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異世界でも現実は厳しい  作者: 懐中電灯
幼年学校編
28/79

#027「反撃」

 放課後になると、移動する生徒の群れは二つに分かれる。


 一つは寮で生活している生徒たち。

 彼らは学校の敷地内にある寮へと帰っていく。寮は敷地の西側にあったから、昇降口を出て女神ドミナと太祖アガレスの大きな銅像が建つ広場を西へ抜けていく。


 もう一つは学外から通っている生徒たち。

 幼年学校の正門は南にある。彼らは昇降口を出て広場をまっすぐ南に横断し、そのまま正門へ向かう。


 その日、俺は広場から南に出てすぐのところで腕を組み、仁王立ちしていた。


 下校していく生徒たちは俺の形相に恐れおののき、左右に道を空けていった。何度か上級生たちが「邪魔だ」と突っかかってきたが、俺が睨むとすぐに逃げていった。悪いが、君たちと話をしている暇はないのだ。


 しばらく待っていると、前からヴェスリー・サイファとその取り巻きたちがやってきた。俺は両眉がくっつく勢いで眉間に(しわ)を寄せ、ヴェスリーに視線を突き刺した。彼女や取り巻きたちも俺の姿を認める。


「話がある」


 俺が声をかけても、彼女は無視した。

 無視し、俺の横を通り過ぎようとする。すかさず、俺はヴェスリーの前に立ちはだかった。


「話がある」

(わたくし)はありませんわ」

「私には、ある。……おい!」


 俺は急に大声を上げた。取り巻きたちがビクつく。ヴェスリーは動じていないようだった。

 俺の大声を合図に、それまで俺の周りで無関係を装っていたフリックと、集まってもらった先輩たちが加勢する。俺を含めれば、総勢十人。


 十人はヴェスリーとその取り巻きたちの四人を取り囲んだ。

 取り巻き三人は顔を青くし、怯えている。

 一方、ヴェスリーは無表情だ。一度チッと舌打ちしただけで表情を崩さない。だが、俺は彼女の目元がピクピクと動いていることを確認した。――動揺はしている。


「おい、お前、名前は何と言った?」


 俺が最初に声をかけたのは、よくヴェスリーと話し、彼女におべっかを使っていた腰巾着の男だ。


「か、カールセンです」

「ふん、あっそう。

 ……お前は?」


 次はヴェスリーたちリア充グループの中で一番うるさかった男。彼の声はよく耳についた。


「……ブルゴ、です」

「へぇ。

 おい、女、お前は?」

「アティスです……」


 この女は、貴族の令嬢らしい丁寧な口調と言葉遣いで俺をいないもの扱いしていた。

 今はそんな余裕もなく、言葉を発するのが精一杯な様子だ。


「そうか。

 まぁ、お前らの名前など、どうでもいいのだがな。

 覚える気もないし、どうせすぐに忘れる」


 そう吐き捨てるように言うと、俺はヴェスリーに向き直った。

 そして、しばらく睨みあった。腕を組み、堂々とした態度で俺に対峙する彼女は、いつもどおりの強気な表情だ。だが、目元がピクピク動き、瞬きも多い。なにやら歯軋りもしているようだ。


「……お話とは、なんですの?」

「君と、仲良くしたいんだ」


 そう言うと、俺は険しい表情を解き、握手を求め手を差し出した。

 彼女は俺の手を見つめ、そして握手を拒否した。


「このような大勢で取り囲んで、(わたくし)と仲良くしたい?

 本心とは思えませんわ。誠意が見えません」

「誠意?

 私に対して君が行ったことを考えれば、こうして話し合いの場を設けること自体、とても誠意のこもった対応だと思うのだが」


 フリックや先輩たちは、皆が皆、一様にヴェスリーを睨んでいた。決して外見で選んだわけではないのだが、なるほど、彼らは皆ガラが悪い。その様子を見て、取り巻きたち三人はずっと怯えている。


「……」

「水に流すと言っているのだ。

 悪い話じゃないだろう?」

「……」

「それとも、ここで乱闘騒ぎでも起こすか?

 いや、私は君と仲良くしたいのだが、先輩たちは血気盛んでね。

 私が止めても聞いてくれるかどうか……」


 話題は、周りを取り囲む生徒たちに移った。彼らは、俺の「先輩たちは血気盛ん」というセリフを合図に、拳を握ってみせたり、鳴らしてみせたりして威嚇し始めた。少しわざとらしすぎて俺は笑いそうになったのだが、先輩たちの威嚇を目の当たりにした取り巻きたちは顔色が青を通り越して黒くなっていた。


「この者たちは、同じ幼年学校の生徒ですわね?

