#025「追い詰められたシトレイ」
真っ暗だった。
いや、目を瞑っているというわけではない。これは周りが暗闇なのだ。
部屋の灯りは消されていた。
ベッドの中で悩み疲れた俺は、どうやら眠ってしまったようだ。上の段からは豪快なイビキが聞こえてきた。同居人のイビキに合わせ、木製のベッドが軋む。
今は一体何時だろうか。
俺は静かにベッドから降り、音を立てないように気をつけながら扉を開けて外へ出た。そして、寮が並ぶ敷地内にある広場へ向かった。
寮の敷地にある広場は昇降口前の広場とは違って小ぢんまりとした広さだ。
広場というよりも、東西南北の寮から伸びる道の集合地点、ただの交差点である。
昇降口前広場のように、有名人の銅像や国旗掲揚台があるわけでもない。だが、この広場には、それらモニュメントの代わりに水時計が設置されていた。
基本的に時を告げる鐘は起床時間と就寝時間しか鳴らされない。それ以外の時間を確認するには、こうして広場まで来て水時計を確認する必要があるのだ。
この世界の時計は水時計、日時計、そして規格の決められた蝋燭を用いる火時計が一般的であった。機械式の時計は存在していない。
機械式時計を発明すれば大儲けできるのではないだろうか。と、考えたところで俺は諦めた。
以前蒸気機関を作ろうと考えたが、仕組みがわからず断念している。それと同じだ。一周十二時間で回るよう歯車を組み合わせるところまでは想像できるが、動力はどうする。電池などこの世界には存在しないし、ゼンマイがどういう仕組みで動いているのかはわからなかった。
「なんだ、まだ九時か」
広場で水時計を確認する。時刻は九時を回ったばかりだ。
同居人ブルックスは、いつも二段ベッドの上の段にこもっており、彼がいつ寝るのかは知らなかった。気がつくと、ベッドの中から大きなイビキが聞こえてくるのだ。だから、普段は俺が寝る時に灯りを消していたのだが、今日は俺の方がずっとベッドにこもっていたから、ブルックスは自分の寝る時間に合わせて灯りを消したのだろう。
九時には寝ている。同居人は随分良い子らしい。
「はぁ……」
俺はため息をつくと、大浴場へと向かった。
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入寮して以来、この時間に大浴場へ来るのは初めてだった。
安い木造アパートのような外見の寮とは違い、大浴場の造りはしっかりしている。石とコンクリートで出来た大浴場は、寮の並ぶ敷地内で一番立派な建物だった。
浴槽はヒノキで出来ており、元日本人の俺としても満足いく造りである。
浴場の裏方を見たことはないが、湯沸かし器には鉄と耐熱煉瓦が使用されており、お湯を沸かすための燃料としてユニコーンの角の粉末を少量用いることができるようになっているらしい。そのため、火を落とした後も、しばらくは余熱でお湯を沸かすことができる。
おかげで、こんな時間でも熱い風呂に浸かれることができるのだ。
いつも人でごった返している大浴場は、この時間になると随分と空いているようだ。
普段は邪魔にならないよう、頭と体を洗い、数分湯船に浸かった後、すぐに出て行ったものだが、今日はゆっくりと風呂に浸かることができる。
「ふぅ……」
大きな浴槽の端っこで、俺は考えごとを再開した。
色々考えて、悩んで、眠っても、根本的には何一つ解決していない。
辛かった。
インクをぶちまけられたことで、俺の感情は爆発してしまった。しかし、一ヶ月間我慢していたが、無視されること自体が辛かったのだ。誰ともまともに話せる相手がいないことが、これほど辛いものだとは思わなかった。
明日学校に行けば、また同じことが繰り返されるのだ。結局、イジメられる原因は俺自身にはなく、別のところにある。そして、十二歳の俺ではとても手の届かないところでもあった。
どうしようもない。解決する方法が見つからない。
このままどうしようもなく、三年間ずっとイジメが続くのだろうか。いや、幼年学校にいる連中は、全員が全員、士官学校へと進学する。
ならば、その後の三年間も……。
(逃げ出したい)
