#002「言語学習」
最初は、視力のせいで目を開けているのも閉じているのも変わらない状態であった。
赤ん坊の視力について勉強したことがないので詳しくはないが、赤ん坊の視力の低さは脳の成長に関係があるとテレビか何かで見たことがある。
だが、俺は前世の記憶があり、生前の、二十代成人男性の考え方ができる赤ん坊だ。肉体と精神の年齢が乖離してても、能力は肉体の方が優先されるのだろうか。
しかし、そんな人間に会ったこともないし、話を聞いたこともない。寝ているだけでやることがないので、肉体年齢と精神年齢の乖離について考えていたが、答えを見つけるために哲学の領域まで踏み込みそうになったので引き返した。
視力とは違い、聴力は使えた。
小さい音はまだ聞こえにくいが、大きな音、近くの人間の話し声は聞くことができた。日本を遠く離れ、この世界で生きていく以上、言葉を覚えなければならない。目下、俺は言葉を覚えることを最優先にし、周りの会話を聞くことに全神経を注いだ。
「Sitray ahu katta mian akan awen ubu oy ziadari sak」
俺の顔のすぐそばにいる影が、女の声で話す。おそらく母親だろう。いや、貴族の息子といっていたから、メイドかもしれない。
「Is ataw on oak o wo ttiz urte imaw」
まったく何を言っているかわからない。
俺は語学が苦手だ。小中で英語の授業が始まった頃から大嫌いだったし、大学では必修の第二外国語、俺はドイツ語を履修していたが、それを落としてしまい、翌年も下級生に混じって同じ授業を受けたことがある。
だが、それでも英語っぽい、ドイツ語っぽいアクセントというものがある。話す内容はわからなくても、言葉の雰囲気で何語を話しているかはつかめるものだ。そういえば、そういった外国語の特徴をつかみ、まったくデタラメな外国語を話す(コントをする)芸能人がいたな。
しかし、この世界の人間が話す言葉は、まったくつかめない。第一、こっちは動けないし、しゃべれもしない。
こんな状態じゃ言葉を覚えるどころじゃない。
結局、俺は寝たきりで何もしなくなった。いや、唯一食事の時は張り切った。この世界は哺乳瓶がないのか、赤ん坊の食事は全て授乳によって行われる。俺は全力で吸った。全神経を舌先に集中した。
やったことはこれだけである。
ほとんどしゃべらず(といっても言葉は発せないが)夜泣きもしない俺は、さぞ気味の悪い赤ん坊に見えただろう。
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四~五ヶ月もすると、首もすわり、視力も上がってきた。この頃になると、俺に話しかけてくる人間の顔も認識することができるようになる。
「Sitray ahu oy komi knegen」
俺によく話しかけてくる女がいる。
視力が向上し、はっきりと人の顔が見えるようになってから確信したが、この女は俺の母親だった。メイドと思しき他の女とは、明らかに着ている物が違う。いつも明るい色のドレスを着て、高そうだが派手ではないアクセサリをしていた。明るい金髪に暗い青の瞳。顔は少々丸っこく、色白。おそらく、二十代前半。体は華奢であんまりスタイルが良さそうとは思えなかったが、顔立ちは整った女だった。
育児は女の仕事と考えられているのか、俺の世話をし、話かけてくるのは母親かメイドばかりだった。だが、唯一、俺に話しかけ抱っこしてくる男がいた。
「Sitray ah isat awinetin u oy komiisiri rania ruoh sagimis ona tad」