 いいのですか、皆さん!

 (わたくし)は軍務次官の娘ですのよ。

 (わたくし)がお父様にお願いすれば、貴方たちなど」

「この者たちは!」


 俺はヴェスリーの言葉を遮り、大声で言った。


「この者たちは、我がハイラール伯爵家の家臣である。

 そしてコルベルン王の庇護下にある者たちだ」


 ヴェスリーは動じない。それでも、目が少し見開いたのを確認した。

 次は低い声でささやく。わざとゆっくりな、芝居がかった声で言ってみせた。


「いいのか?

 コルベルン王一門の家臣、それも未成年の者に手を出して。

 そんな不祥事が明るみになれば、君が尊敬しているお父上のお立場が悪くなるぞ」


 サイファ公爵の名を出した途端、ヴェスリーの表情が初めて崩れた。

 彼女は歯を食いしばり、顔をゆがませている。


「軍務次官閣下は立派な方だと聞いている。

 私も密かに尊敬申し上げていたのだ。

 しかし、娘の暴走で、下手をすれば失脚だ。

 国家や軍にとっては大変な損失だ。

 ご本人もさぞお辛い思いをされるだろうなぁ。

 いやぁ、まったく、本当に、大変、残念だー」


 最後は棒読みだった。

 最初は内心ハラハラしていたのだが、ここまで来れば心に余裕が出てくる。報復の芽を摘むことは、一番重要なことだった。これぐらい牽制できれば上出来だ。


 ここまでがアメとムチのムチの部分である。次はアメを与える。


「私も、今日この日から、君といきなり仲良くできるとは思っていない。

 君とは、少しずつ仲良くできればいいのだよ」


 そう言うと、俺は彼女にいくつかの条件を提示した。


・非リア充グループに対し、俺を無視することの強制をやめること

・報復行動に出ないこと

・インク事件のような直接的な嫌がらせをしないと誓うこと


 彼女や取り巻き連中に、俺を無視するなとは言っていない。また、謝罪も求めなかった。彼女が受け入れやすい条件だ。


 一応は、これから仲良くするための第一段階と銘打ってはいたが、俺は彼女と仲良くなるつもりはまったくない。彼女に提示した条件が、俺の達成すべき目標の全てだった。これは和平条約ではない。休戦協定だ。


 プライドが邪魔をしたのか、最初は受諾を渋ったヴェスリーも、最終的にこの条件で同意した。


「条件を飲んでくれて嬉しいよ、ヴェスリー・サイファ。

 我々の『将来のこと』もある。

 出だしは(つまづ)いたが、これから挽回しようじゃないか」


 俺は笑って見せた。端から見れば恐ろしい笑顔なのだろうが、一向に構わない。


「絶対に、そのようなことにはなりません。

 (わたくし)は貴方を憎み続けます。

 (わたくし)は、必ず家を守ります」


 ヴェスリーはいつもどおり強気な表情だった。だが、彼女のコメカミの辺りがピクピクと動いているのを、俺は見逃さなかった。

 彼女は家を守ると高らかに宣言した後、取り巻きたちを引き連れて下校していった。

 休戦は結ばれた。これから冷戦へ移行するのだ。




============




 マルコやフリックと作戦会議を行ったその日の晩から、俺は参加予定者たちの選抜を行った。俺はその晩と次の日を使い、マルコが連れてきた四十人近い上級生たちと顔を合わせた。皆平民出身で、ほとんどが寮住まいだったから、二日間であっても時間はたっぷりとれた。


 選抜の基準は体格や喧嘩の強さは一切関係なかった。彼らに聞いたのは、本気で軍人になりたいか否かである。

 そして、残ったのは、本気で軍人を目指していない方の生徒たちだった。


「相手は軍務次官の娘です。

 味方して下さる先輩方の身の安全は、ハイラール伯爵家が保証します。

 ですが、相手が相手だけに、場合によっては幼年学校から追い出されるかもしれません。

 もちろん、そうなった場合は将来も保証します。

 ですが、軍人としての道は絶たれることになります。

 それでも付いてきて下さる方は残って下さい」


 結局、マルコが連れてきた四十人のうち、最後まで残ったのは八人だった。

 彼らには共通点があった。軍人ではない金持ちの次男以下の息子たち。それも、勉強が不得意な生徒たちばかりだった。


 幼年学校を卒業し、士官学校を卒業すれば十人隊長に就任する。軍才がなかったとしても、生き残ることができれば、そして何十年も軍務に服していれば大隊長ぐらいにまでは昇進できるだろう。将校ともなれば、金持ちの息子としては格好がつく。もし、そこそこ軍才があり、もうちょっと出世すれば騎士にも手が届く。彼らは軍人そのものよりも世間体と将来の恩賞を目当てに幼年学校へ入学してきたのだった。


