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1.婚約破棄されるまでのこと

 伯爵令嬢サーヴァルミア・ディースクライムは冷遇されていた。

 

 雨季の曇り空を思わせる暗いグレーの髪に、泉の底を思わせる濃い青の瞳。その顔立ちは整っているが、その表情にはいつもどこか影がある。サーヴァルミアは曇りの日の明かりをつけていない部屋のような、どこか薄暗い令嬢だった。

 

 外見が地味なばかりでなく、能力的にもこれといって際立った特徴がなかった。頭の良さは並程度。運動もできる方ではない。魔力は平民より高いものの、貴族としては並よりやや下と言ったところだ。

 3つ年上の姉、メイナルミアは違った。陽光の下に咲きほこる花のように鮮やかな金の髪。凛と輝く瞳は、晴天の空のような水色。学問に秀で魔力も高く、人を惹きつけるカリスマを持っている。

 姉のメイナルミアをにぎやかな真昼の太陽の下の市場とするなら、サーヴァルミアは人通りの絶えた月下の街。対照的な姉妹だった。光が強ければ影も濃くなるように、メイナルミアが評判を高めるほどサーヴァルミアの地味さが際立つ。

 

 才気あふれるメイナルミアに魅せられた両親は、サーヴァルミアの地味な外見と無才ぶりに失望し、早々に見限った。

 サーヴァルミアに課せられたのは、姉の足手まといにならないだけの能力を身に着けることだった。そのために朝から晩まで勉学に励むことを強いられた。怠けると厳しく折檻された。凡人であるサーヴァルミアは、そのくらい頑張らなければ優秀すぎるアルレメニアの妹を名乗ることすらできなかったのだ。

 

「いつも頑張っていて偉いわ! サーヴァルミアは自慢の妹よ!」


 姉のメイナルミアはいつも明るくサーヴァルミアに接してきた。

 妹は頑張り屋で勉強熱心。両親もそんな妹の頑張りを熱心に支えている。そんな風に考えている。メイナルミアはどこでも主役で、誰からも祝福されている。だから自分の身近に不幸があるなんて思いもしないのだろう。

 

 メイナルミアから頑張り屋と褒められても、サーヴァルミアはまるで嬉しくなかった。姉は頑張らなくても常に高い成果を出しているからだ。

 何日もかけて理解した数式を、メイナルミアはわずかな時間で原理まで理解して応用までこなす。何度も書き取りしてようやく覚えた王国の歴史を、メイナルミアはおとぎ話でも語るようにすらすらとそらんじて、その時代の文化について深い見識を示す。サーヴァルミアでは発動すら困難な高度な魔法を、メイナルミアは軽々と放つことができる。


 サーヴァルミアから見て、メイナルミアは才能の塊だった。この姉の躍進を阻まず、家のために生きること。それこそが自分の存在意義だと、サーヴァルミアは諦念と共に受け入れていた。

 15歳になり、貴族の学園に入学する時。サーヴァルミアの選んだが魔法の専攻は「支援魔法」だった。自分は主役になって前に立つことなどできない。そのことを受け入れた彼女にとって、後方から前に立つ者を支える支援魔法以外、選ぶことなどできなかった。

 

 サーヴァルミアが学園に入学して1年ほど経った頃に縁談が組まれた。

 婚約相手は子爵子息アムレング・カルダスタン。下位の貴族への嫁入という形になった。それはカルダスタン子爵家の属する派閥に属するための政略結婚だった。

 

 王国西部には広大な沼沢地がある。これまで開拓が困難なため誰も手を付けていな土地だった。だが近年、土魔法と水魔法を応用した地質改善技術が確立され、沼沢地の利活用も可能となった。使い物にならった王国西部は、一転して価値ある土地となった。

 王国西部の開拓に名乗りを上げたのはピオネアール侯爵家は、王家の認可を受けて王国西部を開拓を主導することとなった。

 婚約者のアムレングの家、カルダスタン子爵家は、このピオネアール侯爵家の派閥に属している。サーヴァルミアの婚約は、王国西部の開拓事業に関わるための第一歩として結ばれたものだ。




「これは両家の繁栄のために必要な婚姻だ。貴族令嬢としての節度を守り、私に迷惑をかけないようにしてくれ」

「はい、承知しております」

 

