2 春の放課後、すれ違うふたり
はじめの練習のあと、アウラはすっかり調子を崩してしまった。ペアを変えても、誰と向き合っても、心がうまく定まらない。
結局、残りの二回も失敗して、補習が決定。
先生の「また月曜日の放課後に来てくださいね」の声がやけに優しくて、それがかえって彼女の胸に刺さった。
教室の中には、まだ合同授業の余韻が漂っていた。
窓の外では春の陽が傾きはじめ、光が机の上でゆらゆらと揺れている。
去年、同じクラスだった数人の生徒が、名残惜しそうに話しながら杖を片づけていた。
アウラは椅子に座ったまま、杖を握りしめていた。
指先には、まだ微かに魔力の熱が残っている。
胸の奥では、あの言葉――「何も、聞こえなかった」が、何度も繰り返し響いていた。
どうして……?
どうしてあのとき、聞こえないふりをしたの?
「アウラ、補習になっちゃったんだって?」
明るい声に振り向くと、笑顔の友人たち。
「まあ、アウラらしいよね。伝達魔法苦手って言ってたし」
「ほら、元気出して。練習付き合うから」
杖を置き、アウラは無理に笑ってみせる。
笑顔の奥では、ざらつきを抱えて。
「うん……ありがとう」
かすれた、小さな声しか出なかった。そんな彼女に、友人たちは心配そうに顔を見合わせる。
「おーい、アウラ!」
教室の奥から、ひときわ明るい声が響く。
数人の生徒たちとともに、笑顔のディオンがいた。
「校庭のセレフィアが満開だろ? 放課後、花見しようって話になってるんだ。週末雨降るらしいから、今のうちに見ておこうって」
ディオンは軽く手を振って、アウラの方へ笑いかけた。
「アウラたちも来るよな?」
人気者のディオンに声をかけられて、周りの女子生徒たちが「いいね!」と盛り上がる。
「楽しそう! もちろん行く!」
「アウラも行こ! きっと気分も晴れるよ!」
「えっ、あ、うん……そうだね」
アウラは笑顔を作る。でも、心はまだ教室の中に置き去りのまま。
無意識に、友人たちの向こうにカイエルの姿を探す。
その背中に何か言葉をかけられたら、と思ったから。
カイエルは、席でノートをまとめていた。
いつもと変わらない、穏やかな横顔。
けれど、アウラには彼が遠くにいるように感じられた。
その姿に、ちくりと胸が痛む。
それでも勇気を出して、声をかけた。
「……ね、カイエルも行かない?」
ペンを動かしていた、カイエルの手が止まる。
アウラと目が合った。
一瞬だけ、何かを言いかけたようにその唇が動く。
けれど、彼はすぐに視線を落とした。
「……僕はいいよ。今日の授業の復習をしたいから」
いつもと同じ、優しい声だった。なのに、そのやわらかさの奥に、どこか距離を感じてしまう。
「え、でも……」
アウラが言いかけたときには、カイエルはもう立ち上がっていた。そのまま机のあいだをすり抜けて、ドアへと向かっていく。
彼がドアを開けると、風とともにぼやけた光が入り込んで、アウラの足元へと忍び寄る。
「カイエル……」
ぎゅっとスカートを握る。
名前を呼んだ声は、誰にも届かないほど小さかった。
指先が冷えていく。
握りしめた手の中には、春の光は届かない。
小さな音を立てて、ドアは閉まった。
少し離れた廊下の奥――
賑やかな声に、カイエルは足を止めて振り返った。
友人たちと教室を出ていくアウラが見える。
そして、その横にはディオン。
ふたりが顔を見合わせて笑った。
その姿にずきりと胸が痛んで、カイエルは目を逸らす。
重い足を引きずるようにして校舎を出る。
晴れた空の向こうに、灰色の雲が見えた。
あの「好き」が響いた瞬間、胸が高鳴った。
でも、すぐにそれが自分に向けた想いではないと気づいた。
ほんの一瞬でも期待してしまったことが、滑稽に思える。
あの魔法は、どれだけ正確に唱えても、想いが強すぎれば言葉になって届いてしまう。
彼女の心があふれたのは、ただ、僕よりも素直だったから。
授業の前、教室の片隅で、彼女は友人たちに囲まれていた。
「それはない! 全然ない!」
笑い声に混じって、アウラの声が聞こえてきた。
「去年、同じクラスだっただけだから!」
彼女は真っ赤な顔で手を振っていた。
まるで、焦るように。
否定する言葉と裏腹に、真っ赤に染まる耳。そのせいで余計にからかわれていた。
その姿を、可愛いと思った。
だけど、それと同じくらい胸の奥がざわついた。
そして、詠唱の最中。
彼女の瞳に映っていたのはディオンだった。
あの「好き」は、彼に向けた言葉だった。
彼女の心に触れたのは、僕ではなかった。
そう気づいたとき、喉の奥に何かがつかえたみたいに苦しくて、それを吐き出したかった。
だから、言ってしまった。
──何も、聞こえなかった、って。
格好悪いことは分かってる。情けないって思ってる。
でも、どうしても受け入れられなかった。
アウラと初めて話したのは、魔法制御の授業だった。
隣の席で杖を握る、彼女の手が震えていた。このままでは魔力が暴れそうだったから、思わず声をかけた。
