自分の家に招いてそんな真似をする人間がいるというのなら、見てみたいものだ」


 祖父の感想は、そっくりそのまま本人に返す。「では我々がサイファ公爵家に出向けばいいのではないですか」と質問すると、祖父は「あの男が何をしてくるかわからぬ」と拒否したのだ。どっちもどっちだ。

 結局、利害関係のない貴族の屋敷に両者が出向くことで合意したのだった。仮にも、これから婚約を結ぶ家同士である。これが、両家の距離感だった。




============




 仲人はリュブロン伯爵夫人だった。四十代後半から五十代前半ぐらいの、上品な感じのマダムだ。彼女はずっと笑顔を崩さなかった。


 彼女の司会進行により、お見合いが始まった。

 まず、両家の紹介が行われたのだが、両家とも相手の家のことは嫌でも知っていたので、簡単に済まされた。

 次に花婿と花嫁の紹介が行われたが、これも、両者はよく知った仲だったので、ことさら時間を取ることもなかった。


「シトレイ・アンデルシア・ハイラールです」


 俺はヴェスリーに笑顔で自己紹介した。目つきの悪い俺は、相手に対し睨んでるような印象を与えてしまう。それはヴェスリーも重々承知だろう。だから、俺はセエレ先輩から習った目を瞑る笑顔で、自分がこれぞと思う会心の笑みで自己紹介した。


「ヴェスリー・サイファです」


 ヴェスリーはいつもどおりの強気な表情で、かつ不機嫌に答えた。彼女は俺を睨んでいる。

 どうやら、わかってくれたようだ。そうだ、皮肉だよ。


 当人同士の自己紹介が終わると、食事が出された。お見合いは昼食会の形がとられている。食事は豪華だった。様々な肉料理や魚料理がテーブルに並んでいる。目の前にヴェスリーやその家族がいたが、俺は気にせず食事に飛びついた。先ほどから空腹だったのだ。


 コルベルン王家側の出席者は俺と祖父、一方サイファ公爵家側の出席者は当主と妻と娘だった。

 サイファ家の奥方は最初の挨拶時に二~三、言葉を発すると黙ってしまった。ヴェスリーの母親は大人しそうな印象だ。この母親から、ヴェスリーのような娘が生まれるのか。


 俺は食事に夢中で、ヴェスリーは不機嫌そうに黙ったままだ。そしてヴェスリーの母親は寡黙な人だった。そのため、我が祖父アーモンとサイファ公爵が親族間の親睦を深める役割を担った。


「お久しぶりです、コルベルン王殿下」

「はて、先日、皇宮でお会いしたと思いますが」

「これはこれは、そうでしたかな。

 いやはや、私も最近物忘れがひどくて。失礼いたしました」


 両者の会話は和やかな雰囲気の中行われた。


「なるほど、サイファ公爵殿はご多忙の身。軍務次官の職は激務でございましょうな。

 加えて、サイファ公爵殿は領地経営もご自分の手でなさっていると聞き及んでおります。

 儂は領地のことを息子に一任しているゆえ、楽をさせてもらっていますが。

 どうですかな?

 サイファ公爵殿も優秀なご令嬢がいることですし、次世代の若者たちに仕事を分け与えてみれば」

「お心遣い感謝いたします、殿下」


 祖父は相変わらず笑顔に見える無表情だ。一方、サイファ公爵も表情に変化がない。その無表情なサイファ公爵の代わりに、我が祖父に敵意を向けたのはヴェスリーだった。彼女は般若のような形相で祖父を睨みつける。