おそらく、父親だろう。二十代中盤、前世の俺と同じぐらいの年齢であろうか。背丈は母親に比べだいぶ高い。体つきは、普通といったところか。太ってもいなければ痩せてもいない。肌の色は、母親や周りのメイドたちに比べ濃かったが、前世での価値観で見れば色白なほうだ。濃い銀髪に、母親と比べると薄めの青い瞳。顔のラインはすっきりとしていて、鋭い印象を受ける。だが、常にニコニコしていたので、威圧感はない。もちろん、赤ん坊の俺に接していたから常に笑顔だったのかもしれない。
両親の外見を見えるに、神はイケメンについては保証できないといっていたが、期待してもいいのではないか、と思えてきた。
こうなると、希望が見えてくる。兎にも角にも、まずは言葉だ。しゃべれるようになるのが待ち遠しい。
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完全に視力が上がり、ハイハイができ、そして言葉を発することができるようになると、俺は怒涛の勢いで言語学習を始めた。
身の回りにあるもの全てを指差し(最初の頃はうまく指差しができなかったので手を向けるしぐさで)両親やメイドの名前を教えてくれるようせがんだのである。「これの名前は?」なんてどう言うかわからなかったから、最初は指を差し、必死に目で訴えあーあー、と物の名前を教えるよう催促した。
最初、周りの人間は俺がその物を欲していると思ったようだ。だが、俺は名前らしきものを教えてもらうとその言葉を復唱し、すぐにそっぽを向いた。繰り返していくうちに、親もメイドも俺が物の名称を知りたがっていると理解し、向こうから教えてくるようになった。
まずは単語から。語学の基本だ。
物の名前を覚えると同時に、俺は周りの人間の名前を知ることができた。
まず、俺の名前。
シトレイというらしい。前世の感覚からすれば変わった名前だ。前世での感覚と周りの人間の容姿からして、俺の名前はジョンとかマイケルあたりが妥当だと思っていたのだが。
次に母親。
フェニキアというらしい。最初、メイドたちがミーダ、ミーダと呼ぶものだから、俺は母親の名前がミーダだとばかり思っていた。だが、後から知ったのだが、「ミーダ」とは「奥様」という意味だそうだ。母親の名前を知ったのは、父親だけが「フェニキア」と呼び、母親がそれに反応したためである。
次に父親。
名前はアガレスという。周りの人間は父親のことをエル、と呼んでいた。「エル」は「伯爵」という意味である。困ったことに、母は父のことを「ディ」と呼んでいた。「ディ」とは近しい人間を呼ぶ二人称、「あなた」といったところだ。母の名前をミーダと勘違いしたように、俺は最初、父の名前をディだと勘違いしていた。だが、たまに父が母のことをディと呼んでいたので、俺は混乱した。父親の本名を知ったのはだいぶ後のことである。
そして兄。
俺には兄がいた。たまに俺のいる部屋に来ては、ハイハイする俺を捕まえ、手を引っ張ったりしていた。歳は二歳ぐらい。明るい銀髪と、青い瞳。まだ幼児だが顔のつくりは悪くない。俺にちょっかいを出してくるこの幼児が兄だとわかった途端、俺が将来イケメンに成長するであろうことにかなりの期待を持つことができた。名前はアーモン。前の世界では、そんな名前の悪魔がいた気がする……。
この三人が、俺の新しい家族だった。
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四歳になった。この四年間、俺は言語取得に全力を上げた。
おもちゃで遊ぶときも、家族やメイドと話すときも、すべてを学習の機会と捉えた。外見はともかく、精神は立派なアラサーである俺を満足させる娯楽もなかった。当然だが、日本語に接する機会もない。俺は四年間、起きている時間の全てを言語学習に費やしたのである。
やっぱり、人間を作るのは環境だ。語学が苦手だった俺も、これで立派なバイリンガルである。といっても、四年間日本語での会話から遠ざかっていた結果、逆に、今日本語を話せといわれれば怪しい部分もある。
「母上」
「何?シトレイ」
「本が読みたいです」
話せるようになったら、次は読み書きである。当然の流れだ。
