ただのイタズラでしょ?
いくつもの淡紅色のちいさな花がまり状に咲き、まろやかな花の香りを風にはこばせている。
その花を見上げるイチヒトは乙女ではなかったので「口内炎が治りそうな匂いだな」と、情緒もなにもないことを言った。
「口内炎できたんですか?」
落ち葉掃除をしながら聞いてきたミサに。
「朝、内頬噛んだ」
「うわ。痛そう。じゃあ昼はラー油たっぷりのゲキ辛丼にしましょうか。野菜と豚肉たくさん入れて」
「君はオニか」
「練りとうがらしも入れて」
「悪かった! 昨日だって謝っただろう」
昨日イチヒトはミサに白い錠剤を飲ませた。おやつの時間に、おかしの皿にしのばせて、いたずら心でこっそりと。
ミサがラムネに似たそれを口にした瞬間、イチヒトは懐中時計を取りだし時間を測りはじめた。
「なにしてるんです?」
怪訝な表情のミサにイチヒトはこう言った。
「新薬の反応が何分であらわれるか確認している」
「新薬?」
「うむ。媚薬の」
は? とポカンとしたミサに「君がさっき食べた白い粒」
「!?」
その後のミサの取り乱しようはすごかった。
イチヒトも品のない冗談すぎたと、かなり反省した。
そんなこんなでミサは昨夜から機嫌がよろしくない。さすがにすこし辟易する。
「ただの体臭改善薬だと言ってるだろう」
「自分で試してください。いくらわたしが検体やってたからって無断で試すなんて酷すぎます」
「軽んじたわけじゃない。謝ってるんだ素直にゆるせ。我の強い年増なぞかわいくないぞ」
「かわいくなくてけっこうです」
「…………。年増」
「まだなんか用ですか? お子様」
「…………だいこん足」
「たれ目」
ミサが研究所に来て約八ヶ月。二人ははじめてケンカをした。
それもかなりしょうもない口ゲンカで……。
***
ビニール袋に入れたビスケットをめん棒を使ってガンガン叩き割る。粉々になったビスケットに、溶かしたバターを混ぜて焼き型に敷き、電気冷蔵庫(木製冷蔵庫ですらない家庭もあるというのに! つくづく錬金術師は贅沢だとミサは思っている)に入れて冷やし固める。ついでイチゴとイチゴジャムを包丁とすり鉢を使ってまぜてすりつぶしていく。小麦粉、たまご、さとうにクリームチーズにヨーグルト。親のかたきか? というふうにつぶしてまぜる。
(ぜったいぜったいぜったい食べさせてあげない!)
そんな大人げないことを想いながら、ミサはトワ特製レシピの一つ、イチゴのクリームチーズケーキを作っていた。
ミサはここに来るまで五年ほど検体をやっていた。初等教育しか受けていないミサがつける高収入の仕事なんてキツイ内容のものしかない。とにかくお金が必要で、ある意味身売りの検体をやっていた。
肩までの長さの髪をゆび先でいじる。
検体だったことを話していなければ、無断で薬を、害がないとわかっていても、飲ませはしなかっただろう。そう思うと、かなしくてくやしくて、腹がたつ。
出来上がったクリームを型に流し、オーブンで小一時間焼く。焼いている間に使った道具を片づけて、ついでに夕食を仕上げ(トワが下ごしらえはしているので、焼くだけ、煮るだけ、盛り付けるだけだ)お茶をいれて一息つく。
オーブンの横に置いた時計を見る。午後六時。ケーキは一晩冷やして明日のおやつだ。
チクタクチクタク。秒針がすすんで、長針がすすむ。
昼前に口ゲンカをしてから、イチヒトとは顔をあわせていない。
ため息ひとつ。
明日からの仕事が気まずくなるのはいやだ。
「わたしのが年上なんだし」
一歩下がって、言いすぎたと謝ろう。
ケーキが焼き上がるころには、そんな風に思えていた。
***
ずいぶん暗くなってきた。
