魔女の一撃。男の命。
四日前、洗濯物を干している時に突然トワがぎっくり腰で倒れた。息のやりかたも忘れてしまうほどの、身動きひとつできない強烈な痛み。応急処置で炎症部分を冷やすために腰に冷たいタオルをあて、とにかく楽な姿勢をとらせ、落ち着いてからイチヒトが自動車でトワを自宅まで送った。
とにかくしっかり腰を労わって休んでもらわないと慢性的な腰痛につながってしまうので、トワにはしばらく休んでもらうことにした。
そんなこんなで研究所に病欠中のトワに代わってイチヒトとミサが家事をすることになった。
イチヒトが掃除と食器洗い。ミサが洗濯と調理。おおまかな担当を決めて仕事と家事の日々を過ごしていた。
***
一日目、それは大なべいっぱいのポトフからはじまった。
二日目、残ったポトフにトマトが加えられ、具だくさんのトマトスープになった。
三日目、数種類のスパイスが追加され、トマトスープはカレーになった。
四日目、カレーにマカロニが混ぜられ、チーズをのせてこんがり焼かれてグラタンになった。
イチヒトはレタスとコロッケがはさまれたサンドイッチをがぶりと噛みついた。カレー味だった。
そう、五日目にグラタンはコロッケになった。
「ミサ。君に台所の錬金術師の称号をあたえよう」
「いりません。それよりもう大量にスープ作るのやめてくださいね。あきないようにするのも手間なんですから」
アレンジに次ぐアレンジは「一食くらいは僕が作ろう」と、イチヒトが分量を考えずに調理した結果だ。さすがに毎食同じものは味気なさすぎるので、ミサが手を加えいったのだ。
「不味くはなかっただろう?」
「ただ作り過ぎです。それより、明日はわたし朝から町まで買い出しに行きますから。欲しいものありますか?」
「目新しい駄菓子があれば。―― 車出すか?」
「いえ大丈夫です。帰りはトワさんの娘さんが馬車を出してくれることになってますから」
「そうか。しかし、家事をしてくれる人がいないと家に帰ってからも疲れるな」
「トワさん家事のエキスパートでしたしね」
「腰か……」
不穏な顔つきでイチヒトが呟く。もともとたれ目の三白眼という穏やかな人相ではないため、見ていてどこか重苦しい。
「順調に回復してるって電話があったでしょう? 重くとり過ぎないでくださいよ」
「いや、自分がぎっくり腰になったらと思うとゾッとしてな」
「ものすごく痛そうですもんね」
思わず想像してしまい、痛そうに頬が引きつった。
「痛みもだが、ものの本に書いてあったんだ」
なにが? とミサは視線で先をうながした。
「腰は男の命だと」
「なんの本なんですか?」
「実用書」
「おかわりいらないなら食器下げますよ?」
「君、僕への対応がおざなりになってないか?」
気のせいですよと、ミサは食器をかさね流しに運ぶ。
それぞれ眠くなるまで談話室で過ごすことは、薪ストーブが使われなくなってからも習慣として続いていた。
トワが休みだと、塀の中で二人だけの生活がつづく。
ふと、ミサが言った。
「イチヒトさん。人生にいろどりを与えるには、町へも行ったほうがいいんじゃないですか? 出会いもあるかもしれませんよ?」
「出会いについては十八になったら精力的にがんばる予定だ」
「そうですか。がんばってくださいね」
さらっと返すミサに、やっぱりおざなりだなと、イチヒトはつまらなさそうな顔をした。
しょうがないなと、ミサは話題をふった。
「そういえば、どんな子が好みなんですか? 町にもイチヒトさんのこと気になってる女の子いますよ?」
正確には高給取りの錬金術師をだ。まあ、言わなくてもいいだろう。
好み? とイチヒトが唸って考え出す。
「ないな。というかわからない。研究者以外でまともに会話したことのある女性はトワさんと君だけだしな」
好みと言われてもピンとこない。
「君は? 休日でもあまり出歩かないだろ、遊びに行ってもいいんだぞ」
「遊び、といわれても」
「映画は?」
「宣伝動画しか見たことないですね」
どこそこで何があったや何がある等、ニュース映像や歌が半時間ほど上映され、普通の映画の三分の一程度の低料金で見ることができる。
「じゃあ次の休みは映画を見に行くことにしよう」
「わたしをデートに誘ってどうするんですか」
「ふん。ものの本には独り寂しい年増は誘えばよろこぶと書いてあったのだが、そうでもなさそうだな」
「どんなの読んでるんですかッ! ほんとにそんなこと書いてるんですか? 飛躍してません?」
イチヒトは談話室の本棚から一冊の薄い冊子を引きぬいてミサに「ここ。そういう意味だと解釈した」と、あるページを見せた。
「…………」
本のタイトルは『どんな女もこれでイチコロ イカせろ燃える男魂パワー』
そして見せられたページに書かれていたことは…………。
「没収します」
ミサは規則に厳しい女教師のような言動で冊子を取りあげた。
イチヒトはやや不満そうに。
「記事の内容は信用できなさそうなのか?」
「こんなの信用したんですか?」
人によるだろうが女からすれば、モテる言動ではなく、がっついてるナンパに感じる。
「む。では腰の強化運動も信用できないのか…………」
ぶつくさ言い出したイチヒトに、ミサはあきれきったため息をついてみせた。
「男の命だということも胡散臭いのか?」
「ぎっくり腰にでもなればわかると思いますよ」
とミサはさらにため息ひとつ。女のわたしに聞かないでほしいと思った。