 婚約して初めての二人きりの会話は、そんな寒々とした言葉から始まった。

 子爵子息アムレング・カルダスタン。きちんと整えられたブロンドの髪に、切れ長の目。瞳の色は鮮やかな緑。学業に優れ、魔法の技術に関しては学園でも上位にある俊英だ。


 その優秀さゆえか、アムレングはこの婚約を不満に思っているようだった。普通なら高位貴族の令嬢を嫁とすることは家の躍進につながる慶事だ。しかしディースクライム伯爵家で、名が知れているのは姉のメイナルミアだけだ。伯爵家の日陰者をあてがわれたことは、彼のプライドをひどく傷つけたようだった。

 そのことがなくても、好かれることは難しいだろうとサーヴァルミアは自覚していた。暗いグレーの髪に冷めた青の瞳。生気の感じられない白い肌。ただ努力だけを強いられたサーヴァルミアは、常に薄暗い空気を纏っている。そんな令嬢を気にいる物好きなど滅多にいない。

 

 婚姻を確かなものとするために、貴族令嬢は婚約者を愛する努力をしなければならない。貴族令嬢の義務は、しかし、サーヴァルミアにとっては難題だった。

 彼女がこれまで与えられたものは、両親の厳しい教育と、姉の一方的な親しみだけ。愛するということが、彼女にはよくわからなかった。

 

 週に一度のお茶会で、アムレングがいつも退屈そうにしているのは当然と思った。

 彼が他の令嬢と親しくしているのを見かけても仕方ないことだと受け入れた。

 サーヴァルミアは耐えるということに慣れ過ぎていた。家を出ても何も変わらない。耐え忍ぶ生活が続くだけのこと。サーヴァルミアはそんな風に諦めていた。

 

 そうして一年ほど過ぎたころ、姉のメイナルミアの婚約が決まった。婚約相手は伯爵子息リトナーフ・グーファミル。ピオネアール侯爵家の派閥に属する有力貴族の一人だ。姉の婚約が本命であり、サーヴァルミアの婚約はそのための前座に過ぎなかった。

 

 もはや役目を果たし終えた、冷めきった婚約関係。それでも一度かわした貴族同士の婚約が終わるわけではない。

 アムレングは他の令嬢と懇意にしていると噂に聞くが、遊び程度で深い仲になることはないようだった。色香に負けて破談となれば、貴族にとって恥となる。彼もそのことはわきまえているようだった。

 いずれにせよ、サーヴァルミアの生活は変わらない。学園の授業について行けるよう、日々の多くの時間を勉学にあてた。学園の成績は常に両親が確認している。成績を落とせば厳しい折檻を受けることになる。

 婚約者ができて変わったことと言えば、結婚後に備えて貴族社会の勉強をする時間が増えたことだった。

 

 そんな学園生活のある夜のこと。サーヴァルミアは学園寮の自室でいつものように貴族社会の情勢の把握に励んでいた。

 王国西部の開拓開始の影響でどの貴族も大きく動いている。開拓を主導するピオネアール侯爵家の派閥に属する貴族はもちろん、別派閥の貴族たちの動きもある。開拓事業をけん制したり、あるいはおこぼれにあずかろうと画策するなど、活発に動いている。こうした情報を知らなければ貴族社会に出てから失敗する。夜会や晩餐会のふるまい一つ間違えて大きな損害を受けることもあるのが貴族社会だ。

 

 姉ならば持ち前のカリスマと才覚で上手く立ち回るだろうが、サーヴァルミアは地道に粘り強く学び続けるしかない。

 そうして情報を整理するうちにサーヴァルミアが気づいたのは、自分の婚約が、現時点でもなお重要なものだということだった。

 姉の婚約によって役目を終えたと思われた婚約だが、それでも貴族の婚約は重い。例えば婚約者のアムレングが他の令嬢と深い関係となり、サーヴァルミアとの婚約を解消したらどうなるか。


 下位貴族の婚約者すら引き留められなかっことは貴族として瑕疵となる。ディースクライム伯爵家は、ピオネアール侯爵家の派閥内での地位を落とすことになる。それは王国西部の開拓事業における利益を落とすことにつながる。

