#017「父の帰還」
父が帰ってくる。
留守を預かっていた俺と老リュメール、それと我が家に仕える他の家臣やメイドたちは玄関ホールに整列した。この中には、もう一人、いや二人、いるべき人間が欠けていた。父はどのような顔をするだろうか。緊張する。
外から大声が聞こえた。
「ご領主様、ご帰還!」
その声に反応し、二人のメイドたちが玄関の大きな扉を開ける。外には数人の軍服を着た男たちが立っていた。先頭の、無表情な男は父のようだ。
「お帰りなさい、父上」
「お帰りなさいませ、伯爵様」
父が帰ってきた。俺と、老リュメールが出迎える。続いて、家臣やメイドたちも頭を下げて出迎えた。
「……ご苦労」
父は一目見て憔悴しきっているとわかった。
いつもニコニコしていた父は、無表情で返事した。顔色は悪く、頬はげっそりとしている。目の下は深いクマで覆われている。別人かと思うくらい、ひどい人相だ。俺とタメを張れる悪人面である。
俺と老リュメールは、父に従い執務室に入った。
執務卓に座った父は、前面で手を組み、目を瞑ってしまった。俺は沈黙に耐えかね、声をかける。
「父上」
「……」
「父上にご報告したいことがあります」
「……フェニキアが死んだことか?」
言葉を選ぼうと考えていたが、父の方から「死」という直接的な言葉が返ってきた。その一言に、父の投げやりな態度が見て取れた。
「母上が仰っていました。
父上より先に逝ってごめんなさい、と」
「……」
「それと、赤ちゃんを産めなくてごめんなさい、と」
「…………」
「父上?」
「……聞いている。もうよい。下がれ」
「……はい」
俺と老リュメールは執務室を退室した。老リュメールは、父が不在の間の領地経営に関する報告がいくつかあったのだが、父が少し落ち着いてからの方がいいと判断したのである。俺は母の言伝を伝えることができたのだが、父の気持ちを聞くことはできなかった。
父は妻を亡くした。だが、同時に俺は母を亡くしたのだ。親子同士、何か話すことがないのだろうか。俺は、一瞬、父を責めたくなった。しかし、その気持ちはすぐになくなった。
息子シトレイから父アガレスを見れば、そういった気持ちを持つことは仕方ない。だが、前世の記憶を持つ「俺」として、同年代のアガレスを見ればどうか。もし俺が妻子を持っていて、辛い仕事から帰ってきてみれば、妻が亡くなっていたとしたらどうか。俺は子供を気遣うことができるか。そんな余裕があるのか。
「ふははははっ、はははははー!」
ふと、執務室の中から大きな笑い声が聞こえた。父の笑い声だ。しばらく続いた笑い声がやんだと思ったら、今度はガラスが割れたような音がした。次に何かが倒れる音が。
「リュメール……」
「シトレイ様、今は、伯爵様をお一人にして差し上げるべきです」
俺と老リュメールは、足早に執務室から離れた。老リュメールは、途中で会ったメイドに対し、少し時間を空けてから父の執務室へ行き、掃除をするよう指示を出していた。
玄関ホールまでやってくると、そこにはログレットがいた。従士たちの中で一番の剣の使い手であるログレットは、父と共に出征した従士たちの一人である。父ほどではないが、顔色が悪い。以前よりもやつれた様子で、疲れた顔をしている。
「シトレイ様、伯爵様のご様子はいかがでしたか?」
「とても、荒れています。今は一人にして差し上げるべきと判断しました」
「……そうですか。
シトレイ様のお顔を見れば、少しは和らぐかと思ったのですが……」
「父上はずっと、あの調子なのですか?」
「……ええ」
父の気持ちや考えを聞くことができなかったが、代わりにログレットから、戦場での父の様子を聞くことができた。
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元々、今回の戦いは、年に数回行われているいつもの小競り合いから始まった。
先に仕掛けたのはコルベルン王国側である。三千ほどの兵を繰り出してきたコルベルンに対処するため、コルベルンと対峙する我が国の西部方面軍は二個軍団、一万人の兵を投入したのだった。敵の三倍以上の兵力を出し、一気に叩く。司令官の判断は的確なものであっただろう。
我が軍の術を食らった敵の三千はすぐに蹴散らされ、退却していった。二個軍団はすぐに追撃を行う。だが、これは罠だった。敵の伏兵がいたのだ。追い詰めたと思っていた二個軍団は逆に、敵軍二万の大兵力に囲まれた。二個軍団は勇敢に戦ったが、兵力差は埋めがたく、そのほとんどが殺されたという。
この時点で、西部方面軍は都に援軍を請うべきであった。援軍が到着するまで篭城して耐えることこそ上策であったのだ。だが、二個軍団一万の損失は大失態である。我が国の軍隊では、敗戦を理由に罰せられることがない。しかし、敗戦は、昇進に大きく影響した。司令官が手持ちの軍勢のみで名誉挽回を図ったとしても不思議ではなかった。
