暗闇の中で……。
極端に怖いの嫌いな方はスルーしてくださいませ。
消毒滅菌しおえた実験器具を定位置に仕舞っていく。
薬物棚の鍵、ガスの元栓、機械類の電源、窓。
「全部よし」
実験室を出て扉の施錠―― よし。研究所の施錠―― よし。
片付けと戸締りをしてミサの助手(イチヒトに言わせれば小間使い)の一日の仕事は終わる。
まだ夕方の五時を少し回ったところだが、真冬の今はもう夜だと言えるほど薄暗い。
その上寒い。
ミサは小走りで少し離れたところにある住いへ帰った。
薪ストーブで快適に暖められた室内に、濃厚なトマトソースの香りが漂っている。くんっと思わず鼻が動き、とたんにお腹が減ってきた。
研究所を先に出たイチヒトがストーブの上に置かれた鍋の中身を、焦げ付かないようにだろう、ゆっくりとかき混ぜている。
「戻りました。いい匂いですね」
「早く着替えて手を洗ってきてくれ」
君の分のパンも温めててやる。とイチヒト。
ヨダレをたらしそうな勢いのイチヒトに、ミサは五分で来ます。と言って二階の自室へと階段を上った。
夕食後はそれぞれ自室へ戻るより、食堂と続き部屋になっている談話室で過ごすことが多くなった。二人の仲が良くなったというより、単に自室より暖かいからだ。
ミサはトワに教えて貰った編み物を、イチヒトはたいがい首都から一日遅れで届く新聞を読んでいる。
浴室は一つしかないので、入る順番は毎日じゃん拳で決めて、その後はそれぞれ好きな時間に自室へ寝に行く。
二人して何かをすることはほとんどないが、所員としての共同生活は概ねうまくいっている。
そんなある日、ささやかな事件は起きた。
***
その日も夕食後、談話室で二人それぞれに過ごしていた。さて、そろそろ風呂のじゃん拳をという頃に、パチパチッと数回電気が瞬いて完全に消えた。
薪ストーブの灯りだけになった部屋で二人は顔を見合わせる。
「停電、ですね」
「どうみてもな。発電所を見てこよう。懐中電灯持ってついてきてくれ」
そう言って二人は寒くないようコートを着込み、外壁近くにある自家発電所に向かった。
研究所内の電気は自家発電で賄っている。電力をたくさん消費する研究を行ってはいないので、さほど大きな設備ではないが十分間に合っていた。
ただ。
「ここが発電設備が出来たのが二十年ほど前らしい。去年の夏にも配線が一部焼けて修繕したんだがな。本格的に手を入れないとダメかもしれんな」
「二十年前に自家発電って、当時じゃ最先端の技術だったんでしょうね」
「今じゃふた昔前だ。まあ、擬似生体発電の技術はまったく進歩してないから、いまだに最先端ではあるけどな」
「きじせいたいはつでん?」
「説明しても良いが?」
「遠慮しておきます」
きっとそれが賢明だ。
鉄柵で囲った発電所からは微かな稼働音が聞こえているが、発電量を示す測りはゼロをさしていた。
「ネズミかなにかが配線を齧ったのかもしれんな」イチヒトは柵の鍵を開けながら「どんなに技術が発展してもネズミの歯と鳥の巣と木の根には悩まされ続けるんだろうな」と、げんなりした顔をした。
発電所内は地下になっている。重い鉄の扉を開け、急な階段を下りて行く。
先に下に降りたイチヒトは、地下のかび臭さに鼻にしわをよせる。
ミサはスカートの裾を気にしつつイチヒトに続き、懐中電灯で足元を照らす。よくわからない機材だらけの小部屋を物珍しげに見て回る。
工具を並べて、イチヒトは寒いのを我慢して両足の靴と靴下を脱ぐ。左手と両足を使って工具を持ち操作盤の点検をしていく。右手が無い分のかわりなのか、足の指がやたら器用に動く。イチヒトは耳かきも出来るぞと、ちょっと得意げにミサに言った。
「応急処置にしかならんな。コイル部分を丸ごと交換しないと」
「部品の取り寄せってどれくらいかかりますかね?」
「さあ? 規格外の部品ではないから一ヶ月はかからんだろうが……。明日もう一度点検しよう」
指がかじかんでたまらんと、イチヒトは靴下を履く。
「戻ったら温かいも、あ」
「あ」
懐中電灯の電池が切れた。ぶんぶんと懐中電灯を振って叩いてするが、そんなことで電池が復活するわけもなく、地下は真っ暗闇になる。かろうじて機械の稼働ランプが数個あるが、明かりにはならない。
出入り口は寒いので閉めてしまっているので、外からの月明かりすらない。
「……見えます?」
「そんな目の機能はない。君、動くなよ」
「うぎゃ!」
「僕だ騒ぐな」
ひんやりとした手に肩を掴まれ叫んだミサに、イチヒトは坦々と言った。
「だいたいの方向はわかる。誘導するからついてこい」
「あなたを初めて頼もしいと感じました」
ミサは予想で暗闇に手を伸ばしイチヒトの腕を掴もうとして空振りした。
「そっちは右だ最初から無い。左腕は掴まられると動きにくい。上着を掴んでいたまえ」
言うと本当にぎゅっと掴まれた。
左手を壁について足を運ぶ。見えはしないがイチヒトは迷いなく、ミサは小股でビクビクと、だ。
突然イチヒトが立ち止ったため、ミサは彼の背中にむぎゅっとぶつかった。
「ど、どうしたんですか?」
「階段。先に上がって扉を開けてくるから待っていろ」
「なるべく早くお願いしますね」
「わかったから手を離せ動けん」
「……わたし、もう離してます、よ?」
しん……。
「ぅきゃあああ! なななんかいるの!」
「五月蝿い。耳が痛くなる。服が何かに引っかかっただけだろう」
「いいいイチヒトさん落ち着いて! 落ち着いたら落ち着きます!」
「君が落ち着け」
「ひゃぁ、んぐ」
イチヒトは左手でミサの口を塞ぎ、体ごと壁に押し付けた。
ミサは一瞬、別の意味でパニックになりかけた。
ミサの驚きは無視し。
「後ろは壁だ。前に居るのは僕だけだ。今から君から離れて階段を上って扉を開けに行く。君はここで待っていろ。いいな?」
こくこくと高速で頷くミサから離れ、階段を掛け上がる。一度踏み外しそうになったが無事に上まで着けた。
左肩を扉にあて体重をのせて勢いをつけて鉄の扉を開けた。
夜の淡い光が階段へ射し込み、下にいるミサもうっすらと見えた。
「……。おい早く来たまえ。扉が重くて閉まりそうだ」
言われ、ミサは慌てて階段を掛け上がった。と、同時にイチヒトは扉を閉め、鍵を掛けた。
鉄柵の鍵もしっかりと閉め、イチヒトたちは家に戻る。
「ああびっくりした。次からは扉につっかえ棒かなにかしておいたほうがいいですね」
「……。そうだな」
「あ。あれ? 灯りついた。電池切れじゃなかったの?」
備品も古いなら買い直しますか? と、ミサは気楽に言った。
イチヒトは。
「…………」
懐中電灯うんぬんよりも、暗闇の中から伸びていた白い手が、目の錯覚だったのかどうなのか気になっていた。
信じている訳ではないけれど、夜に修理に行くのは止めようとそっと誓った。