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★ 06

イリニヤの父、サデニエミの当主が亡くなった、葬儀の夜だった。

王都からの遠路を強行軍で戻ってきたのと、肉親の死で彼女が精神的にも肉体的にも限界なのが、誰が見ても明らかだった。

彼女の父の亡骸を守る場所には、イリニヤとマウヌしかその時いなかった。

泣きぬれた彼女の瞳が、ロウソクの灯りを反射してきらめいていた。

「マウヌ、私の夫は、あなたにするわ。

あなたは私と結婚するの」

か細い、震えた声で、脈絡のないことを突然言い出した。

マウヌが彼女の正気を疑うのも仕方がなかった。

だが、嗚咽をこらえきれない彼女の痛みがこちらに伝わってくる状況で、その言葉を否定するのはためらわれた。

それに、あの後イリニヤから同様の話は二度と出てくることはなかった。

平常心を失った彼女の、世迷言として片付けるのも当然だった。




「ヘルマンニ様の葬儀の時にも、言ってましたね」

「あら、覚えててくれたの?

フフ、ちょっと嬉しい」

表情の動かないマウヌに、イリニヤは言い募った。

「あなたは真剣に受け取ってくれなかったわね」

「それはそうです。

イリニヤ様はすでに、正式な婚約者を得ていたから」

「じゃあ、もう一度はっきり言うわね。

マウヌ、私の夫になってちょうだい」




なんと答えればいいのか分からず、マウヌはしばらく固まっていた。

今ここには他に誰もおらず、助けは期待できない。

「私は、あなたが隣にいることがあんまりにも自然で、あなたがいない自分の人生なんて考えられないのよ」

どこか必死な様子で、イリニヤは言い募った。

「だからね、あなたを……」

彼女は続きの言葉を失って、しばらく二人の間に沈黙が落ちた。




感情がついてこないマウヌの前で、次第にイリニヤの頬が赤らんでいく。

色づき始めた太陽の光に負けず、彼女の白い肌は紅潮して、見る間にその瞳が潤みはじめた。



ぱかっと口を開て再び固まったマウヌの様子に、涙を浮かべながらイリニヤは笑った。

「考えてもみなかった、って顔ね。

あなたは悪意には鋭敏なのに、時々人の好意には鈍感だわ」

「……」

「そりゃそうよね、私、あなたに今まで一言も言わなかったもの」

そう言うと、眉を八の字にしておずおずと続けた。

王都にいる間に、いつの間にか彼女は人の上に立つ者としての態度を身に着け始めた。

そんな彼女の、久しぶりに見る等身大の少女めいた姿は、むしろ好ましいとすら感じる。




「俺も、イリニヤ様の隣にいることが自然で、これまでそれ以外のことを意識したことがなかったんです」

自分は今、どんな顔をしているのだろう。

どんな表情で、彼女を見下ろしているのか。

知りようのないことを心の片隅でこっそり考えながら、笑みを唇にのせた。

「あなたが赤子を抱えているのを見たとき、脳天に雷が落ちたかと思いました。

婚姻証明書を手にしたあなたに対して、自分は具体的なことを何一つ実感していなかったんだって、あそこで思い知らされた」




「この場所に帰ってきてから、俺はなんだかずっと思い悩んでいます。

自分自身が定まらないというか……。

俺はあなたの腹心として、揺れちゃいけないのに、もうずっとあなたのことばかりを考えていた」

パチパチとイリニヤが瞬きをした。大きく2回。

彼女の、青みがかった紫の瞳の色がよく見える。

思わず自分の笑みが深くなった。

あぁ、きっと、自分はいま自然に笑っているだろう。

気づいたら、二人の間の距離があまりにも近かった。

頭を下げると、コツンとお互いの額がぶつかる。



イリニヤが、水から上がったように息を吸った。

何やら、言葉にならない呻きが彼女の口から洩れてくる。

ここ最近、ずっと彼女に関することで驚かされたり悩まされていたので、自分が彼女の意表をつけたというのが少し、嬉しい。

たじろいだイリニヤが後ずさり、バランスを崩したのはその時だった。

「きゃぁ!」

「イリニヤ様! あっ、ぶな……」

慌てて彼女の右手をつかんで、それから腰というか背中に手をまわして不安定なイリニヤを支えた。




呼吸の二つ分か、三つ分。

空白と動揺が生まれて、波紋のように広がり、そっと静まる。

「フフッ」

「くっ」

「もう、あははは!」

「わ、笑いすぎです、イリニヤ様!」

「あなたも笑ってるじゃない!」

二人とも、かつての子供だった頃のようにバカみたいに笑って、それから一息ついて、お互いを見つめあった。

それだけでくすぐったくなるような笑いの気配がまた喉元からあがってきて、実際、湖面のさざ波のようにクスクスと笑いあう。



「マウヌ、あなたは私の隣にいてくれる?

