#020「ハイラールの大事件・後編」
「アギレット、少し、いいか」
夕食後。私は自室で読書をしていた。ふと、窓のよろい戸に何かが当たる音がした。気のせいかと思ったが、少し間を置いて、再び同じ音がする。今度はすぐに、誰かが外から石を投げつけた音だとわかった。よろい戸を開けると、外にはログレット様が立っていた。ログレット様は屋敷の従士の一人で、ヴィーネの父であり、シトレイ様の剣の師匠でもあった。ヴィーネに似て背の高い、茶色の髪を持つおじさんである。
「なんでしょう、ログレット様」
「うむ、実は、シトレイ様の使いで来たのだ。
シトレイ様が、お前に用があるというのでな」
「わかりました。お兄様を呼んで参ります」
「いや、ロノウェは呼ばなくていい。
お前一人に用があるという話だ」
「……?
わかりました。
どちらにせよ、もうこのような時間です。家族の許可を取って参ります」
そういうと、私は踵を返し、家の方へ向かおうとした。
その瞬間、私は気を失った。頭にドンッという衝撃を感じた。殴られて気絶したようだ。
気がつくと、私は薄暗い部屋の中にいた。布で猿轡をされ、両手両足がロープで縛られていた。
「んー!んー!」
声を出すことができない。
辺りを見回すと、高そうな調度品が置いてあることに気づいた。部屋自体はずっと掃除していないのか、ずいぶんと散らかっていたが、テーブルやベッドなどの家具は、美しい装飾が施されており、高価そうなものばかりだった。
窓にはガラスがはまっている。ガラスだって高級品だ。一体ここはどこだろう。
ギィ……
ふと、私の右側が明るくなった。私の右後ろに扉があったらしい。その扉を開け、男が一人部屋の中へ入ってきた。
「やあ、アギレット」
「んー!!」
見たことのある男、ずいぶんと頬がこけ、目の下にクマを作っているが、この男はハイラール伯爵様だ。シトレイ様のお父様である。
シトレイ様のお父様で間違いない……けど、ずいぶんと別人に見える。記憶にある伯爵様はいつもニコニコ笑顔を作っていたが、同じ笑顔でも、この男の顔はニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべている。
「さぁ、こっちだ」
伯爵様は後ろで縛られた私の腕を掴むと、引っ張り、ベッドに放り投げた。私は頭からベッドに突っ込む。振り返ると、バタン、と扉が閉じられた。薄暗い部屋の中、伯爵様がベッドへと向かってくる。涙が溢れてきた。
「んー!んーー!!」
「騒ぐな」
そう言うと、伯爵様は私を殴った。ものすごく痛い。
「んっんっー……」
「シトレイの話どおり、本当に泣き虫だね。
さぁ、殴られたくなかったら、もう騒がないことだ。
シトレイの小姓なら、我が家の家臣だ。領主である私の言うことを聞きなさい」
そう言うと、伯爵様は私の上着を引き裂いた。
「んーーんんーーーーっ!!」
私はキマリアさんの最後を思い出し、必死に抵抗した。私は十歳だけど、今から何をされようとしているのかは理解できる。
「騒ぐなと言っただろう!」
ニヤニヤ笑っていた伯爵様は急に激昂し、こぶしを振り上げた。左目に激痛を感じると、すぐに痛みはなくなり、同時に左目の視界もなくなった。右目からは、ずっと涙が流れている。
「そうだ、大人しくしていれば、殴らない」
伯爵様は、ご自分の着ていたナイトガウンを脱いだ。そして、私のズボンに手をかけた。
「ああ、そうだ、足を縛っていたのだったな。これは邪魔だ」
そういうと、伯爵様は私の両足を縛っていたロープを振りほどいた。その瞬間、私は抵抗を再開した。自由になった足を使って、伯爵様に何発もキックを叩き込む。だが、その足もすぐにつかまれ、私は再び殴られた。
「何度言えばわかる!聞き分けのない子供だ!」
伯爵様は、両手で私の首を絞めた。
「んぐ……」
伯爵様の目が濁って見える。窓から入る月明かりは、彼の背になっていて見えない。真っ暗な中、彼の濁った瞳と、私の首を絞める手だけが浮かび上がって見えた。
私は必死に抵抗し、彼のお腹をキックし、手を振りほどこうと、もがいた。
それでも、私の首を絞める手はびくともしない。
「私は領主だぞ、私は領主だぞ……!」
さらに首を締める手に力が入る。苦しい。まだ死にたくない。
シトレイ様……。
気を失う寸前、ドンッと大きな音を立て、扉が開いたような気がした。
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信じられない光景が広がっていた。
全裸の父が、ベッドの上でアギレットの首を絞めている。
俺たちが入ってきた音に驚き、父はすぐにアギレットから手を離し、ベッドからも離れた。自分の恥部を隠すように、落ちていたナイトガウンを拾って羽織る。
「アギレット!」
アギレットは気を失っていた。上着は切り裂かれ、白い肌が露になっている。顔には、何発も殴られた跡があった。特に左目が大きく腫れていて、見るに耐えない。ズボンは穿いたままだった。
アギレットの吐息を確認すると、俺は父に向き直る。
父は後ずさりし、壁を背に立っていた。老リュメールの持つ灯りに照らされた顔は、明らかに狼狽している。小刻みに震え、目の焦点が合っていなかった。
「ろ、ろろ、ログレット、貴様、どういうつもりだ……」
「……見てのとおりです。
これ以上、ご命令に従うことができません」
「き、貴様、これは、謀反だぞ!」
「く……では!私に!