僕を見て小さくうなずくその瞳が、なぜか気になった。
はじめはただの興味だった。
なのに、くるくると変わる表情、髪を耳にかけるくせ、緊張して杖を握る指先、魔法に向き合うときのまっすぐな瞳。そのひとつひとつが目に焼き付いたように離れなくなった。
気づけば、いつでもその笑顔を探すようになっていた。
彼女が笑うと、魔法みたいに空気がやさしくなる。この世界が、ほんの少し呼吸しやすくなる。
そんなふうに感じている自分に気づいて、少し怖かった。
けれど、目をそらすことができなかった。
アウラは、不器用なところもある。
でも、失敗しても、笑われても、諦めない。
できないところも、苦手なところも、全部さらけ出したまま、まっすぐに杖を構えて、「もう一度」と笑う。
間違わないように。期待を裏切らないように。
「何でもそつなくこなす優等生」でいれば、誰にも失望されずにすむと思っていた。
だから、本音を隠すことにもすっかり慣れていた。
でも彼女は、違った。
あんなふうに、心のままに生きられたら。人の目ばかり気にせずに、ただ自分のために何かを選べたなら。
少しだけ自由になれるのかもしれない。
そう思ったとき、気づいた。
彼女に憧れていたことに。
彼女に恋していたことに。
カイエルは手を胸に当て、そのまま強く握りしめる。
彼女の杖から放たれた、あの温かい光。
――あの温度こそ、彼女の想いの証。
あのとき、名前を呼ばなければよかった。
彼女を動揺させなければ、きっと当たり障りのない言葉が届いたのだろう。
今も、きっと隣で笑い合えたのだろう。
でも、ディオンを見つめる彼女を、どうしても見ていられなかった。
ただ、僕だけを見てほしかった。
それだけだったのに。
力を失ったように、握った指先を解く。
風が、ほんのりと花の香りを混ぜて流れてきた。
しばらくその香りに包まれて、ようやくそれがセレフィアだと気づく。
その場から動けないまま、カイエルは揺れる木々に目を向けた。
あの花の下で、彼女は今笑っているのだろうか。僕の立ち入ることのできない場所で。
彼の横で……
カイエルは強くまぶたを閉じた。
暗闇のなかで繰り返す。
この気持ちは閉ざさなければいけない。
何も感じていないふりをすれば元に戻せる。
これまでも、ずっとそうしてきたのだから。
ゆっくりとまぶたを上げ、ただ前を向く。
冷たい濁りが、水色の瞳に差していた。
まるで、青空に雨雲がかかったかのように。
風に運ばれて、透明な花びらがひらひらと舞い落ちる。
彼の視線をかすめた瞬間、それは白く凍りつき、ぽたりと地に落ちた。
午後の光が傾きかけた学校の裏庭。
満開のセレフィアの木々からは、風が吹くたびに薄紅と銀の花びらが舞い散る。
アウラたちは木の下に集まり、敷物の上に座って昼下がりの話に花を咲かせていた。
「……ああ、それであの子、泣いてたんだ」
恋の話で盛り上がる女子たち。
男子生徒たちも少し離れたところで、興味ありげに聞き耳を立てている。
「そうなの。けっこう本気だったみたいだけど。結局、振られちゃったんだって」
「まぁ、告白するってそういうことだよね」
「でも、『好きになれる気がしない』なんて酷くない?」
ふわりと髪に優しく触れる花びら。でも、彼女たちは話に夢中で気づかない。
「優しくしたらしたで、期待させちゃうんだよ。だから、はっきり言ったんでしょ」
「そうそう。それに、わたしだったらなんとも思ってない人から告白されるの、正直迷惑だなって思うかも」
アウラは小さく肩を震わせる。
──迷惑。
その言葉だけが、耳の奥に貼りついたみたいだった。
弾ける友人たちの声が、次第に遠くなっていく。
「……まあ、言われたら困るかもな」
「でも、そんな言い方されたら傷つくだろ」
「優しくしても誤解されるし、難しいよな」
男子たちの軽い声が混ざって、場の空気が少し柔らぐ。
けれど、アウラの耳には届かない。
カイエルも、迷惑……だと思ったのかな。
いきなり“好き”なんて聞こえてきたら……
風が強く吹き抜け、セレフィアの花が一斉に舞い上がる。
皆が空を見上げて歓声を上げるなか、アウラだけは膝の上に落ちた花びらを見つめていた。
「アウラ……?」
友人の呼ぶ声に顔を上げる。
「なんだ、花びらかぁ。びっくりした。泣いてるのかと思ったよ」
頬に手を当てると、ひとひらの花が触れた。
指でそっとつまみ上げる。
透ける銀と薄紅の色が、あの日のカイエルを思い出させた。
あの優しい瞳に、わたしはもう映らないのかな……
胸の奥がじんと熱くなって、気づけば、涙が頬を伝う。
「えっ、アウラ!」
「なんで? どうしたの?!」
友人たちが慌ててハンカチを差し出す。
「ううん、なんでもない……」
アウラは笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
その少し離れた場所で、ディオンはただ彼女を見ていた。
春の風が、彼の髪を乱すのも構わずに。