 ディースクライム伯爵家は開拓事業に力を入れている。人員や資材の確保のため、既にかなりの資金をつぎ込んでいる。もしこの事業に失敗すれば、家の浮沈に関わる。両親は苦しむことだろう。メイナルミアも悲しむことだろう。貴族令嬢として、そんな事態は避けなければならない。

 頭ではそう理解している。しかしサーヴァルミアの心は、別の可能性を見出した。


「……それは、どんなに素敵なことでしょう」


 そんな言葉が口からこぼれ出た。サーヴァルミアは慌てて口元を押さえた。

 学園寮の自室には彼女一人きりだ。小さなつぶやきが誰かに聞かれることはまずあり得ない。それでも口を押さえずにはいられない。聞かれるわけにはいかない。なにより見られるわけにはいかない。こんなことを口にして、口元が笑みに歪むなんて。

 

 両親から苦労と忍耐を強いられ、姉からは一方的な親しみを向けられた。ずっと踏みにじられてきた。耐えることを当たり前にされてきた。それなのに、憎しみを持つことはなかった。

 それは戦う術がなかったからだ。両親の厳しい教育と躾けが、そして姉の才能の輝きが、彼女の牙を折ったのだ。

 しかし今、彼女の手には伯爵家を滅ぼし得る毒薬がある。それは自分すら殺すことになりかねない。それでもなお、あまりに甘美なものに思えた。


「そうか。わたしも怒ることができるんだ……」


 サーヴァルミアの頬を涙が伝った。それがどんな種類の涙であるか、彼女自身にもわからなかった。




 サーヴァルミアは自分の婚約を破綻させ、ディースクラム伯爵家に復讐すると心に決めた。しかし伯爵家と心中するつもりはない。婚約の破綻が確定した時点で修道院に入り、難を逃れるつもりだった。

 

 目標は明確となった。しかしその実現は困難なものだった。

 婚約者アムレングはこの婚約に不満を持っている。他の令嬢と遊びで付き合ってもいる。それでも彼は成績優秀な子爵家の嫡男であり、この婚約の重要性を深く理解している。サーヴァルミアのことが気に入らなくても、それだけで貴族の義務を放棄するような人物ではない。

 

 婚約が破綻するには、どちらかに明確な瑕疵が見つかるか、あるいは感情的な仲たがいが必要だ。現時点で両者にこれといった瑕疵はない。感情的な仲たがいも何も、最初から冷たい婚約関係だ。

 既にアムレングには嫌われている。この状態から更に嫌われて、アムレングが婚約を放棄するにまでに至らせるのは困難だ。

 そもそも嫌われるのが上手くいったとしても、婚約解消される程度で終わるだろう。下位の貴族から婚約解消を持ちかけられるのはそれなりに恥ではあるが、派閥内の地位を落とすほどのことにはならない。

 

 もっと決定的で致命的な破綻が必要だ。たとえば恋愛ものの舞台で行われるように、公衆の面前で一方的に婚約破棄を告げられるような、そういう取り返しのつかない破綻でなければならない。

 普通の手段ではとてもそこまではいかないだろう。何か特殊な手段が必要だ。

 アムレングをもっと前に進ませなければならない。がけっぷちが見えても止まれなくなるように、暴走させなくてはならない。そのための手段がサーヴァルミアにはあった。彼女が専攻しているのは、他の誰かの歩みを助ける魔法。支援魔法なのだ。




「これが例の魔道具か?」

「はい、そうです」


 学園の食堂に設けられた一席。婚約者との定期的な義務のお茶会。サーヴァルミアが渡したリングを、婚約者のアムレングはしげしげと眺めた。

 

「それにしても、『状態通知』でお互いの理解を深めようとは、おかしなことを考えたものだな……」

「恥ずかしながら、わたしは勉強ばかりしていて、殿方とのお付き合いというものがよくわかりません。そこで専攻している支援魔法に関連した何かで、よりよい婚約関係を築けない物かと愚考しておりました」


 そう言いながら、サーヴァルミアは用意していたもう一つの『状態通知』のリングを自分の指に着けた。


「先日もお伝えしたように、このリングは高ランクの冒険者パーティーが使用するものです。これで仲間の状態を把握することで、支援術師はより効果的なサポートができます。使い方は簡単です。リングを着けた相手に魔力探知をするだけです。アムレング様、わたしの状態は分かりますか?」


 そう問われ、アムレングはサーヴァルミアに魔力探知を行った。

 

