#018「ハイラールの大事件・前編」
朝食の席。
以前は四人いた食卓も、現在では二人である。
「父上、先日動物図鑑を読んでいる時に、ペガサスという翼の生えた馬がいると知りました。
この国よりもずっと東の方に生息しているらしいのですが、
父上はご覧になったことがありますか?」
父は、普段執務室にこもっている。執務室の奥には父の居室もあるのだが、父が帰還してから一ヶ月、執務室と居室には何者であれ、一切の入室を禁じられていた。父が帰ってきた日、おそらく父が暴れ、荒らしたであろう執務室の掃除を老リュメールがメイドに命じたのだが、結局命じられたメイドは任務を果たすことができなかった。掃除に入ることも禁じられたのである。
ただし、真性の引きこもりというわけではない。風呂やトイレ、そして食事の際はこうして部屋から出てくるのだ。
父がこんな状態のため、父と話す機会は食事の席しかなかった。俺は努めて笑顔で、以前どおり好奇心旺盛な息子として、家族や軍務の話題を避けながら父との会話を試みた。
「……」
「父上はご覧になったことがないですか?」
「……ああ、ないよ」
父の反応は薄い。
頬がこけ、目の下に深いクマを帯びた父は、静かにスープをすすっている。まだまだ顔色は悪いが、憔悴しきっていた帰還時の様子から比べれば、幾分かマシになったようだ。
少しずつ、良くなっている。焦る必要はない。ゆっくりと、時間をかければ、父は良くなるだろう。
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今日の授業は数学だ。
ロノウェとアギレットは方程式の問題を解いている。一方、俺は簿記の問題を解いていた。ヴロア先生からは、もう四年以上前に、数学について教えられることはないと言われた。数学においては、前世で言うところの大学受験レベルの学力を持っていたわけだが、それより上のレベルの勉強をしたいのならば、都の大学へ行ってくれとのことだ。
数学者になる予定はなかったから、俺は、数学の時間を他の勉強に充てていた。今は簿記の勉強をしている。この世界では複式簿記が発達している。学んでおけば、将来何かの役に立つかもしれない。特に、父は現役復帰する際に軍団監察官となったのだが、父が言うには、軍団監察官は軍団の経理面での監督を主な職務とするらしい。帳簿を読めるに越したことはない。
「シトレイ様」
一段落し、ヴロア先生の指示の下、休憩時間に入ると、話しかけてきたのはロノウェだ。
「聞きましたか、シトレイ様。
肉屋のブロッサの娘キマリアが、一昨日から行方不明だそうですよ」
「ブロッサの娘といったら……あの金髪か」
名前の挙がった娘を思い出す。あまりしゃべったことがないが、たしか俺より二つだか三つ年上の少女だ。金髪のロングヘアが特徴の娘である。
「はい。
昨日の朝、彼女の両親が必死で探していたのですよ。
『娘を見ませんでしたか』と。
その後、街の自警団が探したのですが、見つからなかったそうです」
「家出か誘拐か。
どちらにせよ、ハイラールでは大事件だな」
「ええ。
それで、今日の朝、この屋敷へ伺う前に再び広場を通ったのですが、
『領主様にご相談するしかない』と、
彼女の両親や自警団の人たちが話しているのを聞きました」
授業の後、リュメール兄弟が彼らの祖父と合流した際、俺は老リュメールにブロッサの娘のことを聞いた。
「ブロッサの娘のことを聞きましたか?」
「はい。
今日の昼に、街の自警団の者がやって参りました。
捜索のために、伯爵様のお力をお借りしたいと」
「で、父上は何と仰っていました?」
「いえ、伯爵様のお耳には入れておりません。
ご相談すべきことだとは思いましたが、執務室の前でお声をおかけしても、
『誰も入るな』と仰られましたので……」
