3 春の中庭、言えなかった想い
月曜日の空は、週末の大雨が嘘のように晴れ渡っていた。
雨に洗われた空気は、どこまでも澄んでいる。
錆ひとつない黒鉄で編まれた校門には、青白い古代文字が淡く浮き上がり、朝露の中きらめく。
校門に入ろうとして、アウラは思わず目を伏せた。校舎へと続く濡れた校庭の石畳が跳ね返す光は、どこか眩しすぎて。
教室の扉を前にしたまま、しばらく足を動かせなかった。その向こうにあるはずの日常が、遠く感じる。
それでも、引き返すことだけはできなくて。
もしかしたら、いつもと同じ彼がいるかもしれない。あの澄んだ瞳で笑ってくれるかもしれない。全部元通りに。全部悪い夢だったみたいに。
そんな希望にすがるように、アウラは深く息を吸って扉に手をかけた。
教室に入ると、カイエルの席をちらりと見る。彼はまだ来ていなかった。ほっとして、でも、わずかに胸のあたりがきゅっと鳴った。彼がいないことに、安堵と寂しさとが同時に押し寄せてくる。
ほっとしたのに、寂しい。
好きなのに、近づけない。
そんな矛盾ばかりを抱えてしまう自分が悲しかった。
「おはよう、アウラ!」
アウラの姿に、友人たちが駆け寄ってきた。
「ねえ、もう平気?」
「急に泣きだすから驚いたよ」
アウラは慌てて笑顔を作る。
「うん、ごめんね。心配かけて」
やっぱり、補習がこたえたみたい。
そんな苦しい言い訳を口にする笑顔の端が、少しだけ引きつった。
そのとき、後ろで扉が開く音がした。
「お、カイエル。おはよー」
聞こえた名前に、心臓がぎゅっと縮まる。顔を上げることができないまま、机の角を見つめて息を詰めた。
友人たちに挨拶を返す彼の声が、次第に近づいてくる。
そして、背中に彼の気配。
息をするのを忘れそうになる。
「おはよう、アウラ」
ゆっくりと振り返ると、そこには穏やかな笑顔。
けれど、その瞳には、あの春のせせらぎのようなやわらかな光がなかった。それはどこかに薄い靄がかかったようで――まるで、彼女を見ていないみたいに。
……やっぱり、同じ。
喉の奥がじわじわと熱を持って、声が出ない。返事をするのが遅れた。
「お、おはよう」
かろうじてそう返す。
カイエルは小さくうなずくと、アウラの横を通り過ぎて何事もなかったように席に着いた。
アウラはその背をただ見つめ、すぐに目を逸らす。
――正直迷惑だなって思うかも。
もう忘れてしまいたいのに、頭のなかで繰り返すあの声。
いつの間にか握りしめていた手を、ゆっくりとほどく。押しつぶされた指先が鈍く痛んだ。
きっと、今日もみんなにとってはいつも通りの朝。
でも、アウラだけが夜に取り残されたみたいだった。
彼の瞳を見た瞬間に、はっきりとわかってしまったから。
もう、あの距離には戻れないことが。
始業の鐘が聞こえる。
その音は、いつもより強く響いた。
終業の鐘が鳴り、教室はざわざわと騒ぎだす。カーテンが自らふわりと窓を覆うと、教科書はページを閉じて眠りにつき、羽ペンはインクを拭いて筆箱の中へと飛んでいく。
「ねえねえ。角のお店、透明マカロンの新作出たんだって。帰りに寄らない?」
「魔法史のレポート、提出期限短すぎ! これ絶対嫌がらせだろ!」
生徒たちは帰り支度をしながら、楽しそうに話している。
そんな放課後の空気のなかで、アウラは机にうつむいたまま開いた教科書を見つめていた。いくら紙を指でなぞっても、その文字はひとつだって目に入らないのに。
「おーい、アウラ!」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、ディオンが教室の入り口に立っていた。
いつもの明るい笑顔も、今日はどこか探るよう。その視線が彼女をじっと見ている。
「……どうしたの?」
アウラの掠れた声に、少しだけ眉を動かすディオン。友人たちが好奇心たっぷりに視線を向けるなか、彼は気にした様子もなく堂々と入ってきた。
「ちょっと、いい?」
返事をする前に机の軋む音がした。
視界の端にカイエルが立ち上がるのが見える。
彼はカバンを手に取ると、誰にも視線を向けずに出口へ向かう。