「フリックさんは大丈夫なんですか?」

「ああ、心配ないでゲス。

 私も彼らと同じようなもんでゲス」

「そうですか。

 彼らに言ったように、フリックさんの身はハイラール伯爵家が保証します。

 もし軍人としての望みが絶たれるような事態になれば、別の道をご用意いたしますので」

「おお、さすがは宰相の孫!

 役人でゲスかぁ。それもアリでゲス。

 期待してるでゲスよ」

「ええ」


 フリックの気持ちを確かめた俺は、マルコの方に向き直った。フリックと違い、マルコの表情は重い。


「……俺、相手が軍幹部の娘だって忘れてた」

「はは、マルコ、君は最初彼女たちを袋叩きにすると言っていたじゃないか」

「そんなことは……ああ、確かに言ったな」


 フリックや集まった八人たちと違い、マルコの軍人を目指す意志は本物だ。彼は恩義のある養父たちの期待に応えたいと言っていた。


「マルコ、君は参加しなくていい」

「でも」

「君のおかげで、人を集めることができた。

 私を含めれば、全部で十人だ。十人もいれば充分さ」

「でも、でもよ、友だちの、お前の喧嘩だぞ?

 俺が参加しなくてどうする」

「戦いでは、その時々の役割があるんだ。

 君はそれを充分に果たしてくれた。それに喧嘩じゃなくて話し合いだ」


 マルコは黙ってしまった。


「私は、マルコに再会して救われた。

 マルコは友人以上の、そう、仲間だよ。

 今後誰かと喧嘩するときは頼りにしてる」


 不満げな表情を残しながらも、マルコは納得してくれた。


 人を集めることができた。人数さえ揃えることができれば、ヴェスリーとの話し合い――俺に味方がいると見せつけることは成功したも同然である。

 あとは、彼女が報復してきたときのことを考える必要があった。




============




 次の日の放課後。

 決戦を明日に控えた俺は、幼年学校から帝都市内を東に3キロほどの距離にあるハイラール伯爵家の都の屋敷(タウンハウス)へと足を運んだ。

 都の屋敷(タウンハウス)には幼年学校入学までの短い期間滞在していた。また、幼年学校に入学してからも何度か足を運んだ。マルコやフリックと出会うまで話す相手がいなかった俺にとって、都の屋敷(タウンハウス)こそが情報収集の舞台となったのだ。我がコルベルン王家とサイファ公爵家の確執も、都の屋敷(タウンハウス)に詰める家臣たちから聞いた話だった。

 都の屋敷(タウンハウス)に着くと、俺はすぐに家臣に指示を出した。


「お爺様はどちらにいらっしゃる?」

「はっ。

 都におられることは確かなはずです。

 はてさて、皇宮か、財務府か、元老院か、ご自身のお屋敷か……」

「では、すぐに探してきてくれ。

 そして、お爺様にお伝えしろ。火急の用件で孫が会いたがっている、とな」

「はっ、かしこまりました」


 俺に言われると、家臣はすぐに複数の人間に指示を出した。




 二時間後、都の屋敷(タウンハウス)の大きな食堂で夕食をとっていた俺の元へ先ほどの家臣がやってきた。


「伯爵様、コルベルン王殿下におかれましては、本日はお屋敷にいらっしゃるとのことです。

 伯爵様の言伝をお取次ぎ願ったところ、すぐにお会いしたいとのお返事を頂きました」

「わかった、すぐに出る。馬車を用意しろ」


 俺は食事もそこそこに席を立ち、礼服に着替えると馬車に乗った。目指すはコルベルン王アーモン、我が祖父の屋敷である。

 祖父と会うことができなければ、ヴェスリーとの対決を延期するつもりであった。だが、どうやら予定を変更する必要はないようだ。ヴェスリーとの話し合いは、早ければ早いほどいい。集まってくれた八人の決意が変わらないうちに既成事実を作りたかった。それに、俺は早く安心したかった。


 俺は祖父を、あの得体の知れない老人を恐れていた。何年か前、あれは確か従兄弟の葬儀の場だったと思うが、祖父は俺の中身に感づいているかのような話を振ってきたのだ。本人は酒の席の戯れと言っていたが、俺は祖父に得体の知れない恐怖を感じていた。あの老人は底が見えなかった。

