箱庭の人生にいろどりを。
ここは箱庭だ。
高い壁に囲まれた箱庭。
自ら出ようと思わなければ、何日も何十日も壁の中だ。そしてそこは居心地よく、外に出る気を無くしてしまう。
もともと、地下の研究所で生活していたイチヒトにとって、土の地面を歩くこと、風を感じること、陽射しを受けること、雨に濡れること、それらすべてが新鮮で箱庭の中の生活に不満などないのだ。
『町へも行ったほうがいいんじゃないですか?』
言われてはじめて気がついた。
自分には、町へ出ようという考えがまったくないことを。出かけることが億劫なのではなく、ほんとうに思い付きもしなかった。
春の終わりの雨が何日もつづいている。
―― 雨がやんだら、出かけよとおもう。
***
溶媒に使う精製水の在庫がなくなってしまった。半月前に発注はしているが、いなかであるこの町に配達されるのは、結構な時間がかかる。
封を切ったものはまだすこし残ってはいるが、なにがあるかわからないので、使い切るのはやめておく。
実験はしばらく中止し、かわりにノートと広げ、錬成の公式をがりがりと書き込んでいく。
助手という名の小間使いであるミサはこうなると、はっきりいって仕事がないのだが、彼女は指示をせずともなにかしら仕事を見つけてこなしている。
去年の夏の終わりに彼女が来た時は、この、心地よい箱庭の中に他者を招かなければならないことが、心底うっとおしかった。けれども彼女は一定の距離を保ち、干渉せず又、しなかった。
興味のなさはイチヒトにとっては、ある意味好感だった。たまにお姉さんぶるのは気に入らなかったが、その分年増扱いしてからかうことにしている。
『町へも行ったほうがいいんじゃないですか?』
イチヒトが人見知りだということを、ミサはたぶんに見抜いている。
他人は苦手だ。接し方がわからない。
だから町へ行って慣れろと言いたかったのかもしれないし、単純に、本当に出会いを求めろという意味だったのかもしれない。
地下の研究室で暮らしていたころも、先生に引き取られるまでの数年間も、社交なぞ気にする必要がまったくなかった。天気の話も暑い寒いという話も今日のご飯はなにかとうことも髪を切ろうかどうしようかといことも、人と話すことではなかった。会話する必要のないことだったから。おはよう、おやすみ、おかえり、ただいま。そんなものは先生に引き取られてから知った。
人生のいろどり。
それはとても些細なことの積み重ねなんだと、最近少しわかってきた。たぶん、そう思う。
ことん、と机のはじにトレーが置かれた。トレーには紅茶とクッキー。
「―― ありがとう」
「どうぞ。あ、業者に連絡して精製水せっつきました。明日の昼過ぎには届くそうです。ついでにバイアルも三箱持ってきてもらいますから」
一番の稼ぎ頭である媚薬を入れる容器だ。他の薬剤を入れるときにも使っているが、主にはそうだ。
「ああ、追加注文が来てたな。わかった」
細かく砕いたナッツ入りのクッキーを頬張り、紅茶を飲む。
「おなか、すいてたんですか?」
クッキーをサクサクと食べきったイチヒトにミサはいう。
「そうでもなかったが、まだあるなら食べれるぞ」
「お菓子より夕飯早めにしましょうか? 今日はパプリカときのこの炒め物と、トワさんお得意の手羽先の甘辛煮と野菜スープですよ」
メニューを言われると本当にグゥとおなかが鳴りそうになった。
そうしよう、と答えて、イチヒトはまたノートに向き合う。きりのよいところまで書き上げているので、ざっと見直す。
夕飯を食べるときはきっと、いただきます、と言うのだろう。
食事中はたわいない話のひとつもするのだろう。
なんの事はない、ただの日常。いろどりというには淡いけれど、イチヒトにとっては新鮮だった。
研究所を出てふと空を見あげる。
雨雲がまた多くなってきた。明日も降るのだろうか? 明日なら一日雨でもかまわない。明後日の休日に晴れればいい。
雨がやんだ街へ出よう。
箱庭の人生に色を差すために。