#003「イケメン」
重大な、そしてショックな事実が判明した。
俺の行動範囲は自らが寝起きする子供部屋、トイレ、風呂場、食堂、そして書斎である。このくらいの子供なら好奇心旺盛で、歩いていける範囲ならどこへでも行きたがるものだろう。
ハイラール伯爵邸は広く、毎日探検に繰り出しても飽きないほどの部屋数が揃っていた。それに、屋敷は一つの丘全体を敷地におさめている。敷地内には複数の蔵や納屋があり、林や池など自然にも富んでいた。
四歳児の冒険心を満たすには十分な環境が揃っている。
しかし、俺自身は四歳児でも、中身は既に三十手前である。自ら言語学習を最優先事項と考え、それ以外のことには無関心だった。
俺は間取りだけ覚えた後、行動範囲から外れる場所に足を運ぶことがなかったのである。
いつものように、書斎で歴史書の翻訳に没頭していた俺は、急にもよおしたため、トレイに向かった。
トイレから再び書斎に戻る途中、二階の東側の角部屋……書斎の三個隣の部屋からメイドが出てくるところに出くわした。
「あ、シトレイ坊ちゃま、ごきげんよう」
メイドは俺に一礼すると、すぐに下の階へと降りていった。メイドは手にドレスを持っていた。母フェニキアのものだろう。メイドが出てきた部屋からは、母の声がした。
「困ったわ、あのドレス、シミにならないかしら。
気に入っていたのだけど」
その声を聞いて、母が紅茶か何かでドレスを汚してしまったのだと思った。シミにならないよう、すぐにドレスをメイドに渡し、処置を命じたのであろう。とすれば、母は着替えの最中ではないだろうか。
「母上」
俺はためらわず扉を開けた。別に、フェニキアの着替えを覗きたかったわけでは、断じてない。相手は母親だ。そんな気持ちは一切ない。紅茶をこぼしたとしたら、母は火傷を負ったかもしれない。俺は母を心配したのだ。
やましい気持ちはない。
「あら、シトレイ」
母は既に着替え終えていた。俺は落胆、ではなくほっとした。火傷を負った様子はない。よかった。
「私の部屋に来るなんてめずらしいわね。
この部屋に入るのは初めてじゃないかしら?」
そういえば、そうだと思った。母の部屋であることは知っていたが、部屋の中に入ったことはなかった。
初めて入る部屋をじっくりと見渡してみる。
母の部屋は綺麗に整頓されていた。白いテーブルと、同じく白いソファ。クッションも白だ。白が好きなのだろうか。俺は、神を名乗る面接官と対面したあの白い部屋を思い出した。
「母上のお部屋は綺麗ですね」
「そうね、私、結構綺麗好きなの。
といっても、掃除するのはメイドたちだけどね」
視線を移すと、ソファの横に大きな全身鏡があった。そこには俺、シトレイが、品の良さそうな子供服を着て映っている。
「!」
銀髪、綺麗な白い肌に、愛らしい口元。だが、俺が釘付けになったのは自分の目元だった。碧眼。両親譲りであろう濃い碧眼を持っている。だが、その青い瞳は白目の面積に対して少々小さい。いや、少々どころからだいぶ小さい。
三白眼、ってやつか。
もっと細かく言えば、四白眼に近い。瞳が孤立してるのだ。
前世では誰もが知っている名作ロボットアニメにそういうキャラクターがいたっけ。見ようによってはワイルドかもしれないが、俺が思うところのイケメンとは違う。
さらに、その四白眼の下側は、うっすらとクマができていた。目つき自体も、睨んでいるわけでもないのにやたら険しい。
まてまて、なんで、こんな健康そうな四歳児の目にクマができるんだ。幼児でもクマができるのか?てか、何で笑っても目が怖いんだ。
「あら、シトレイ、
鏡に向かって笑顔の練習?
