鳴神様とお粥①
伊勢辰馬は、インフルエンザに罹ったことがない。
学級閉鎖になっても、家族がダウンしても。
不思議と一人、けろっとしていた。
理由はわからない。昔からそうだ。
歯磨きを怠っても虫歯にはならなかったし、夜更かしをしても肌あれとは無縁だった。
おそらくだが──
「ずぴっ……どうして神であるワシが風邪になって、お主がピンピンしておるのじゃ!」
俺の身体は、人よりも頑丈にできているのだろう。
「さぁ?生まれつきですかね」
もっとも、この体質で得をした覚えはほとんどない。
むしろ、看病する側に回るだけで、損をしているような気さえしていた。
「汗かいたのに、すぐにお風呂入らないからこうなるんですよ?」
冷房直当たりで腹を出して寝たら、風邪をひかないわけがない。
それにしても、大袈裟な反応だ。
苦痛や倦怠感に耐性がないのは、強者ゆえの弊害なのだろうか。
「ずぴっ……ここまできついのは大百足の毒にあたって以来じゃの」
「大百足って……あの、紙芝居の?」
小学校の読み聞かせで何度も聞いた、郷土民話。
鳴神山地に棲みついた人喰いの大百足を、嵐と共に現れた黒き龍が討った──そんな話だったはずだ。
「確か、毒で弱ってしまったところを人々に助けられて、土地の守り神になったんでしたよね?」
「ん?なんじゃそれは……ずぴっ。
確かにきっつい毒ではあったが、人の手など借りた覚えはないの」
「ああ……そうですか」
紙芝居なのだから、脚色があるのは当然だ。
それでも、幼い頃から信じていた物語が嘘だったと知るのは、少しだけ胸にくる。
「むしろ毒で飯が食えんワシの前で、三日三晩宴を開きおっての。
そのときは元気になったらどうやって殺そうか、毎晩考えておったわ。カッカッカッ!」
「よく実行に移さなかったですね……」
「天道の者が間に入っての。気づけば和解の流れになっておった。今考えても不思議な話じゃ」
三笠さんのご先祖様……。
確かに、鳴神様ぐらいであれば、手のひらのうえで転がせそうだ。
「それじゃあ、うちのご先祖様が迷惑かけたお詫びに、美味しいお粥を作ってきますよ。
少し待っていてください」
「ずぴっ……むっ、待て。
ワシを置いていこうとするでない。こんなところに一人は嫌じゃ!」
「こんなところって……一番いい部屋占領しといてなに言ってるんですか。
ほら、離してください!これじゃ、お粥作れませんよ!」
袖口の力が僅かに弱まる。
どうやらお粥は食べたいらしい。
「それは嫌じゃ……作れ……」
「なら、離してください」
「それも嫌じゃ……負ぶれ……」
「えぇ……」
いつもは傲慢といった具合だったが、今日はどうにも我儘だ。
鳴神様が風邪で幼児後退──氏子が聞いたら泣くに違いない。
「神様のプライドはどこに行ったんですか?」
「知らん。そんなものは。
ワシが今思うこと、それがすべてじゃ!」
「刹那主義すぎませんか……
はぁ……わかりました、鼻水はつけないでくださいね」
途端、気怠げな態度が嘘だったかのように、機敏な動きで背中にのし掛かった。
──重い。そして、少し柔らかい。
ほんのりと赤らむ小麦色の肌、荒い息づかい。
そして背中に当たるささやかな感触が、余計な妄想を掻き立ててくる。
「もう少しゆっくり歩け。気持ち悪いのぅ……ずぴっ」
だが、これに欲情するのは何故か負けた気がする。
なので、別の話題を探すことにした。
「そういえば、大百足と戦う前ってどこにいたんですか?」
揺らしていた脚が、わずかに止まった。
「どこ、とな?」
「ほら。民話だと、嵐と一緒に、どこからか現れたじゃないですか」
「ふむ……」
鳴神様は天井を見上げ、しばし考える素振りを見せる。
「従属と共に、あちこち旅をしておったの」
「従属?」
「ワシに仕える眷属じゃ。
今でいうところのペットのようなもんかの。
役目は様々じゃたが、暇さえあれば連れ回しておった」
「……ずいぶん自由ですね」
「神とはそういうものじゃ……ずぴっ。
土地に縛られる前は、気の向くままに空を渡り、山を越え、海を眺めておったの」
少しだけ、声の調子が懐かしむように柔らぐ。
「大百足と相対したのも、その旅の途中じゃ。
厄介な毒での……そのまま、この地に根を下ろす羽目になった」
「なるほど……」
神話の定住には、そんな裏事情があったらしい。
「そう言えば」
鳴神様は、再び脚を揺らしながら続ける。
「ワシが風邪をひいておる間、邪鬼討伐のために従属の一人を呼んでおいたぞ」
「……え?」
「何じゃ、その顔は。
主が動けぬ時、代わりに働くのが従属の役目じゃろうて」
「いや、さらっと言ってますけど……
それ、つまり今もこの辺にいるってことですよね?」
「おるぞ。すぐそこにの」
──リビングから、嫌に食欲を刺激する匂いが届いてきた。
「……ちなみに、その“従属”って、危険じゃないですよね」
「邪鬼よりは幾分か理知的じゃ。
少なくとも、意味もなく人を害したりはせん」
意味があれば別と聞こえた気がしたが、今は触れないでおくことにした。




