#016「出産」
その日、俺はいつものようにロノウェやアギレットと共にヴロア先生の授業を受けていた。
内容は歴史で、ロノウェとアギレットは入門書を片手に通史を学んでいた。一方、俺は幼年学校入学後を見据え、戦史の本を読んでいる。
古代の戦争では、攻撃の方法として槍が一般的だったらしい。
古代の国は長い槍を使いこなす兵士を育成し、戦争に投入した。槍の突撃力こそが、攻撃の要だったのだ。このあたりは、古代ギリシアのファランクスと共通する部分がある。
長らく戦争の主役だった槍が、その役目を終えたのは、術の登場による。
人間が初めて術を使ったのは、約八五〇年前のことだ。女神ドミナが一度目の降臨を果たしたとき、人間に術を伝え、異教徒の侵略から民を守ったという。
このあたりの経緯は、戦史を扱う本よりもドミナ教の聖典の方が詳しい。
さて、術の登場によって戦争が大きく変わった。兵士たちの役割は攻撃から防御になった。
術士が術を発動するまでの時間を、前面の兵士たちが稼ぐ。兵士たちの装備は長槍と円盾から刀剣と長方形の大盾に変わっていった。
その後、様々な戦術が考案されたが、基本的にはいかに術と術士を効率的に使うかということを主題に置かれた。
しかし、術が導入された当初の戦いはひどいものであっただろう。鍛えられた術士の放つ術はそれこそ爆撃のような威力だ。中世の騎士や日本の武士が、「やーやー、我こそは――」とやりあっている戦場に、いきなりミサイルが降ってくるようなものなのだ。ほとんど虐殺に近かっただろう。
女神ドミナの最初の降臨時、地方領程度だったドミナ教の勢力は、半世紀で大陸を飲み込むまでに成長した。この爆発的な勢力拡大は、術の力によるところが大きいだろう。
読書に夢中になっていた俺は、だからメイドが大声で入室してきたことを不快に感じた。しかし、その不快感はすぐに吹っ飛び、焦りと不安に変わった。
「奥様が、産気づいてます!」
母はまだ妊娠七ヶ月だ。今産まれたら、早産である。俺はヴロア先生に許可を取ると、ロノウェやアギレットを伴って母の部屋へ向かった。
母の部屋に入ると、苦しそうな母のうめき声が聞こえてきた。
ベッドの前には衝立があった。
奥には、母と数人の産婆がいるようだ。衝立の前にはメイドたちと、医師が待機している。
「シトレイ様、少しよろしいですか」
壮年の医師が話しかけてきた。俺は、医師に連れられて部屋を出る。
「非常にまずい事態です」
「……早産ですね」
「それだけではありません。実は逆子のようでして……。
さらに申し上げれば、フェニキア様のお加減もよろしくありません」
フェニキアは三十代中盤。既に高齢出産のくくりとなる。初産ではないからそれほど心配していなかったが、医師の話を聞いて、自分の認識が甘かったことを感じた。
「正直に申し上げましょう。
フェニキア様も、お子様も、大変危険な状況です。
……助けられるのはお一人だけです。
その場合は、どちらのお命を優先すべきでしょうか?」
こういった判断は、夫がすべきだ。だが、今その夫は戦場にいる。家を任されたのは俺である。俺が判断しなくてはならない。
父が母を愛してることは、聞かなくてもわかる。同時に、父は俺や兄に対しても深い愛情を持って育ててくれた。新しい家族に対しても惜しみない愛情を注ぐだろう。選べるはずがない。こうなると、感情は殺し、機械的に最善と思われる判断をするしかない。
「どちらの方が、生存する可能性が高いのですか?」
「それは、もちろん大人であり体力もあるフェニキア様の方です」
「では、母上を優先して下さい」
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「……死産です」
産まれた男の子は、既に亡くなっていた。逆子かつ回旋異常もあり、産声を上げることもなく冷たくなっていたとのことだ。俺にはまるで現実味がなかった。新しい家族に一度も会うことが叶わなかった父は、この結果を聞いたらどんな顔をするであろうか。
「出血が続いています!」
「急いで止血を!」
落ち込む暇もなく、衝立の奥から医師や産婆の怒号が聞こえる。
周りのメイドたちも、青い顔をしながら騒いでいる。ロノウェはどうすればいいかわからず、暗い顔をして黙っている。俺だってどうすればいいかわからない。
「シトレイ様」
アギレットは泣きそうな顔で俺の服を掴んだ。