引きこもりの父の代わりに領地を切り盛りしているのは老リュメールである。老リュメールの政務代行は父が戦場に行っている時から続いているので、特に屋敷や領地の混乱はないのだが、こういった不測の事態が起こっても、領主としての仕事を放棄しているのはいただけない。だが、今の父の心情を思うと、あまり強くは言えなかった。
「捜索のために屋敷から人を出しているのですか?」
「はい。従士を数名。街の周りを探させましたが成果は得られませんでした。
これ以上の遠出となると害獣の危険もあるので、もう少し人数が必要となります」
「よし、私が許可します。
できるだけ人数を集め、少し遠くまで探して下さい。
明日は休日ですから私も街に出て情報を集めてみます」
「かしこまりました」
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翌日。
いつもの広場に、いつものメンバーが集合した。
シトレイ・ハイラール(11)領主の息子。
ロノウェ・リュメール(13)シトレイの小姓。
アギレット・リュメール(10)ロノウェの妹。シトレイの小姓。
フォキア・フィッツブニト(11)宿屋の娘。
ヴィーネ・ログレット(13)従士の娘。
「と、いうわけで、我がハイラール領の一大事だ。
キマリア・ブロッサの捜索を行う」
いつものメンバーが集合するや否や、俺は皆に宣言した。ロノウェとアギレットには、昨日のうちに協力を取り付けてある。
「少女探偵団ね」
フォキアは乗り気だ。少年探偵団じゃないのか、と思ったが、男女比は二対三である。少女探偵団でもいい。
「話は聞いていたけど、キマリアさん、まだ見つかってないんだね……」
キマリア・ブロッサと俺たちはあまり接点がないと思っていたが、ヴィーネはブロッサの娘と学校の席が近いため、交流があるようだ。当然だが、キマリアは昨日も学校には来ていなかったらしい。キマリア・ブロッサ探索に、ヴィーネも快く同意してくれた。
ガープ・ブロッサ(40)肉屋。
ゼフィラ・ブロッサ(39)ガープ・ブロッサの妻。
「ご令嬢がいなくなった際の状況を教えて下さい」
俺たちは、まず、いなくなったキマリア・ブロッサの家に向かった。肉屋を営むブロッサ家は広場の北側出口付近に店を構えている。ブロッサ肉屋の売っている鶏肉の油揚げは絶品だ。一時期アギレットがはまっていて、毎日買い食いした結果、少し太ってしまったらしい。いつ見ても彼女は小さく華奢な体つきだったから、言われてもまったくわからなかったが。大人しそうな外見のアギレットだが、実は、彼女は結構食べる。
「三日前の夜、突然いなくなったのです。
その日の夕食まではいたのです。
その後、いつものことなのですが、娘は部屋に引っ込みました。
それで、十二時過ぎても部屋の灯りがついていたので、
早く寝るように促そうと娘の部屋に入ったところ、もぬけの殻でして。
すぐに家中を探しましたが、見つからず、
その後街中も探したのですが、居ませんでした……」
キマリアの部屋は整然としており、争った形跡はなかったらしい。
「わかった、駆け落ちだ!」
今の話で何がわかったのかわからないが、フォキアは急に駆け落ち説を主張し始めた。フォキアは自説を補強すべく、ブロッサ夫妻に質問をぶつける。
「キマリアさんって何歳でしたっけ?」
「十四歳になったばかりです」
「うんうん、十四歳。恋に燃え上がる年頃ですね。
これはもう確定だね。キマリアさんは想い人と駆け落ちしたのよ」
何が確定なのかわからない。ボケてるのか、真面目に言っているのか。ブロッサ夫妻を前にボケれるような状況ではないので、おそらく真面目に言っているのだろうが、そうなるとボケているより始末が悪い。俺はフォキアを嗜めようとしたが、それに先んじて、ブロッサ夫妻が駆け落ち説を否定した。
「多分、それはありません。
家出を匂わす置き手紙はありませんでしたし、娘の財布も机の上に置きっぱなしでした。
それに、娘には交際している人間がいます。将来結婚することも決まっていました」
何。
彼氏持ちだと……。
や、彼氏持ちはまだいい。結婚まで約束してるだと……?