逃げてしまおうか。
軍人を目指した理由は、軍人それ自体への憧れもさることながら、立派な軍人だった父に憧れ、父に褒められたかったからだ。
その父はもういない。
ならば、軍人にしがみつく必要もないじゃないか。
……しかし、祖父や家臣たち、そして何よりも友人たちに、あれだけ大見得を切って都まで出てきたのだ。今さら逃げ帰ることなどできるだろうか。
この世界に転生してから、俺は優等生であり続けた。
周りが慕っているのは、優秀なシトレイ・ハイラールなのだ。落伍者となった俺に、周りは今までどおり接してくれるだろうか。
そもそも、人生に失敗し逃げ帰ったら、俺自身は平静でいられるだろうか。
前世では就職活動に失敗し、家族から厄介者扱いされた。前世の人生が成功だとは到底思えない。
そして、今生でも失敗するのだ。
転生してから十年以上、ずっと上手くやってきたはずなのに、また失敗するのだ。
こうなると、もう、俺自身に何か問題があるとしか思えない。
(なら、もう一度転生してみようか)
こんなに辛い人生なら、リセットしたっていいだろう。
死ぬのは怖い。
だけど、人間は輪廻転生を繰り返す。来世があるのだ。
逃げることにはなるが、これは前向きな逃げだ。
次のチャンスに賭けるのだ。前向きな考えだ。
『…そうなると、前世の記憶を持ったままなのは、世界を移ってきた今回、この人生だけなのかもしれません』
神を名乗る面接官が言っていた。
今生で死ねば、記憶がなくなる。人生に失敗することの原因が俺自身にあるのなら、記憶がなくなることは好都合である。本当の意味でリセットし、本当の意味で新しい人生をスタートさせる。俺は解放されるのだ。
そうだ、死ねば、自殺すれば、リセットできる……。
……。
ハッとして我に返ると、俺は頭を湯船の中に突っ込んだ。
「ぶっは、はぁはぁはぁ……」
何を考えているんだ、俺は。
死んだら記憶がなくなる。
父や母や、ハイラールに残してきた友人たちとの思い出もなくなる。せっかく出会えた人たちとの関係がなくなるのだ。アギレットへの気持ちもなくなる。全て、捨てることになる。
絶対に、捨てていいものではないはずだ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
俺は、両手を振り上げ、勢いよく湯船のお湯に叩きつけた。大きな音と水しぶきが起こる。
浴場内にいた数人の生徒たちが、驚いた顔でこちらを見ている。普段なら、奇異の目で見られるような行動は避けていただろう。だが、心に余裕がなかった。
死ぬのは嫌だ。記憶がなくなるのは嫌だ。
ならば、三年間……いや、士官学校まで含めて六年間、イジメに耐えるか。それだって嫌だ。
「嫌だ。
もう無理だ。
何も考えられない」
俺は頭を抱えた。死ぬことはやめたが、やっぱり、解決策は思い浮かばない。
「シトレイ、か?」
ふと、洗い場の方にいた人間から声をかけられた。
一体誰だろう。
マークベス教官と同居人ブルックスを除き、学内で俺の名前を呼ぶ人間などいない。いや、呼ばれたのは下の名前だ。マークベス教官は俺のことを「ハイラール」と呼んでいたし、ブルックスは「伯爵様」と呼んでいた。「シトレイ」と下の名前で呼ぶ人間など、この幼年学校の中には存在しない。
ぱっと見で、180センチ以上ある大男だ。体つきも凄い。筋骨隆々とは正にこの男のことを表現するためにある言葉だろう。
彼は頭を洗った後なのか、濡れた金髪をオールバックにしている。胸元には、革ひもと丸い銀色のメダル、どうやらドミヌス銀貨のようだが、そのメダルで出来たアクセサリをしている。
そして、俺の目つきには劣るかもしれないが、中々の強面だった。
「お前、シトレイだろ?
ハハッ、昔より目つきがひどくなったんじゃないか?」
いや、まて、こんなチンピラみたいな男、知り合いにはいないぞ。
「なんだよ、そんな顔して。
まさか、俺のこと忘れたのか?薄情な奴だな、お前」
こんな男知らない。
知らない……。
「……マルコ?」
マルコシアス・ラングフォードと、四年ぶりの再会だった。