「あれ? カイエル、もう帰んの?」
ディオンはその背に気安く声をかける。カイエルが振り返らないまま足を止めたのを見て、少し口の端を上げた。
「じゃあさ、アウラ、ちょっと借りてくけどいいよな?」
振り返ったカイエルは、いつも通りの笑顔を浮かべているように見えた。
「あれ……? なんか急に寒くない?」
彼のすぐそばにいたクラスメイトたちが、ぶるりと体を震わせる。
「……どうして僕に?」
それだけを言い残して、彼は再び背を向ける。
アウラの指先が伸びかけて、でもそのまま下された。
彼の背中をただ見つめるアウラ。ディオンは、彼女の指先の動きに小さくため息をついた。
そこに、少しの苦さをにじませて。
沈黙のなか、廊下に響く足音は、思いのほか大きかった。
アウラは、隣を歩くディオンの横顔をちらりと盗み見る。
「ね、どうしたの? 突然……」
「んー……まあ、友情を守りにきた、って感じ?」
ディオンは彼女を見ずに、口元だけで笑った。
中庭に出ると、風がセレフィアの花びらを舞い上げた。
光に透ける薄紅と銀が、頬のあたりで揺れている。指で触れようとするとするりと逃げてしまうそれを、アウラはどこか遠い目で眺めた。
ディオンは、その横顔をしばらく見守って――ゆっくりと口を開く。
「なあ……あのとき、なんで泣いたんだ?」
アウラは、声のしたほうへと顔を向ける。その目はまっすぐにアウラを見ていた。
「なんでって……」
その目を見ていられなくて、アウラは視線を落とす。体の前で絡めた指先に、無意識に力が入った。
「ほら、あの……補習のこととか、いろいろあって……それで……」
しどろもどろで言い繕う彼女に、ディオンは苦く笑う。
「……カイエルのことだろ?」
心を見透かされた気がして、肩が小さく震える。
「どうして……」
「この前、おまえもカイエルも、なんかおかしかったからさ」
風が止み、言葉がよく響く。
「それに、おまえわかりやすいんだよ。いつもあいつのこと見てるだろ」
ディオンは視線を下げてちょっと笑う。その顔は、どこか寂しそうで。
彼はベンチに腰掛け、隣をぽんぽんと叩いた。でも、アウラは立ち尽くしたまま動けない。ディオンはあきらめたように腕を組むと、彼女を見上げた。
「……好きなんだろ? カイエルのこと」
一瞬ためらって、ゆっくりとうなずく。
「すき……だよ。でも……」
声が喉の奥で詰まる。たった二文字。なのに、音にすると、この想いは報われないことを思い知らされるみたいだった。
「でも……わたし、彼に迷惑だと思われてるかもしれない」
ディオンは組んだ腕を解くと、眉をひそめた。
「迷惑って……まさか、あいつがそう言ったのか?」
一瞬低くなった彼の声に、アウラは首を振る。
「違う……この前の授業のとき、魔法で『好き』って伝えちゃったの。……でも、カイエルは『何も聞こえなかった』って言うの。絶対、届いてたのに……」
言い終わる前に、アウラは空気を求めるようにひとつ息を吸った。ぎゅっと心臓を掴まれたように息が苦しい。呼吸の仕方さえわからなくなったみたいに。
「それに、その後からわたしを見てくれないの……ううん、見ているのに、見てない。笑っているのに、笑ってない。どこか、距離を感じるの……」
渡り廊下から、明るい笑い声が近づいてくる。目を向けると、数人の生徒がこちらに歩いてくるのが見えた。制服の首元には一年生であることを示す、緑のリボン。
そのうちのひとりが中庭にいるアウラたちに気づいたのか、視線を向ける。
アウラは思わず顔を背けた。
こんな顔、見られたくない。
きっと、泣きそうな顔をしているに違いないから。
すると、ぐいと腕を引かれ、ディオンの横にぽすんと座らされた。
「これなら顔、見られないだろ?」
ディオンはすぐに腕を離すと、アウラを見ずに言う。
「うん……ありがとう」
ふたりの間に沈黙が落ちる。
ディオンの制服の上に、ひらりと一枚の花びらが舞い降りた。彼はそれを指先でつまむと、ひょいと空に掲げる。
「カイエルがどう思ってるかなんて、俺にはわからないけどさ」
片目を細めながら、透ける花びらの向こうに空を見る。