「……なるほど。リングを通して君の現在の体力や魔力の残量が分かる。むっ、少々体温が高いな。脈拍も早くなっているようだ。風邪でも引いているのか?」

「いいえ、体調に問題はありません。やはり殿方に見つめられるのは緊張するものですね。それでは、アムレング様もつけてくださいますか?」

「うむ……」


 アムレングは逡巡した。自分の情報を開示すると言うのは誰でも抵抗があるものだ。しかし令嬢のことを一方的に見つめ、自分はそれを拒否するのは不作法なことだ。気位の高いアムレングはそうしたことを許容しない。

 アムレングはリングがリングをつけると、サーヴァルミアは断りを入れた上で魔力探知を使った。


「……アムレング様はすこし体力が減っていますね。状態異常に『睡眠不足』と出ています。昨晩は遅くまで起きていられたのですか?」

「ああ、魔法学の復習がきりのいいところまで終わらず、すこし無理をしてしまった。……ずいぶんと細かいところまでわかるものだな」

「私は支援魔法を専攻していますから……でも、一般の支援術師ではここまで詳細に把握できませんし、その必要もありません。本来戦闘時に使うものを平時の環境で使ったこと。互いに魔法を学ぶ貴族であること。それらのことで、ここまで細かなことがわかるのです」

「ふむ、おもしろいな……」


 アムレングは興味深げにリングを眺めた。

 しかしそれもしばらくの間のこと。アムレングは結局、リングを外し、サーヴァルミアへと返した。

 

「……だが、心を覗き見られるようで面白くない。こんなもので婚約者との関係を深められるとは思えない」

「これは失礼いたしました」


 サーヴァルミアはそそくさとリングをしまった。

 義務のお茶会。いつもはもっと会話は少なく、その話題もあたりさわりないものだ。普段ならサーヴァルミアから何か話題をもちかけても、アムレングが興味を持つことはない。

 だがアムレングは魔法学に精通している。こうした魔道具なら興味を引くことができる。危険性のない魔道具と説明し、サーヴァルミア自身も着けてみせたから、彼もリングをつけた。


 実はアムレングのリングはサーヴァルミアのそれと同じ物ではなかった。

 アムレングのリングは、サーヴァルミアにより手が加えられたものだ。本来の『状態通知』に、魔力に関する情報を詳細に伝える機能を加えた。魔力の強さ、属性、質、放出パターン。そうした詳細情報を通知するようにしたのだ。

 

 アムレングがつけたのはわずかな時間だったが、必要な情報は手に入った。相手の魔力について詳細を知れば、その防御を突破する手段がわかる。効果的に作用する術式を組むこともできる。

 婚約者との関係を深めるなどただの方便に過ぎない。サーヴァルミアはアムレングに魔法をかける下準備が目的だったのだ。

 

 

 

 それからサーヴァルミアは、アムレングに魔法をかけた。お茶会の席の時。廊下ですれ違う時。授業で同じ教室になった時。昼休みに見かけた時。日々こつこつと少しずつ魔法をかけ続けた。

 その魔法は小さな魔力しか使わない。魔力を持った貴族ばかりのこの学園では、その小さな魔力の魔法は気づかれにくい。使用魔力が小さい分、効果は低かった。しかし持続時間が長く、重ね掛けすることで効果を積み重ねることができた。

 

 そうして何度もかけ続けたのは、『戦意高揚』の支援魔法をアレンジしたものだ。

 

 『戦意高揚』の効果は、恐怖心の減少と気力の向上。一般的な支援魔法だが、その効果は侮れない。絶体絶命の窮地に陥った時、この支援魔法によって命をつないだ冒険者パーティーは少なくない。

 戦闘において有用な支援魔法であるが、平時において使用するものではない。日常において、恐怖心が弱まり気力が高まることはどういうことになるか。様々な影響があるが、一言でまとめれば「気が大きくなる」のだ。

 人は気が大きくなると過ちを犯す。酒に酔って気が大きくなり、貴族に無礼を働き牢屋行きになる平民というのはよくある話だ。

 サーヴァルミアは、まずアムレングが無謀な行動に出やすい下地作りをしたのだ。

 

 

