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ほもでうす01

 ある日、夫がいなくなった。価値観の不一致。まるで病院の診断書のような置き手紙にはそう書かれていた。わかっている。それは嘘だ。息子の世話が嫌になったのだ。そうに決まっている。

 息子は重い障害だった。私たちが暮らす部屋では、細心の注意を払って物の配置を変えないようにしていた。朝起きると、息子は必ず全ての扉を順番に三回ずつ開け閉めしなければ一日が始まらない。それが終わると、キッチンの引き出しから特定のスプーン——他と見分けがつかないような普通のスプーンなのに——を取り出し、それだけを使って朝食を食べる。別のスプーンを差し出すと、まるで触れば火傷をするかのように身を引き、耳を塞いで床に横たわってしまう。

 一度、そのスプーンを洗っている最中に誤って排水口に落としてしまった時には、三日間何も口にしなかった。水さえも。

 通りを歩く時も独特の儀式があった。特定の色のドアの前では必ず立ち止まり、足で地面を七回踏む。その途中で誰かに話しかけられたり、何かに気を取られたりして回数を間違えると、最初からやり直さねばならない。買い物に行くだけで、時に何時間もかかることがあった。

 最も困ったのは、突然訪れる「静止の時間」だった。どんな場所でも——スーパーのレジに並んでいる時も、横断歩道の真ん中でも——彼は突然動かなくなる。まるで時間が止まったかのように。目は開いているのに、何も見ていないような、どこか遠くを見つめる眼差し。話しかけても、体を動かそうとしても、何の反応もない。それが数分で終わることもあれば、一時間以上続くこともあった。

 私たちの日常は、こうした予測不能な障壁に満ちていた。それでも、彼なりの世界の見方、感じ方があるのだと、私は理解しようとした。ただ、それが何なのか、どんな世界なのかは、永遠に私の想像の及ばないところにあった。

 私が息子に興味を持つのと対照的に、息子が人間に興味を持つことはあり得なかった。実の父親である夫にも、もちろん、私にも。対人コミュニケーションの困難ではなく、不在。私だってこの子の世話はキツかった。

 だから、夫がいなくなって、吹っ切れた。

 車も家具も全て処分して、アパートの部屋も解約し、私と息子は旅に出ることにした。遠い国への旅だ。もちろん、楽な旅ではなかった。息子が騒いだらと思うと、飛行機には乗れなかった。だから、船での長い旅になった。甲板の上で息子を落ち着かせることにずいぶん気を回したと思う。

 そうして、私たち親子は世界を転々と旅して、お金がほとんどなくなるころ、とある国の少数民族の居留地にたどり着いた。彼らが自然由来の伝統衣装を着るのは観光客向けのイベントでだけで、いつもはポリエステルの大量生産の洋服を着ているのは驚きだった。そうであっても、今でも伝統的な儀式を受け継いでいる人たちだった。私たちはここに長く留まることにした。息子を受け入れてくれたからだ。最初が良かったんだと思う。居留地で最初に迎えた朝日の美しさを、私は忘れないだろう。みんなが朝日に向けて祈っていた。昔、何かのテレビで見たように、五体を大地に投げ出して、倒れるように祈っていた。千年以上続く、彼らの儀式だということだった。驚くべきことが起きた。息子が祈りの仕草を真似たのだ。息子が誰かの真似をするなど、これまでにないことだった。彼らと同じように、体を大地に投げ出して、むしろ彼らよりも敬虔に……。

 そう、そう見えたんだ。

 私は涙した。立ったまま、両手を彼らと同じように祈るみたいに合わせて、鼻と口を覆わずにはいられなかった。朝日に照らされる息子と彼ら部族のみんなの姿は、神々しかった。私はむしろ太陽にではなく、彼らに向けて祈りたかった。

 現地の老婆たちは息子を見るたびに何か小さな食べ物を差し出した。子どもたちは最初こそ怯えたものの、やがて息子の「静止の時間」を彼らなりのゲームだと解釈し、周りでじっと待つようになった。誰も彼を直そうとはしなかった。あるがままの彼を受け入れているようだった。

 やがて、滞在日数が重なっていく。食事にも慣れた。息子は最初に出された芋の粥ばかり食べている。みんなはそれを微笑ましく見てくれていた。ずっともてなす態度でいてくれたみんなには感謝してもしきれない。

 居留地の司祭は、息子を可愛がってくれた。後継者がいないということだった。若者たちはみんな都市へ出て行って、帰ってこない。たまに帰ってくると、部族のみんなを見下した目で見るそうだ。あるいは、哀れみの目か……。最良のケースでも、善意で居留地の近代化を申し出るのだという。司祭はそうした都市の文明しぐさ全てを拒否してきた。この場所での儀式は、太陽への祈りのほかにもいろいろあった。その全てに息子は適合し、今までにないその姿に、私はいちいち涙を流してしまった。