「このままで、おまえはいいわけ?」
うつむくアウラの瞳が揺れた。
「そんなの、わからないよ……これ以上気持ちを伝えて、本当に嫌われたらどうしようって、怖くて。そればっかりで……」
アウラの手がスカートをぎゅっと握る。彼女の心を写したみたいに、しわの寄った布が細かく震えていた。
「なぁ、アウラ」
ディオンは花びらから目を外すと、顔を伏せた。
「……後悔する前に、ちゃんと伝えろよ。おまえの『好き』は、そんなもんで終わるような気持ちじゃないんだろ?」
アウラに向き直る。
「だから、そんなに悩んでるんだろ? 泣くくらいにさ」
そう言って、ディオンは持ってた花びらを差し出す。アウラが思わず両手を出すと、それはひらりと彼女の手のなかに落とされた。
「逃げんなよ。おまえは、ちゃんと好きでいろ」
アウラは、手のなかの花びらを見つめる。透き通った、薄紅と銀の光が眩しかった。
「……こわいよ」
「そんなこと知ってるよ。でも、このままでいるほうがもっと怖いだろ?」
涙がこぼれそうになる。アウラはぎゅっと唇を噛んだ。
何回か深呼吸して、やっと口を開く。
「わたし、どうしたら……」
「ちゃんと伝えろよ。全部じゃなくていいから」
「全部じゃ、なくていい?」
「うん。一言だけでもいいよ。それが、おまえの本当の気持ちなら」
彼はまっすぐに、アウラを見つめた。
「うまくいかなくてもいい。返事が怖くてもいい。俺がここまで引っぱったんだから、一言くらいなら、きっと伝えられる」
アウラは小さく息を吸った。
震えていた心に灯るのは、小さな勇気。
「……ありがとう、ディオン」
そう言ったとき。
彼がふと視線をそらしたのがわかった。
「……礼なんかいらないよ」
「え?」
「だって俺は……」
ディオンは笑う。
「おまえがちゃんと好きでいられるように、背中を押しただけだから」
「……うん。でも、ありがとう」
アウラが目を伏せると――
ぴしっ。
ディオンの指が、乾いた音を立てて彼女の額を打った。
「いたっ! なんで……」
「情けない顔すんな。おまえ、これから補習だろ」
ディオンは立ち上がって、にやりと笑う。
「いつもの能天気さで、さっさと合格しろよ」
「……うん」
アウラは赤くなった額を押さえたまま、それでもしっかりと頷いた。
セレフィアの花びらを握りしめて。
アウラが校舎へと走っていく。
その背中が消えるまで、ディオンは黙って見送った。
そして、息をつく。
アウラの魔力が暴れそうになった、あの日。
俺も思わず立ち上がってた。でも――手を貸したのは、隣の席のカイエルだった。
よかった、と思った。
あのときは、ただ不器用な子だとしか思わなかった。
でも、おまえは、泣きそうなのをこらえて、魔法がうまくいかないたびに唇を噛んで……それでも、誰にも見せないように笑ってた。
好きにならないわけ、なかったんだ。
でも、となりにいたのは、いつもカイエルで。
あいつはいつも感情を抑えてる。
それでもあいつの目を見れば分かった。
俺と同じだったから。
アウラのことが好きでしかたないって、目。
それに――アウラの目も、あいつと同じだった。
そのときからわかってた。もうこの気持ちは報われないって。
俺が隣の席だったら、なにか違ってたのかな。
そんなこと、わかるわけないのに。
……たぶんそんなこと思ってる時点で、もう負けなんだろうな。
結局、おまえには何も伝えられなかった。
勇気がないのは、俺も同じだ。
でも、背中を押すくらいは、してやりたかった。
おまえが、ちゃんと“好き”でいられるように。
泣きそうな顔で、立ち止まらないように。
それくらいの魔法なら……俺にだって、できるから。
空を仰いだ。穏やかなはずの春の太陽が、容赦なく目を刺す。
涙が出そうだった。
……きっと、眩しさのせいだ。
ぎゅっと目を閉じる。
どうにもならないとわかっていても、胸は痛んだ。
「……あーあ、あのふたり、うまくいかないといいのにな!」
春の空に向かって叫ぶように言って、そのままディオンは両手で顔を覆った。
春の風が通り抜ける。
セレフィアの花びらが一枚、彼のまわりを舞った。