 アムレングはもともとこの婚約に不満を持っている。優秀でプライドの高い男だ。気が大きくなればこの婚約を破棄する方向に動くだろう。

 その可能性は高い。しかし、とても確実とは言えない。彼が暴走する方向を定めるため、もう一手が必要だった。

 

 そのためにちょうどいい人物がいた。

 男爵令嬢フィーエニア。栗色の髪に薄茶の瞳を持つ、かわいらしい令嬢だ。

 しかしかわいらしいのは外見だけだ。彼女はその外見のよさを使用してアムレングのことを手に入れようとしている。冷たい婚約関係の婚約者にちょっかいをかける令嬢は意外といるものなのだ。


 サーヴァルミアは正式な婚約相手だ。アムレングの周辺の女性関係を探るのは当然の権利であり、家の力を使えば男爵令嬢フィーエニアの貴族としての立ち位置から家族関係まで、情報を得るのは簡単なことだった。調べた限り、サーヴァルミアの目論見に都合のいい令嬢のようだった。

 

 ひとまずこの男爵令嬢フィーエニアをアムレングの浮気相手に設定することにした。

 そして恋愛小説のように、フィーエニアに対し稚拙な嫌がらせをした。教科書を盗んでページを破ったり、大切にしているハンカチを汚したり、あるいは階段に差し掛かったところで初級の風魔法を使って後ろから押したりした。

 人目につかないように気を付けたが、魔力の痕跡はあえて残した。アムレングは魔法学に秀でた俊英だ。魔力の痕跡を残しておけば、サーヴァルミアの仕業だとたどり着くはずだ。

 自分を好いている令嬢が嫌がらせを受ける。『戦意高揚』によって気が大きくなったアムレングは、男爵令嬢フィーエニアを騎士のように守ることだろう。そして障害は恋を燃え上がらせるはずだった。

 

 アムレングが魔力痕跡の記録を手に裁判を起こす可能性は低い。法は万民の元に公平とされているが、貴族の身分差は法廷の判決においても大きな影響を及ぼす。爵位の低いアムレングが裁判を起こしても、学生間のちょっとしたいざこざとして処理されることになるだろう。それなら裁判をちらつかせつつ婚約破棄を求めた方が効果的だ。優秀なアムレングならそれくらいのことは理解しているはずだ。


 そうして自らの浮気に正当性を得たアムレングは、婚約破棄を突きつけるという過激な手段に出るはずだ。




 サーヴァルミアは自分がこんな謀略を思いつけるとは思っていなかった。勉強は両親に強いられた責務だった。支援魔法は姉への劣等感から専攻しただけの魔法だった。

 しかし今は違う。初めて自分の望みのために、これまで学んできた全てを使っている。専攻して学んできた支援魔法で婚約者アムレングの心を乱し、将来のため学んできた貴族社会の知識で浮気相手をあてがった。

 自分の望みをかなえるために、これまで積み上げて来たものを最大限に活用している。それはサーヴァルミアにとって初めてのことだった。やりがいがあった。今まで感じたことのない充実感を覚えた。

 

 

 

 事態は順調に進んでいた。

 最大の不安要因は姉のメイナルミアだった。メイナルミアはアムレングの浮気に感づいている。先日、週末にタウンハウスに帰ったときもこんな会話があった。

 

「サーヴァルミア。あなたの婚約者がその……他の令嬢と懇意にしていると聞いているわ。もし困っているなら、わたしがなんとかしましょうか?」

「殿方が他の女性に目移りするのは当たり前のことです。ことを大きくすると、かえってアムレング様との関係が悪化してしまうかもしれません。わたしは大丈夫です。どうかしばらくは見守っていてください」

「そう……でも困ったことがあったら言いなさい。姉さまがいつだって助けてあげますから!


 あの時は背筋がぞっとした。

 もし姉が介入してきたら計画は台無しになってしまう。姉の才覚をもってすれば、サーヴァルミアの謀略など、力づくで平和的に解決をされてしまうことだろう。

 メイナルミアは3つ年上で、既に学園を卒業している。もし在学中だったら、妹の意向を無視してアムレングに詰め寄っていたかもしれない。そうしたらきっと計画はとん挫していたことだろう。姉が卒業していてよかったと心底思った。

 

 

 