そうね、笑顔は良いわよね。
貴方の父上はいつも笑顔だけど、やっぱり笑顔は素敵よ」
母の惚気は耳に入ってこなかった。俺はこの世界では、じゃない、この世界でも、イケメンではないようだ。敗北者だ。
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自分の容姿を確認してから、俺は一層言語学習に励んだ。のめりこんだ。
「大丈夫、貴族だからは金はある。
金はあるんだ」
「学をつけるんだ。
学を。
知識に容姿は関係ない」
「大丈夫だ。
金と頭があれば、大丈夫だ。大丈夫だ」
それ以降、翻訳のペースは飛躍的に上がった。
俺が翻訳を始めてから、家庭教師が来るまでの一年間、実に五冊の分厚い歴史書や図鑑の翻訳をやり遂げることとなった。
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五歳になった。もうすぐ、俺にも家庭教師がつけられる。
俺はこの一年間で歴史書を一冊と薬草図鑑を一冊、動物図鑑を二冊、そして旅行記を一冊翻訳した。今は、六冊目の翻訳対象に、再び歴史書を選択し、作業に励んでいた。
思えば、最初に歴史書を選んだのは間違いだった。好きな歴史ならば、例え親しみの薄いこの世界のものでも苦にはならないと思っての選択だった。だが、全体的に難しい説明口調の文を訳すのは想像以上に困難だった。まったく知らない歴史だから、単語の正解を想像することもできなかった。
しかも、そのチョイスも、たまたま手に取っただけであったが、それもいけなかった。最初に挑戦した歴史書はシリーズものうちの一冊であり、たかだか五十年ほどの歴史を五〇〇ページ使って事細かに解説していたものだったのだ。
おかげで、日常会話ではまず使わないような、官職名や爵位、その当時の政治体制、当時の社会情勢や文化にはやたら詳しくなった。
この失敗を反省し、二冊目は挿絵も多く、見た感じ簡潔な文の多い薬草図鑑を選んだ。これには成功した。
一冊目の歴史書に半年の時間を費やした俺は、二冊目の薬草図鑑は一ヶ月弱で読破したのである。ペースをつかめた後は早かった。
そして、今。俺は六冊目に再び歴史書を選んだ。前回の失敗を踏まえ、本のチョイスは慎重を期した。
「父上、歴史を勉強したいので本を選んで下さい」
父アガレスは、息子の成長を喜び、自ら手にとって本を選んでくれた。
『アンデルシア史概略』
父が選んだのは、俺が生を受けたこの国の歴史を綴ったものである。比較的文字も大きく、ページ数も二〇〇弱程度。入門書といったところだろう。それでも、普通なら、今の俺の年齢より十歳は年上の人間が読むようなものだろう。
「末は博士か政治家か、とはよく言ったものだ。
私の息子は天才かもしれん」
もちろん、親の贔屓目というのもあるだろう。だが、俺だって五歳児が高校受験レベルの本を読んでいたら驚く。しかし、この五歳児、中身は三十路というカラクリを持っていた。
ともかくも、良さそうな本を選んでもらった。
歴史は流れだ。物語だ。
こういう本を待っていた!