「大丈夫だ」
俺はただ、大丈夫だ、大丈夫だと言い続けた。アギレットに対して、もしくは自分に対して言い続けた。
急に周りが静かになった。
すると、衝立の奥から医師が出てきた。
白衣は前方が真っ赤に染まっている。
「シトレイ様、フェニキア様がお呼びです」
衝立の奥に入ると、いつもより白い顔をした母がベッドに寝かされていた。布団は彼女の血で真っ赤である。
「……シトレイ」
「母上」
「……貴方に、謝るわ。
私は、あまり母親らしいことができなかった。
貴方、小さい頃から頭が良かったから、どんな話をすればいいか、どう接すればいいかわからなかったの」
この世界に生まれてこの方、フェニキアに辛く当たられたことはない。彼女から無視されたこともない。俺の中のフェニキア像は良い母親そのものである。優しく、よく俺のことを自慢してくれた。
だが、母にも育児に対する悩みがあったのだろうか。
「ごめんなさいね、シトレイ。
それと、アーモンに会う機会があったら伝えて。
貴方を手放す結果になって、ごめんなさい、と」
「はい」
「それと、貴方の父上が帰ってきたら伝えてちょうだい。
先に逝って、ごめんなさい、
赤ちゃんをちゃんと産めなくて、ごめんなさい、と……」
「はい……」
「…………」
「母上?」
「……」
「母上……?」
母は動かなくなった。俺は、この世界に生を受けて初めて涙を流した。
「おい、どういうことだ。
母上を助けろと命じただろう!」
「……申し訳ございません。
お子様の回旋異常のために産道が傷つけられたようでして、出血が……」
「貴様の言い訳など聞きたくない。
ヤブ医者め、すぐにここから出て行け!」
俺が血走った涙目で睨むと、俺の顔を見て恐怖した医師は、言われるがまま退室した。
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葬儀は家臣である老リュメールの指揮の下、滞りなく行われた。
コルベルン王家を構成する六人、コルベルン王アーモン、アスフェン公爵ヴァレヒル、アスフェン公爵妃、ハイラール伯爵アガレス、アスフェン公爵公子アーモン、そして俺のうち、葬儀に参加したのは俺とアスフェン公爵親子だけであった。
父は戦場にいる。そして、コルベルン王アーモンは国事多難につき、都から離れられない状況とのことだ。祖父アーモンは弔問の使者を立ててきた。俺は、祖父に会わずに済みホッとしていたが、こんな時ですら祖父と会うかどうかを気にしている自分に自己嫌悪した。
母方の親族は母の義姉と甥、姪たちが参列した。母方の祖父母は既に他界しており、母の兄は父と同じく軍人で、今は戦場にいるという。だから、今回はその戦場にいる兄の妻と子供たちがはるばるハイラールまでやってきたのだった。俺にとって義理の伯母に当たる人は、母よりも若かった。従兄弟に当たる姉弟も、まだ幼児だった。
「兄上」
「久しぶりだな」
二年ぶりに会った兄は最後に会った時よりも身長が伸びていた。兄は十三歳。二次成長期の真っ盛りである。前世の感覚で言えば、十三歳などまだまだ子供に思えたのだが、ずいぶん大人びて見える。スッとした顔の輪郭は父譲り、目鼻立ちは母譲りであろうか。
兄の容姿ならば、あの美丈夫である太祖アガレスの子孫だと言われても納得できる。
「母上がご懐妊されたとは聞いていたが……まさかな」
「申し訳ありません」
「シトレイが謝ることはないだろう。
しっかりとした医師もついていたと聞く。
私や父上がその場にいたとしても、結果は変わらなかっただろうさ」
俺がヤブ医者と罵って叩き出した医師は、コルベルン王領内では一番の名医だった。身重の母を心配した父が、出征前に大金をはたいて雇ったのである。ヴロア先生の雇用もそうだが、父は家族のこととなると金に糸目をつけない性格をしていた。
「しかし、父上が母上のことを知ったら、どのようなお気持ちになるだろうか」
父には、老リュメールを通して、事の顛末を綴った手紙を出している。
このハイラールから父のいる前線まで、駅馬車の足と順風に恵まれた船を以ってすれば一ヶ月以内に届くであろう。
「シトレイ、父上を支えて差し上げろ。
ハイラール家には、もう父上とお前の二人しかいないのだ」
「はい」
父から返信が来たのは、葬儀が終わって一ヶ月半後のことだった。
手紙には、すぐに帰還する旨が書かれていた。もうすぐ父が帰ってくる。