ミサにすねられて(イチヒトはケンカしたと思っていない)少々口が悪くなってしまい、不機嫌なミサの扱いがわからず放置するように研究所をあとにした。
しばらくぶらぶらと辺りをさんぽして時間をつぶし、ぽかぽかと暖かい原っぱでうたた寝をして。気づいたら日は落ち、いっきに気温が下がっていた。
春の始め、夜はまだ冷える。
背中がゾクッとしてイチヒトは肩を震わせた。
早く帰って風呂に入って温もろう。そう思い、自然と足が早くなった。
それでも。
「暗くなるまで外で昼寝なんてするからですよ」
呆れたようなミサの声を聞くと、ふて腐れそうになる。
イチヒトは研究所にたどり着くころには悪寒は治まり、熱が上がりきっていた。
水を飲もうと、火照った顔でふらふらしながら台所に行くとミサがいて、ビックリした顔で手のひらを首すじにあてられたとおもったら、ベッドへ連行された。
頭には氷まくら、額には冷たい水でしぼったタオル。
部屋は適度に加湿され、まくら元には湯冷ましとパンがゆに、常備薬の熱冷まし。
「……。怒ってたんじゃないのか?」
「病人相手に根には持ちませんよ。それより食べれます? 薬飲んで、汗かいてるから着替えてください」
イチヒトは素直にうなずき、食べて薬も飲んだ。自身で調薬したものだから、効果は十分わかっている。
着替えるとき、ミサが手渡してきたタオルで汗をぬぐい、新しいシャツとパジャマを身につけた。
そのまま眠りたくもあったが、歯みがきせずにいるのは気持ちが悪くて、ふらつきながら洗面所に行った。
ミサはその間にシーツを交換していた。
新しいシーツの手触りが気持ちよくて、イチヒトは息をはく。
ベッドに横になったイチヒトに氷のうを置きなおし、ミサはイチヒトの首すじに触れる。
「動いたから、熱が上がってません?」
「そうか? ダルさは変わらん。君、手が冷たくて気持ちいいな」
「手が冷たいのは心が温かい人だそうですよ」
「それは初耳だ」
ミサはくすりと笑った。
「退室しますか?」
「…………寝つくまで」
ボソッと言われ、ミサはイスをベッド側に置く。
「いいですよ。病気の時くらいお姉さんが甘やかせてあげます。電気消しますよ」
電気が消され、代わりに小型のランプがともされる。
オイルをふくんだ芯が焼ける匂いがする。
「寝るんじゃないんですか?」
「本当に」と、イチヒトは答えではないことを話しだす「軽んじたわけじゃない。きみの前職はわすれてた。」
「…………」
「たぶん、きみの反応がみたかったんだろうな」
「は?」
ミサは目をぱちくりさせた。
「いままで僕がいた場所はきみのように感情豊かな人間はりいなかったし」
みな研究研究で淡々としていた。
「きみくらいの年齢の女もいなかったから。いや、じゃなくて、やっぱり見たかったんだ。きみの反応が」
「それって……媚薬飲んだわたしの反応が見たかったってことですか?」
「たぶん、そう……なのか?」
「聞かれても困ります」
十七歳。興味があるお年頃というものだろうか? 興味だけで対象にするのは迷惑なのでやめてほしいと、ミサは眉をしかめた。
「……汽車で……もたれかかって寝てたきみ、柔らかくて、かわいかった、から……」
「は?! ちょ、イチ……寝てるし……」
すやすやと寝息をたてはじめたイチヒトを唖然と見おろし、ミサはしばらく考えて『熱に浮かされて訳のわからない言い訳をしていた』ことにした。
翌日、すっかり熱が下がったイチヒトはまったくもって普段と変わりなかったので、本当に熱のせいでのたわ言だったのだろうとミサは結論づけた。
イチヒトが会話を覚えているかの確認は、怖くてしていない。
数日間、仕事中もプライベートも大変気まずかった。