二個軍団を失って四日後、対コルベルンとの前線基地サミンフィアから討って出た西部方面軍三個軍団と補助兵部隊、そして逃げ帰った二個軍団の生き残りを会わせた合計二万五千の我が軍は、敵軍二万とサミンフィア西の平原を舞台に激突した。途中までは両軍互角であったのだが、敵の術の発動が早く、右翼に二発、左翼に三発の火柱と落雷を浴びた我が軍は総崩れとなった。二万五千の兵士たちはほとんど殺されるか捕虜となり、そして、司令官は戦死し、西部方面軍司令部は消滅した。
その後、余勢を駆った敵軍によってサミンフィアは陥落。
この時点で、父への現役復帰命令が下されたのである。
中央方面軍を主体とし、他の方面軍から兵をかき集めて八個軍団四万の兵を編成した我が軍はすぐさまサミンフィア奪還戦を開始した。父は中央方面軍に所属していたらしい。
奪還戦自体は順調に始まり、終わった。
二ヶ月半に及ぶサミンフィアおよび周辺地域の占領中、敵軍は略奪に明け暮れた。後先考えず収穫前の畑に火を放って周ったという。そのため、我が軍の接近を知ってもサミンフィアに運び込む兵糧がなく、敵軍はすぐさま撤退を始めたのであった。
その撤退する敵軍を我が国の奪還軍が追撃した。
国土を侵された側の我が軍は士気も高く、二倍の兵力を持っていたため、戦いは一方的なものであったという。今度は、我が軍が敵兵を殺しまくった。
無事サミンフィアを奪還した我が軍は、同地に駐屯し、任務を周辺地域の制圧と慰撫に変えることとなった。
そして、父の地獄が始まった。
奪還軍の司令部直営軍団に籍を置いた父は、サミンフィア奪還後、臨時の行政官となった。前線の街では駐屯する軍司令官が総督を、その司令部が行政府を構成する。だが、本来の総督と行政府である西部方面軍司令部は消滅していた。このため、奪還軍司令官が総督となり、その幕僚たちが行政官となる。
父は司令部の所属ではなく、直営であってもあくまで麾下の一軍団の所属であった。通常ならば、行政官の職は回ってこないのだが、父が抜擢されたのは、父が皇族であったことと無関係ではないだろう。
ともかくも、父は行政官としてサミンフィアに入城したのだが、そこで目の当たりにした光景は、想像を通り越した悲惨なものだったのだ。
「ええ、正に地獄絵図でしたよ。
街のそこら中に死体が転がっていました。女子供老人、見境ありませんでした。
若い女は皆、裸の死体でした。おそらく、犯された後に殺されたのでしょう。
それだけではありません。死体のほとんどが欠損していたのです。
あとから聞いた話では、
侵略軍に食糧を奪われたため、サミンフィアの民は飢餓に陥り、
死体を切り取って食べ、飢えをしのいだとか」
ログレットの顔がゆがんだ。彼もその光景を見たのだ。相当なトラウマものだろう。
「ログレット、もういい。
これ以上無理に話さなくとも、思い出さなくともいいのです」
「いいえ、シトレイ様。
続けさせて下さい。伯爵の心身が優れない以上、
私には戦場での出来事をお伝えする義務があります」
「……わかりました」
父はサミンフィアの光景にショックを受け、嘔吐を繰り返し、眠れない日が続いたという。それでも父は与えられた職務をこなしていった。民の遺体を埋葬し、街の舗装に染み付いた血を洗い流し、食糧を配り、上司である司令官を通してサミンフィアの民に対する税の免除を政府に掛け合った。
「伯爵様は仰っていました。
我々が義務を全うことが、国防の助けになる。
我々の仕事は、ハイラールで待つ家族たちの安全に繋がるのだ、と」
日に日に、父の顔には疲労の色が見えたが、それでも父は手を抜くことなく、時には自ら街に出て、遺体の埋葬作業を手伝ったという。
そんな時、父は母の死を知らせる手紙を受け取ったのだった。
「手紙をご覧になり、伯爵様のお心が折れてしまったのです。
以来、ずっと心ここにあらずといったご様子です。
実は、伯爵様のハイラールへのご帰還が叶ったのも、
奥方様がお亡くなりになったからではありません。
貴族や皇族の方でも、軍務中は身内の不幸を理由に帰還することはできません。
伯爵様は……心の病と判断され、ご帰還が許されたのです」
戦場でのことをログレットから聞くまで、俺はどうすれば以前の父に戻ってくれるか考えていた。しかし、人が変わってしまった父の心の傷は、とても深いようだ。俺ごときが何かしたところで、それは父の助けになるのだろうか。あるいは時が父を癒してくれるのだろうか。
俺は、それから、父に対し以前と変わらぬ態度を努めてとるようにした。兄は家を出て、母は亡くなったが、まだ俺がいる。以前と変わらない俺を見ることで、そのことを思い出してほしい。