 実は、一ヶ月ほど前に一回、祖父と会っている。

 幼年学校に入学する直前、俺はハイラール伯爵位の叙任を受けるため、皇宮に参内したのだが、そこに祖父が立ち会ったのである。そのときは父の葬儀のときと同様、祖父が転生話を振ってくることはなかった。だが、祖父に苦手意識を持っていた俺は、祖父の無表情の笑顔に気味悪さを感じていた。

 今まで祖父と会ったのは、その叙任式を含めて三回になる。全て公式の場でのことで、俺が望んだものではなかった。

 しかし、今俺は自ら祖父を訪ねようとしている。

 俺には、俺の味方をしてくれる人たちに対し責任があった。祖父と会うのが嫌だと駄々をこねることができる状況ではなかった。


「そろそろ、コルベルン王殿下のお屋敷に到着いたします」


 馬車の窓から顔を出すと、前方に大きな屋敷が見えてきた。我がハイラール家の都の屋敷(タウンハウス)よりもはるかに大きな屋敷だった。既に日が落ちているというのに、無数の灯篭や大量の松明に照らされた屋敷の周りは明るかった。


「そうだ、一つ聞きたいことがある。

 我が家で新たに十人ほど家臣を雇いたい。可能か?」


 俺はマルコを勘定に入れた人数を伝えた。直接参加はしなくとも、どこから手が回るかわからない。学内で孤立していた俺が親しく話しかける相手なのだ。ヴェスリーに疑われる可能性はあった。保険はかけておくに越したことはない。


「十人……。

 召使の類ではなく、家臣としてでございますか」

「そうだ」

「はてさて、急には難しいですな。

 知行を与えるにしても、給金を払うにしても……。

 当家も、決して財政に余裕があるわけではございません」

「今は名前だけだ。

 だが、場合によっては名実共に家臣として雇う。

 手はずを整えておいてくれ」

「はっ……。

 善処はいたしますが……」

「……金のことか。

 もうよい。

 給金を支払う必要が出てくれば、領主の収入から出す。

 それならばよかろう」

「はい」


 もし、この場に老リュメールがいれば、もっといい案を出してくれたかもしれない。そう思うのは、彼を美化し過ぎだろうか。

 俺は正式に爵位を継承してから、家臣たちに対して敬語を使わなくなっていた。




============




「一か月ぶりか、シトレイ」


 通された応接間で待っていると、祖父がやってきた。

 黒い革のソファに座っていた俺は、起立して祖父を迎える。


(かしこ)まる必要はない。座れ」


 祖父は部屋着にガウンを羽織っていた。彼はドカッと対面のソファに腰を下ろす。肥えた体の祖父を受け止めたソファが(きし)んだ。

 祖父の言葉に反し、俺は祖父の着席を待ってから座った。


「だいたい、何だ、その礼服は。

 儂はお前の祖父、お前は儂の孫なのだ。

 そこまで遠慮する必要はないだろう」

「本日はお願いがあって参りました」


 俺は神妙な面持ちで話を始めた。




============




「……話はわかった」


 俺は幼年学校での出来事、ヴェスリーとの確執を祖父に伝えた。追い詰められていたことは話さなかった。祖父に弱みを見せることを避けたかったのだ。


「しかし、あのサイファ公爵の娘か。

 なるほど、娘の方も軍人になるつもりだとは聞いていたが、お前と同い年で、同じクラスになったのか。

 話を聞く限り、ひどい娘のようだな。

 父親は気に入らぬ男だが、その娘に対しても配慮する必要はないようだ」

「配慮?」

「お前とサイファ公爵の娘との婚約を破棄した後の配慮だ」

「は?」


 祖父の話によれば、俺とヴェスリーを婚約させるつもりらしい。細かい条件や持参金の交渉がまとまっていないため、まだ婚約までは至っていないのだが、いずれまとまれば、そのとき俺に伝えるつもりだったと言うのだ。


「なぜ、敵対するサイファ公爵と婚を通じるのでしょうか。

 サイファ公爵と和解されるおつもりですか?」

「表面上は和解だ。だが、内実は違う。

 先ほども申したであろう。

 婚約しても、いずれは破棄するのだ。婚約すること自体が目的なのだ」


 サイファ公爵の軍務大臣就任を阻止した後、そのフォローとでも言うかのように、祖父はサイファ公爵に俺とヴェスリーの婚約を提案した。今回はやり過ぎた、本当は仲良くしたいのだ、とでも言うかのように。