 計画を進めてから三か月ほど過ぎた。婚約者アムレングは順調に男爵令嬢フィーエニアとの仲を深めている。だが未だ婚約破棄の申し込みはない。

 早くしなければ姉が干渉して来て計画は終わってしまう。それがわかっていても、サーヴァルミアに計画を早める手段はない。

 『戦意高揚』の魔法は効果を持続させるために、今もアムレングにかけ続けている。重ね掛けの回数を増やせば効果は増すが、やりすぎれば可能性が高まる。

 浮気相手のフィーエニアに対する嫌がらせは十分にやってきた。あまり派手にやり過ぎれば発覚にリスクが高まる。そうなれば行動は大きく制限されることだろう。

 

 焦りに任せて行動してしまえば全てが台無しになってしまう。サーヴァルミアは耐えることを強いられた。これまで忍耐ばかりを強いられた彼女だったが、それでもつらかった。自分の望みを叶えるための謀略。それが失敗するかもしれないのに何もできない苦しみは、これまで両親に強いられてきた忍耐とは異なる種類の苦しみがあった。

 だがサーヴァルミアは耐えた。耐えて、耐えて、耐えて……そして不意に、幸運が訪れた。

 

 

 

「サーヴァルミア! お前がフィーエニアにしてきた数々の嫌がらせの証拠はすべて押さえてある! お前など、私の婚約者に相応しくない! 伯爵令嬢サーヴァルミア! お前との婚約は破棄させてもらう!」


 学園で執り行われた夜会。その会場で、アムレングは婚約破棄を宣言した。まるで恋愛小説に出てくる愚かな婚約者のように、男爵令嬢フィーエニアの腰を抱きながら。臆面もなく堂々と、婚約破棄の宣言をした。

 

 アムレングは『戦意高揚』の支援魔法で気が大きくなっていた。見た目のいい男爵令嬢フィーエニアに言い寄られ、嫌がらせに苦しむ彼女を慰めるのは気分がいいことだっただろう。嫌がらせの際に遺した魔力の痕跡を記録し、正義は自分にあると確信したことだろう。


 それでもまさか、公衆の面前で婚約破棄の宣言をするとは思わなかった。


 こんなことをすれば宣言した当人もただでは済まない。この不祥事は貴族社会で一生ついてまわる。嫡男の立場すら失うかもしれない。

 

 だが、サーヴァルミアにとってはおよそ最高の結果だった。下位貴族から公衆の面前で婚約破棄を宣言される。この不祥事はディースクライム伯爵家の評判を大きく下げることになるだろう。派閥内での立場は大きく落ち、王国西部の開拓事業に関わることはできなくなる。今この時、自分を虐げてきたディースクライム伯爵家の没落が確定したのである。

 

 自分の本当の望みに気づいた。そのために持てる力のすべてを尽くしてきた。成果がでるまで耐えてきた。

 サーヴァルミアにとって忍耐と努力が日常だった。それらによって何かを得た経験はなく、ただ現状を維持するだけだった。しかし、今この時。生まれて初めて報われた。

 身体が震えた。涙がこぼれた。嬉しくてたまらない。顔が崩れる。自分がどんな顔をしてしまうかわからなかった。だから両手で顔を覆い、顔を伏せた。そうしたら今度は喉の奥から笑いが漏れてきそうになった。

 このままこの場にとどまってはどんな醜態をさらすことになるかわからない。サーヴァルミアは両手で顔を隠したまま、会場から逃げた。そのまま化粧も落とさずドレスのまま学園寮の自室に戻ると、枕に突っ伏した。そこでようやく笑い声をあげた。誰にも聞かれないように、枕に口をつけてのくぐもった哄笑だった。それでも最高の気分だった。とてつもない爽快感を覚えた。

 

 婚約破棄の宣言になにひとつ言い返さず、顔を隠して会場から去ったサーヴァルミア。彼女の姿は、ショックのあまり泣きながら会場を逃げ去ったのだと受け取られた。彼女が喜びに満ち溢れていたことに気づいた者はいないようだった。

 

 翌日、彼女は授業を休み、馬車を手配すると伯爵領の実家に帰った。

 使用人たちにろくに挨拶も返さず自分の部屋にこもると、予め用意していた書類を確かめた。修道院へ入る手続きの書類だ。既に必要事項は記入してある。後は親の承諾を得て修道院に送るだけだ。

 そうして準備を整えていると、ノックの音が部屋に響いた。姉のメイナルミアがやってきたのだ。

 