次はアギレットの死体を運べと仰るのですか!
キマリア・ブロッサの死体を運んだように!!」
ログレットの悲痛な叫びが響く。ログレットは泣いていた。
「ログレット、貴様、ただではおかぬぞ……。
貴様も、家族もだ!
私に逆らったら、貴様も家族も生かしてはおかぬと言っただろう。
それでも貴様は私に逆らった!
望みどおり、一族郎党根絶やしにしてくれるわ、この謀反人め!」
「うっ、うう、伯爵様、何で、こんなことに……」
「うるさい、謀反人め!
謀反人……リュメール、貴様も謀反人か!?」
泣き崩れるログレットの次に、今度はリュメールが詰問された。
「リュメール、貴様、私への忠誠心はどうした!?」
「……孫が強姦され、殺されるのを黙認することが忠誠というならば、確かに、私は忠誠心のない家臣になりますな」
「おのれ、平民の貴様をここまで取り立ててやったのは私だぞ!
領主である、この私だ!」
「申し訳ございません、伯爵様。
もし、キマリア・ブロッサを側室に迎えるおつもりでしたら、私もそのように取り計らいました。
アギレットを望むなら、アギレットが成人するまでは待っていただきましたが、側室としてご献上差し上げることに異議はございませんでした。
しかし、伯爵様、貴方はあまりにも人が変わられた」
リュメールは静かに、力強く言った。リュメールの気迫に押され、押し黙る父。
「父上」
俺が声をかけると、父はビクッと肩を揺らした。父は恐る恐る俺の方を見る。
「し、シトレイ……」
「父上、リュメールの言うとおり、なぜ側室として迎えなかったのですか。
父上の仰るとおり、父上は領主です。
望めば、可能だった」
「それは……フェニキアに、悪い」
母に操を立ててのことか。だが、それは形式だけだ。実際、父は自分の欲望をキマリアにぶつけて殺し、今またアギレットにぶつけようとしていた。これは貞操を守ることでも、なんでもない。
「それが、言い訳になると思っているのか!」
俺は父を睨んだ。俺の目を見て父は怯む。父はさらに後ずさりし、背中が壁にくっついた。父が背にする壁の右側には、剣が飾ってある。それに気づいた父は剣を取り、鞘から抜いた。
「伯爵様!」
ログレットは叫ぶと、腰にぶら下げた長剣を抜き、構える。
「ログレット、やめろ。
本物の謀反人になるぞ!」
俺はログレットを制止すると、片手剣を抜いて構えた。
「シトレイ、私に、父親に、刃を向けるのか……」
「非のない家臣に、罪を負わせることはできません」
父の剣の腕は聞き知っている。戦場での勇者。一方、俺は稽古を続けているが、一向に上達していない。体格差もある。剣で父に挑めば、十中八、九返り討ちにされるだろう。だが、それでも挑まなくてはならない。
ログレットはアギレットとキマリアを誘拐し、そしてキマリアの遺体を運んだようだ。誘拐と死体遺棄は立派な犯罪だが、父に脅されて行ったらしい。許されるような行為ではない。しかし、だからといって彼に父を、主君を殺せとは言えない。身内の不始末は身内でつける。それに…
「それに……」
俺は、できる限り、強く父を睨んだ。
「それに、私はアギレットを愛している」
アギレットを失いかけて、やっと自覚できた。
今までロリコンじゃないだの何だの散々言い訳してきたが、自分の気持ちがはっきりとわかったのだ。俺はアギレットが好きだ。
だから、俺は父に挑まなくてはならない。
俺と父は、お互い剣を構えながらにらみ合った。
父は、黙り込む。そして目を瞑り、また黙り込む。
一呼吸置いた後、父は目を開けた。先ほどまで、目の焦点が合っていない父であったが、今はしっかりとした目つきをしている。戦場に行く前の父が持っていた目を。
「すまなかった、シトレイ」
一瞬、父は俺に微笑みかけた。
そして、手に持つ剣を自分の首筋に当て、思いっきり引いた。