俺はいつもニコニコで息子に接する父親に対し、満面の笑みで感謝を述べた。
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「シトレイ、やはり書斎にいたのか」
六冊目の翻訳に取り掛かり始めたある日。俺のこもる書斎に父がやってきた。
「はい、父上。
貸していただいた本を読んでいました」
とっさに、自作辞書を隠しながら、俺は父に答えた。
「いや、貸したのではなく、それはシトレイに与えたのだよ」
「本当ですか?父上」
「ああ、本当だ。
お前は私に似ず、勉強好きらしいからな。
本を汚すことなく大切にするのも感心している。
読書を続けるなら、そのうち、この書斎ごとお前にやろう」
「ありがとうございます、父上」
インターネットなんてない(であろう)この世界で、この書斎の情報は、まさに宝の山だ。俺は素直に喜んだ。正直、ここで寝起きしたいぐらいだ。
「おっと、すまん。
話がそれた。
お前に会わせたい者がいるのだ。ついておいで」
そういうと、俺は父に一階の応接間へと誘われた。子供部屋、書斎、食堂、トイレ、風呂を生活範囲とする俺は、応接間に入るのも数ヶ月ぶりである。
応接間は、客の応対を行う部屋である。他の部屋より金がかかっていた。
まずはテーブル。
テーブルは黒檀を使っているのであろうか。黒茶色の、木製のテーブルが置いてある。前の世界では、黒檀は色が黒に近ければ近いほど高価だ。このテーブルの深い色合いからして、ものすごい高級品なのだろう。
次にソファ。
黒いソファーは革製だった。ずっしりとした三人掛け用のソファが二つ、向かい合って並べており、その左右の側にも二人掛け用のソファが相対している。素人だからわからないが、一般的な家具量販店で買えるようなものには思えない。
そして、部屋に備え付けられている暖炉。
外面は大理石で、鏡のように磨き上げられている。上部は銀で縁取られており、細かい彫刻細工が施されていた。
最後に、飾られている絵画。
暖炉の上には黒地に白百合と唐草を組み合わせた模様の旗――おそらく、この国の国旗だろう――が飾られており、その左右の壁面には所狭しと絵画が並んでいた。絵画なんて美術館でしか見たことがなかった。
飾られている絵画の中に、家族四人が描かれている肖像画を発見した。父アガレス、母フェニキア、兄アーモン、そして俺が描かれている。描かれている俺の姿は今より幼い。そういえば二年ぐらい前に、この家に画家がやって来て、その画家の前で長時間座らされたのを思い出した。
あれは地味に辛かった。
そして、絵画の中の、今より幼い俺が、今と変わらぬ凶悪な目つきをしていることをしっかりと確認し、何度目かのショックを味わった。
……少しは美化しろよ……。
「さぁ、こっちに座りなさい」
ソファに座った父に促されると、俺は父の横に座った。ソファの前には三人の人間が立っていた。老人一人と幼児が二人。老人のほうは知っている顔だ。
「私の家臣、リュメールだ。
シトレイも知っているだろう?」
「お久しぶりでございます、シトレイ様」
老人、リュメールは俺に対して一礼した。父の家臣であり、執務の相談相手。腹心中の腹心である。歳は六十代前半。実は老リュメールは、ほとんど毎日この屋敷に通っており、父の執務の補佐をしていた。父が都へ参勤交代している間は、代官として領地経営の実権を握っている。だが、普段書斎に引きこもっている俺と会う機会は少ない。だから、「お久しぶりでございます」という挨拶になったのだった。
「で、そこの二人はリュメールの孫だ」
「お前達、シトレイ様にご挨拶を」
孫と呼ばれた二人の幼児。男の子と女の子である。背丈を見ると、男の子の方が年上だ。俺よりも年上であろう。
「ハイ、ハ、ハイラール……、えっと」
(ハイラール伯爵家家臣)
「ハイラール伯爵家家臣、
の、お爺様の……」
(リュメールの)
「リュメールの孫、あ、えっと、ロノウェです。
……。
…………」
(年齢)
「あ、七歳です!」
老リュメールの腹話術は筒抜けだった。だが、七歳の子供が祖父の上司(とその息子)に挨拶するのである。緊張しないはずがない。
もう一人の方は緊張どころの話ではなかった。
「あの、アギレット、です……」
消え入りそうな声で自己紹介した女の子のほうは涙目だった。名前を言うと、すぐに祖父の足にしがみついた。
「申し訳ありません、シトレイ様。
こちらはアギレット。ロノウェの妹で、四歳です。
ご無礼をお許し下さい」
アギレットはこちらを見ながら祖父の足を離さない。目にいっぱい涙を溜めて、こちらを伺っていた。
「ははは、可愛い孫たちだな。
まあ、私の息子たちほどではないが。
よし、じゃあシトレイも挨拶をしてごらん」
「はい、父上。
私は――」
俺が口を開いた瞬間、アギレットは泣き出してしまった。それも、幼児特有の甲高い泣き声ではない。すすり泣くような、泣き声を押し殺すような泣き方だった。幼児がこんな泣き方をするのか。俺はアギレットを見て気がついた。この少女は俺を怖がっている。
話しかけただけで女の子に泣かれた。ほら、この世界でもブサメンは負け組みなんだ。