「だが、儂にそのような気はない。

 下手にあの男と縁戚関係になってしまえば、あの男の無思慮な主張も無視できなくなる。

 少なくとも、あの男に配慮する素振りを見せなくてはならなくなる。

 そのような不毛なことに労力を割くのはごめんだ。

 第一、儂はあの男を嫌っておる」


 サイファ公爵一門は分家が多いが、本家には当主とその娘がいるだけだ。現当主である軍務次官の次は、血統の近い分家から養子が取られるだろう。だが、ここで娘が皇族と婚約し、あまつさえその相手が入り婿にでも納まれば、一門の反発は必至だった。


「目的はサイファ公爵一門に不和を起こすことだ。

 あの男もそこまで馬鹿ではないだろうから気づいているとは思うが、表面上は和解の提案でもある。

 それに相手は皇族だ。突っぱねることもできまい。

 良い案だとは思わぬか?」

「それで、破棄予定の婚約ですか」

「ああ。

 お前とサイファ公爵の娘が婚約している間は、休戦だ。

 その間にやつの勢力を削ぐ。

 もちろん、成婚までしてお前が入り婿にでもなれば、

 サイファ公爵の門地を乗っ取ることができる。

 それも魅力的だ。

 だが、そこまでは上手くいくまい。

 第一、上手くいったとしても反発する分家は残るわけだ。

 実入りは増えるだろうが、困難もまた増える。

 そこまで望むのは欲の出しすぎだろう」

「私も、あの女と結婚することなどご免こうむります」

「はははっ、しかし、本当にひどい娘だ。

 あの男は子供の(しつけ)がなっておらぬようだな。

 よくも、コルベルン王家の伯爵をコケにしてくれたものだ。

 婚約破棄した後、それ相応の貴族の倅でも紹介してやろうかと思っていたが、その必要もないように感じる」


 祖父はいつもどおり無表情だった。笑顔のまま、表情に変化がない。だが、祖父の声色は怒りを帯びているようだった。


「とにかく、話はわかった。

 サイファ公爵家が何かしてきたら、儂が対処しよう。

 それと、十人ばかりの将来の世話だったか。

 中央官庁は難しいが、地方官にならねじ込めるだろう。

 せっかく、孫の味方をしてくれるのだ。

 食うに困らぬ程度の保障はするつもりだ」

「ありがとうございます。

 ですが、それはあくまで最悪の場合です」


 ここでも、俺はマルコを勘定に入れた人数を伝えていた。


「明日、ヴェスリー・サイファと話をつけます。

 結果は、お爺様にもご報告差し上げます」

「うむ、そうだな。

 今日は泊まっていくといい。

 明日は儂も公務があるが、夜には屋敷に戻っているはずだ。結果を楽しみにしている」


 そう言うと、俺は祖父に一礼し、応接間から出よう席を立った。


「シトレイ」


 呼び止められ、俺は再び祖父の方を向く。


「シトレイ、学校を辞めようとは思わなかったのか?」


 祖父には、俺が追い詰められていたことは話していない。なのに、祖父は当時の俺の心情を理解しているかのような口ぶりだった。


「思いませんでした」


 嘘だ。一ヶ月間、何度も思ったことだ。

 何度も思い、そして思いとどまったことでもある。父に顔向けできない。兄に顔向けできない。祖父の前であれだけ立派な演説をしておいて、逃げ帰ることなどできない。ハイラールに逃げ帰って、俺は友人たちにどんな顔を向ければいいのか。

 理由は様々だったが、俺は学校を辞めること――軍人を諦めることができなかった。

 そして、あれはできない、これはできないと繰り返しているうちに、もっと過激な考えが頭を占めてくるようになったのだ。

 冷静になって考えれば、死ぬつもりなら死ぬ気で行動すればよかったのだ。それ以前に、学校を辞めることが頭をよぎったのなら、辞めるつもりで対処すればよかったのだ。


「そうか。

 お前は父親の後を継ぎ、軍人になりたいと言っていたが、儂には、未だに不思議に思えるのだ」

「私が軍人を目指していることがですか?」

「うむ。

 太祖アガレスは政才豊かな人物であったが、用兵の才はなかったと聞く。

 建国戦争の勝利は、有能な腹心たちの活躍によるものだという話だ。

 お前が太祖アガレスの生まれ変わりだとしたら、なぜそこまで軍人に惹かれるか理解できなくてな」


 また、その話ですか。

 普段だったら返事もそこそこに逃げていただろう。だが、今回、俺は祖父に頼みごとをしに来た身だった。

 俺は再び席に着くと、夜遅くまで祖父の転生談義に付き合った。

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