「あら、また?シトレイは勉強熱心ね。
いいわよ、貴方の父上もシトレイが書斎に入ることは許可してるわ」
書斎は屋敷の二階、普段シトレイが寝起きしている子供部屋の二個隣の部屋だ。
扉を開けると、十畳ほどの部屋の左右全面が大きな本棚で埋まっている。大きな木製の本棚の幅を考えれば、素の部屋はもっと広いのだろう。扉からまっすぐ奥には大きな窓があり、窓側には大きな机がある。
本棚は分厚い本ばかりだ。しっかりと数えたことはないが、おそらく千冊以上あるだろう。
父は書斎に寄り付かなかった。読書を嫌っているようでもある。それでも立派な書斎と蔵書を持っているのは、貴族としての見栄だろうか。
母も兄も、読書熱心ではなかった。おかげで、今、この書斎の主は俺だ。
「さてと」
俺は持ってきた紙の束を椅子に置いた。今の俺の身長では、まだ机に手が届かないからだ。
本棚に並べてある本はジャンル別に分けられているようだ。ようだ、というのは、まだ読めない文字が多く、背表紙からは確認ができないためである。俺の手の届く範囲は本棚の一段目と二段目に限られているが、それらの本を取り、知っている単語や挿絵から照らし合わせた結果が先ほどの推測であった。
右側の一段目から二段目の途中までが百科事典、二段目の半分は歴史書であり、左側の一段目と二段目は図鑑だった。
上の方の段も、おそらくジャンル別に分けられているのであろう。
メイドを呼んで、取ってもらえば、あるいは聞けば確認できるだろうが、些細な用で、子供である自分が大人であるメイドをわざわざ呼びつけるのは億劫だった。
俺は右側二段目の本を取り出した。歴史書である。昨日まで読んだところに、しおり代わりの紙を挟んでおいたので、すぐに続きが読める。
しかし、読書といっても、辞書を片手に英語の問題文を一文一文解いていくようなものであった。いや、辞書が貧相な分、もっと困難な作業だった。持参した、椅子の上においた紙の束は辞書の代わりである。
紙の束の一枚目には、この世界のアルファベットやひらがなに相当する、文字とその読み方を書いた表であった。最初はこの世界の文字に日本語のカタカナを当てていたが現在ではアルファベットを当てている。ひとつひとつの発音は、カタカナよりはアルファベットのほうが近かったからだ。
二枚目以降には、覚えた単語と、その訳が書いてある。こちらは日本語訳だ。
この自作辞書の存在は、家族には秘密である。一枚目の文字表を作る際、俺は母フェニキアに協力してもらったが、文字の横にカタカナを当てていった時、「それは何の絵?」と不信がられたためだ。
勉強熱心な、頭の良い子には思われたいが、おかしな子には思われたくない。
この、秘密の表を駆使して歴史書を一文一文解いていく。聞いたことのない単語を発見すれば、その日のうちに顔を合わせた家族やメイドに聞いた。そして、こっそりと、この秘密の辞書に書き加えていくのだ。
「しかし、しんどいな。
一ページに何日かかるんだ」
そんな調子だから、翻訳作業のペースも遅い。前世での興味から、自分の好きな歴史なら苦にならないと思い歴史書を選択した。しかし、この作業を始めて一ヶ月経つというに、翻訳できたのは三ページと半分である。内容は「はじめに」で始まる、この本の前書きであった。
父アガレスの話によれば、来年には俺にも家庭教師がつけられるらしい。事実、二歳年上の兄アーモンは家庭教師の指導の下、兄につけられた小姓たちと一緒に、昨年から読み書きの学習を始めている。兄弟で一緒に習えば家庭教師を雇う金も節約できると思うのだが、貴族の家では兄弟でも個別に雇うのが常識らしい。
「家庭教師が来るまでには、
一冊は終えたいな」
家庭教師の指導が入る前に、読み書きのうち「読み」の部分ができていれば、きっと褒められるだろう。
この世界で生きていくことに必死な俺だが、やっぱり褒められたい気持ちはあるのだった。