「で、では、あとは若い二人にお任せしましょう」


 ヴェスリーが祖父に突き刺す怒りに満ちた視線。それに気づいたリュブロン夫人が機転を利かせてくれたようだ。

 リュブロン夫人の提案を容れた両家の親族は、まだ食事の最中だったが、別室へと移動する。何でも、俺とヴェスリーが結婚する際の取り決めを確認し、文書にして残すらしい。

 祖父が席を立つ際、彼は俺に耳打ちした。


「お前一人で大丈夫か?」

「大丈夫です」

「部屋の外にはサイファ家の人間が詰めている。

 だが、我が家の家臣たちもおる。

 万が一の場合は、お前の盾になるよう指示もしておる。

 手は打っておいた。だが、何をされるかわからぬぞ。気をつけるのだ」


 随分と過保護な祖父だ。


 両家の親族やリュブロン夫人、召使の人間が全て部屋から出ていった。

 あとは、俺とヴェスリーの二人がこの場に残ったのだった。




============




「……」

「……」


 残された俺とヴェスリーは、しばらく睨みあっていた。

 彼女は、淡い黄色のドレスを着ている。マーメイドラインのドレスは、彼女の豊かな胸とスタイルの良さを強調していた。入学した頃より、さらに胸が成長したように見える。この女、性格は最悪だが体つきだけは素晴らしい。


「……何をジロジロ見てますの?」

「別に何も」


 俺は先ほどから彼女の胸元ばかり見ていた。一方、彼女もこちらを睨んでいるのだ。案の定すぐにバレてしまったが、俺は一向に構わない。


「……チッ」


 彼女は舌打ちをした。どうやら、ヴェスリーは機嫌が悪くなると舌打ちをするクセがあるらしい。大貴族の令嬢にしては、下品な仕草である。


「その舌打ち、やめたほうがいいぞ。

 不愉快だ」

「貴方に関係ありますの?」

「関係あるさ、婚約者殿」


 『婚約者』の言葉を聞いた瞬間、ヴェスリーの表情が怒りに満ちたものに変わった。先ほど祖父に向けていた般若のような形相に変わる。


「よくもまぁ、ぬけぬけと……。

 貴方の思いどおりにはなりませんわ」


 そう言うと、彼女は席を立った。


「どこへ行くのだ?」

「貴方には関係ありません」


 部屋を出ると、外に詰めていたサイファ家のメイドらしき人物がヴェスリーに声をかけた。


「お嬢様!どちらへ行かれるのですか!」

「散歩ですわ!」


 白身魚のムニエルを口に運びながら、ヴェスリーとメイドのやり取りを眺めていた俺だが、今度は我が家の家臣たちが部屋へと入ってきた。


「伯爵様、よろしいのですか!」

「何が?」

「ヴェスリー様のことを放っておいてよろしいのですか!

 当家とサイファ家の関係も、伯爵様とヴェスリー様の仲も存じてはおりますが、今回の婚約は成立させなければなりません!」


 これでは、俺の盾ではなく、監視役ではないか。

 なるほど、この婚約が成立しなければ、祖父の思惑どおりにことは運ばない。祖父にはサイファ公爵の勢力を削ぐための時間が必要だった。


 家臣たちは俺にヴェスリーを追うよう懇願した。彼らは必死だった。祖父の命令ということを隠す素振りもせず、終いには自分たちが祖父から叱られると泣いてしまった。

 家臣たちの泣き声に押され、俺は嫌々ながらも部屋を出た。




============




 ヴェスリーはすぐに見つかった。彼女とメイドが大声でやり取りしていたのだ。声を頼りに、俺はその場に足を運んだ。二人は廊下の隅で話をしている。


「お嬢様、お戻り下さい!

 ハイラール伯爵を待たせてはなりません」

「貴方は(わたくし)に仕えるメイドでしょう!

 主人に意見するのですか!?」

「この婚約を当家の側から破棄したとなれば、お館様のお立場が悪くなります。

 どうか、お館様のご心中をお察し下さい」


 俺は二人の話が聞こえるところまで来たのだが、二人は気づいていないようだ。俺は柱の影に身を隠した。


「お父様のお立場ですって?

 お父様のお立場どころの話ではありませんわ。

 我が家の危機ですのよ!

 四百年以上、家祖の血脈を保ってきた我が家が乗っ取られようとしているのです!」

「どうか、落ち着いて下さい、お嬢様。

 宰相は既に六十半ば。あと十年も待てば鬼籍に入ります。

 それまでの辛抱です」

「貴方は何もわかっていない!」


 ヴェスリーはいっそう大きな声で、メイドを怒鳴りつけた。


「いいですか?