「サーヴァルミア! あなたが婚約破棄されたと聞きました! 本当なのですか!?」


 ここまでの状況に至れば、さすがの姉でも状況をひっくり返すことはできないはずだ。

 でも万が一ということもある。サーヴァルミアは慎重に言葉を選んだ。

 

「本当です。わたしはアムレング様の気持ちをつなぎとめることができませんでした……」

「あなたみたいな頑張り屋のいい子を婚約破棄するなんて信じられません! なんてひどい男なんでしょう!」

「いいんですお姉様……わたしはもう、疲れてしまいました……」

 

 そう言いながら、さりげない仕草でテーブルに置いた資料に手を置いた。

 当然、メイナルミアはすぐに気づいた。


「その書類……まさかあなた、修道院に入るつもりなのですか!?」

「はい、そうです。北のはずれの修道院に入り、俗世を離れて自分を見つめ直したいんです」


 姉は何をするかわからない。姉に止められてこの家にとどまれば、没落に巻き込まれておくしかない。こちらの意思を明確に示して釘を刺しておく必要があった。

 姉には多くの嘘をついてきた。しかしこの修道院に行きたいというのはサーヴァルミアの本心だった。その言葉に秘められた本気の覚悟は、メイナルミアにも通じたようだ。

 

「わかりました……あなたがそうと決めたのなら、私は止めません。でも、アムレング殿にはひとこと言わなくてはなりません!」


 そう言って、メイナルミアは部屋を出ていった。

 最大の懸念材料である姉の注意は逸れた。ひとまずアムレングと直談判するつもりのようだ。

 普通なら婚約破棄を突きつけてきた相手に話す機会を作るのは困難だろう。それでもあの姉ならやり遂げそうな気がした。

 だが、それはもうサーヴァルミアには関係なかった。夕方になり帰ってきた両親に事情を話した。厳しい叱責を受けたが、家の迷惑にならないよう修道院に行くと告げ、書類を見せたら矛を収めてくれた。

 こうしてサーヴァルミアは、無事修道院に入ることが決まったのだ。

 

 

 

 あの婚約破棄の宣言から一年ほど過ぎた。サーヴァルミアはようやくその暮らしに慣れてきたころだった。

 王国北部のはずれにあるその修道院は、戒律が厳しいことで有名だった。俗世から完全に隔離された環境。生活のすべては女神への信仰を捧げるためのものだ。朝早く起き、定めれた仕事と女神への祈りだけをして過ごす。食事も質素で、娯楽と呼べるものはない。

 素行の悪い令嬢がここに送り込まれ、一週間足らずで逃げ出すことも少なくない。そんな過酷な場所だった。

  

 それでもサーヴァルミアにとって、そこは安らげる場所だった。確かにその生活は楽ではない。だがここには、理不尽な努力を強いてくる両親がいない。姉が干渉してくることもない。ただ神に祈るためだけの生活。彼女にとって心穏やかに過ごせる日々だった。

 

 ここは俗世から完全に隔離されている。入って来る外の出来事と言えば、周辺の農作物が豊作か不作かくらいのものだ。王国で大きな政変でもあれば何か知らせが来るかもしれない。だが貴族社会の状況はまるでわからない。ディースクライム伯爵家があれからどうなったかも知ることはできない。

 下位貴族から一方的な婚約破棄を告げられた。その不名誉によって、王国西部の開拓事業に関われなくなったはずだ。既に投資した資産を取り返す術はなく、没落は免れない。

 両親はとても苦しむことになるだろう。さすがのメイナルミアでも困難な状況に屈服するかもしれない。

 

 今のサーヴァルミアにそれらのことを知るすべはない。でも、それでよかったとも思う。両親はともかく、姉のメイナルミアはあの状況にも立ち向かうことができるかもしれない。彼女の能力とカリスマをもってすれば、伯爵家も持ち直す可能性がある。そんな逆転劇は見たくなかった。

 物語には幕を引くべき時がある。サーヴァルミアにとって、伯爵家に関することは婚約破棄を告げられ、修道院に入ったところで終わり。そう思うことにした。

 

 だが。修道院に入って7年ほど過ぎたころ。姉から届いた一通の手紙によって、なにも終わっていなかったと、サーヴァルミアは知ることになる。

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