一瞬、行方不明のまま爆発しろと思ったが、これは真面目な事件で真面目な捜査だ。すぐに不謹慎な考えを改めた。だが、婚約相手の名前を聞いた瞬間、今度はその相手こそ爆発しろと思い直してしまった。
「相手は、鍛冶屋のとこのアンドレフです」
相手はマルコの兄だった。
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アンドレフ・ラングフォード(15)鍛冶屋の次男。
最初、マルコの実家である鍛冶屋を訪ねた際、アンドレフはいなかった。交際相手であり婚約相手でもあるキマリアを探しに出ていたという。だが、三十分ほど待つと、帰ってきた。昼食をとりに戻ってきたのだ。おかげで話を聞くことができた。
「話が聞きたいのだが」
「シトレイ、様」
最初にアンコで戦って以来、俺たちと兄の取り巻き立ちとの対立は続いていた。だが、俺が兄と和解し、兄がアスフェンへ旅立って以来、アンドレフをはじめとする兄の元取り巻きたちは息を潜めるように、俺たちを避けていた。面と向かってアンドレフと話をするのはおおよそ二年ぶりだ。
「お前はキマリア・ブロッサの交際相手だと聞いた。
我々もキマリア・ブロッサの捜索を行っている。知っていることを話してくれ」
「お、俺は何も知らないよ。
いきなりいなくなったんだ。俺に何も言わず。
絶対、キマリアは何か事件に巻き込まれているんだ!」
以前、次期領主の威を借りて威張り散らしていたアンドレフは、現在の次期領主である俺に顔をそらしながら言った。
「キマリアさんは、駆け落ちしたんだよ。
きっと、他に好きな人ができたんじゃない?
相手があんたじゃ、そりゃあ愛想もつくわ」
ブロッサ夫妻を相手した時と違い、フォキアは言いたい放題である。アンドレフのことを嫌っている分、なおさらだ。
「ふざけんな、キマリアが俺以外の男を好きになるはずがない!
この前だって、今度遠出してアスフェンまで遊びに行こうって約束してたんだ。
それに、俺は成人してからキマリアん家の肉屋を手伝ってるけど、キマリアも喜んでた!」
アンドレフは鍛冶屋の次男である。鍛冶屋は長男が継ぐ。三男は親戚の軍人の家へ養子にいった。アンドレフ自身はキマリアと結婚し、ブロッサ家へ婿入りする予定だという。十五歳の成人を機に、肉屋での仕事を手伝い始めたのだそうだ。それを、キマリアは元より、ブロッサ夫妻も喜んでいたらしい。
「あんただけじゃない?向こうが喜んでると思ってるのは」
「何だと、このチビ女!」
捜査が喧嘩に変わりそうになったため、俺たちはフォキアを引っ張って鍛冶屋を後にした。
その後、キマリアの友人や知り合いに話を聞いたが、新しい情報は得られなかった。結局、一日かけてわかったことは、キマリアは家出したわけではなく、何か事件に巻き込まれたのではないか、ということだけである。肝心の彼女の居場所に関する手がかりは皆無だった。
「もう解散しよう」
夕暮れを通り越し、日が落ちそうだった。
これ以上情報を集めても進展がなさそうだ。キマリアが行方不明になって既に四日目。最悪の結果が予想されたが、子供だけではできることも限られてくる。俺はこのまま子供たちだけで情報収集を続けるよりも、遠出して探しに出た従士たちの報告を聞く方が有意義に思えた。
「とりあえず、うちの従士たちも戻っていると思う。
彼らの報告は、皆にも伝えるよ」
そういうと、俺たちは解散した。ロノウェは俺を屋敷まで送ると言ってくれたが、それよりも妹を連れて帰るように命じた。もしキマリアが事件に巻き込まれたのだとしたら、街中でも安心できない。アギレットは、華奢に見えてよく食べるが、腕力は見た目どおりだ。狙われたら簡単に誘拐されるだろう。
屋敷に戻ると、ちょうど捜索から戻ってきた従士たちが、老リュメールに報告を行っているところだった。従士たちも進展がなかったらしい。街の東の川や、二キロ先の森もくまなく探したが、キマリアの姿はなかったそうだ。
思ったより、大事である。俺は、明日ヴロア先生に言って授業を休みにしてもらおうかと考え、床に就いた。
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翌日。
俺の提案は、ヴロア先生に告げる前に実現した。朝になって、キマリアの遺体が発見されたのである。