 やがて司祭はすっかり息子を気に入ってしまって、私さえよければここでずっと暮らしてほしい、といってくれた。夜、草でできたベッドで、私はいつまでも寝ないで考えた。それもいいが、あるいは。

 故郷の国への出立の日の朝、私は司祭に別れの挨拶をしに行った。どうしても行くのかね? との問いに、私はええ、と言った。我ながらスッキリした物言いで言えたと思う。

「この子が必要なのは、むしろ私の国になんです」

 司祭は納得したような顔で頷き、こう言った。

「なあ、異国の人よ。私は毎朝太陽に祈ることで誇りを得ている。私が祈らなければ、太陽は次の日には決して昇ってこないだろうから。これは尊い、そして大事な仕事なのだ。私は不安だ。いつも思うのだ。私が太陽に感謝し祈りを捧げる人として、世界で最後の一人になってしまうのではないかと。そうしたら、私が死んだらこの世は暗闇になってしまう。異国の人よ、遠い異国の地でも、祈りを続けてくれると約束してくれるかね?」

 私はうなずいた。息子は相変わらずどこを見ているのかわからなかったけど、司祭との別れの際には大きな声で泣いた。

 ーー結局、故郷で新しい暮らしを始めると、約束を破る羽目になった。

 息子は新しい公営住宅でも前のアパートにいた時のルーティーンを崩さず、祈りのことなど忘れてしまったようだ。すっかり元の生活に戻ってしまった。私は思うのだ。あの居留地でずっと昔からの伝統を守って太陽への祈りに誇りを見出して生きることと、都市へ出て新しい価値観を得て生きることとを。私は、その境界にいるつもりで、居留地の文化でもなければ、都市の文明でもない、きっと人間の中に眠る大昔の記憶の中に生きているだろう息子を眺めて、そして毎日を生きている。

 ある夜、息子が突発的に大騒ぎを始めてしまい、アパートの壁の薄さのせいで隣の部屋からクレームが来た。私は未明の時間帯にパジャマ姿でぷりぷり怒って見せる隣人に謝りつつ、行き場をなくしてアパートの屋上に出た。

 結局、一睡もできずに息子を宥める羽目になった。

 しかし、そのおかげで、睡眠欲求を押し退けてハイになった脳が演出する感動の中、昇ってくる朝日を眺めることができたんだ。そして、息子は、居留地のあの時と同じように屋上の冷たい床面に五体を投げ出して祈ったんだ。

 それ以来、私は毎朝息子を連れて屋上へ出る。いや、むしろ息子の方が早く行きたい、行きたいと、私を未明に起こすようになった。相変わらず障害を持つ子としての偏りは続いている。一日のルーティーンに祈りが加わっただけだ。私は勘違いをしていた。もし、息子が祈りを日課にしたら、お世話をするのも苦にならなくなるものだと思っていた。なぜなら、息子は単なる障害児から、尊い太陽の司祭になるのだから。しかし、そうはならなかった。私は穏やかに笑う。私は都市で薄っぺらい発展思想を学んだ愚かな文明人であって、聡明な太古の知識を受け継ぐ司祭の側にいたわけではないと、はっきりわかったから。息子は太陽への祈りを始めた後も、相変わらず手のかかる子にすぎない。私は期待していたのだ。太陽に祈ることで誇りを得ると言ったあの司祭の言葉に。あの司祭が得るはずの誇りを、息子が得るはずの誇りを、横取りできると思ったのだ!

 しかし、本当は……自分のそんなバカみたいな悪意もバレていたのかもしれない。一度でも都市に住んでしまったら、もう絶対に、太陽が昇ることに……祈りなんぞが必要だなんてことを、信じることはできないと。その美しさを眺めて感動する傍観者にはなれても、美しさそのものにはなれないと。

 息子はどう思っているのだろう。いや、きっと何も思っていない。私の感じる葛藤なんか、一切理解してはくれない。悲しかった。その現実を完全に理解してしまったことが、何よりも。

 以来、私は安定した絶望の中を生きている。息子は生きている。それは確かだ。確かに嬉しい。だが、自尊心を得る方法を永遠に失ってしまった事は事実なのだ。祈り。祈りだって?そんなものがなんになるというの?私はどうしようもなく、都市の人間なのだ。ごまかしようもない。

 ……祈りは、続いている。なんの意味もなく。だけど朝日を見るのはなかなかいいことだ。


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