 我が家の危機は、宰相ではなく、その孫によって引き起こされているのです!」

「ハイラール伯爵ですか?」

「そうです!

 諸悪の根源は、あの目つきの悪い男ですわ。

 この婚約を通じて我が家を乗っ取ろうと企んでいるのは、宰相よりもその孫だと聞いています」


 濡れ衣だ。思いもよらぬことだ。サイファ公爵家を乗っ取ろうだなどと、そんな大胆な考えを持ったことはない。第一、祖父にとっても、この婚約はあくまで時間稼ぎを目的としたものだ。祖父自身が、サイファ公爵家の乗っ取りは欲の出しすぎだ、と言っていた。


「ハイラール伯爵が……。

 しかし、彼はまだ子供ですよ?

 そのような大それた考えを持つでしょうか」

(わたくし)はあの男と同じ年齢ですわ」

「……すいません、失言でした」


 ヴェスリーはメイドに喚き散らした後、黙ってしまった。少しの間、沈黙が続いたのだが、しばらくすると、今度は泣き声が聞こえてきた。


「……嫌です。(わたくし)は、嫌です。

 なぜ、(わたくし)がこのような目に……」

「お嬢様……」

(わたくし)は、家門を売り渡した者として後ろ指をさされるでしょう。

 あの宰相と、宰相以上の野心家である孫の協力者と罵られるでしょう。

 なぜ、(わたくし)が……。

 (わたくし)が何をしたというのです……」


 ヴェスリーは静かに泣き続けた。俺は二人に気づかれないよう、そっと部屋へ引き返した。




============




「……フン」


 しばらくすると、ヴェスリーが戻ってきた。彼女はいつもどおりの強気な表情だ。先ほどまで泣いていたとは思えない立ち振る舞いだった。


「何をしていた?」

「散歩ですわ」

「そう」


 彼女が泣く姿を見て、俺は二つの感情を抱いた。


 一つは、同情心。彼女は自分が生まれたサイファ公爵家を強く意識している。そして、俺がサイファ公爵家の門地を狙い、祖父である宰相と結託している思っている。それは誤解だったが、十三歳の少女には強大な敵に見えたのだろう。


 もう一つは、復讐心。この婚約はコルベルン王家側の提案によって実現したものだ。祖父との政争において後塵を拝するサイファ公爵にとってこの婚約は断れないものだった。表向きは和解の提案、しかも婿は皇族でもあった。

 この婚約はコルベルン王家が主導権を握っている。ならば、それを利用してヴェスリーを追い詰めることができるのではないか。


 相反する二つの感情を抱いた俺は、彼女への対応の仕方を保留した。

 この婚約を盾に取り、彼女になにか要求するようなことは考えなかった。かといって、誤解を解こうとも思わなかった。彼女が抱く俺への憎悪が、自家を脅かす野心家への警戒と恐怖心から来るものならば、わざわざ正さなくてもいいと思った。


「一つ、要求いたしますわ。

 学校では(わたくし)のことを婚約者と呼ばないで下さい」

「要求?

 そんなことができる立場にあると思っているのか?

 要求ではなく『お願い』してみろ」

「……チッ」


 彼女は、再び鬼のような形相で睨んできた。いつも表情を崩さないヴェスリーが、今日はやたらと感情を表に出している。


「はいはい、わかった、わかりました」


 祖父たちが戻ってくるまで、彼女と話した内容はこれだけである。あとは沈黙を伴う睨みあいに終始した。

 再び全員が揃うと、リュブロン夫人の挨拶を以ってお見合いが終了し、両家は解散した。

 この婚約が破棄予定のものでつくづく良かったと思う。もしも、普通の、成婚を前提とした婚約だったなら、またしても俺は人間関係に悩み続けなければならなかっただろう。


 リュブロン邸を後にする際も、俺と彼女は言葉を交わすことがなかった。彼女は俺に一瞥くれることもなく、無言で馬車へ乗り込んでいく。

 彼女との関係に改善の余地があるようには思えなかった。

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