これからも、ずっと」

「はい、もちろん」

湖のうえを渡ってきた風が、二人の間をすり抜けていく。

その風と一緒に、マウヌの今まで抱えていた葛藤だとか、もんやりとした言葉にならない気持ちがスッキリしたような気がする。



マウヌの腕の中に、いまだにイリニヤは収まっている。

こんな風に彼女に触れるのは、いつぶりだろうか。

この湖を見つけて無邪気に水遊びしていたような、まだお互いの男女の違いなど、意識もしたことがないころ以来だ。

自分はいつの間にか彼女の身長を追い越し、体格も力も違ってしまった。

そっと彼女の手を包み込みながら、そんな感傷を覚えた。




「ねぇ、この湖ってマウヌのお気に入りよね」

遠慮なく身を任せてくる彼女になんだか気恥ずかしさを感じつつも、マウヌは目の前の湖を見渡した。

「違いますよ」

「えっ、それはウソよ。

だってあなた、一時期遊ぶっていったら必ずこの場所だったわよ?」

笑いが体の内側からあふれてきて、声にならずとも体が揺れる。

「イリニヤ様がここを気に入ったと言ったから、俺の特別な場所になったんです」

なにかを言おうとしたまま固まった彼女を観察して、再び悦にいる。




「そ、そうだったかしら?」

「いつだったかまでは忘れましたけど。

探検だ!と称して、あちこち出歩いたころにここを見つけたんですよ。

それで、岬と湖と森の様子がとてもきれいで気に入ったと言ってましたね」

「……全く、覚えてないわ」

「いいんですよ、俺は覚えていますから」

彼女の視線がさまよっているとか、その頬がうっすら桜色になっている様子に、心の底から湧き上がってくるものがあって、マウヌはそれに突き動かされるままさらに彼女を抱き込んだ。

触れあっているところから、かすかな熱が伝わってくるのも心地よく、思わず彼女の髪に頬ずりしてしまう。

ますます真っ赤になる彼女は、間近から見上げてくる。



マウヌは、己の心がふっとほどけるのを感じていた。

束の間、二人の唇が重なって、ゆっくり離れていく。

しきりに照れたイリニヤは、なぜかマウヌの胸の中に顔をうずめてしまった。

今までは、彼女は仕えるべき主だった。

そこに、また違う関係性が生まれた事実を、腕の中の熱が伝えてくれる。







館に戻った二人を、年長者たちは特に反応も見せずに受け入れた。

ただ、マウヌは母親に「ちゃんと説明は受けたかい?」とだけは尋ねられた。

父親からは、「しっかりやれよ」と痛いくらいに背を叩かれた。



改めて確認をしてみれば、イリニヤは自らの婚姻について大分前に根回しを終えていた。

彼女の父が亡くなったとき、彼の部下を務めていた人たちにフランの乱行を明らかにしたのだ。

彼らは、フランの暴虐に怒り、自分たちの未来の主が「野蛮な」王都の貴族に身を汚されることを許しがたいと感じた。

だから、彼を陥れて書類上だけの結婚をもくろむことにも、諸手をあげて賛成したそうだ。

実際の夫をマウヌにするとイリニヤが言ったときも、誰も反対しなかったという。

「むしろ、あいつ意外に誰がいるんだい」とマウヌの叔父など言っていたそうだ。










サデニエミの婚姻は、夜に行われる。

とはいえ、北方の夏は昼が長い。

ちょっと薄暗い程度のなか、マウヌはイリニヤの手をひいてテントを訪れた。

ここに帰ってから、自分も制作にかかわった新しいものだ。




本来は、布を織るところからはじめなければならない。

けれど、長く王都にとどまっていたマウヌにそれは無理な話だったので、布はすでに用意されていて縫い合わせるところから始めた。

ここに帰ってから、周りに言われるまま作ったテントだったが、今はその理由が分かっている。

この地方では、結婚にあたり、夫が新たなテントを作り、新妻は二人の婚礼衣装を作る。

そして、婚礼の儀式のもっとも大事な部分は、婚儀の衣装をまとって、テントで一晩をともに過ごすことだ。




昔であれば、新たにつくられたテントは、そのまま夫婦の新居となった。

二人は領主館に住んでいるので、あくまでテントは儀礼的なものという扱いだ。

それでも雨風を防ぐ丈夫な生地は、マウヌの手によって伝統的な文様が染め抜かれている。



午前中、マウヌはトナカイの儀式的な屠畜をした。

家族と親戚が手伝ってくれたが、その中にはいつぞや彼をどやしつけた叔父もいた。

日に焼け、風にさらされ、それでも強い光を失わない彼の目が、肉を切り分けるマウヌの様子をじっと見ていた。

マウヌの父は前サデニエミ伯の部下として、また母はイリニヤの乳母を務めていてともに忙しく、幼いころは寂しい思いをしたこともあった。

決して両親の愛を疑ったことはないけれど、幼い心で割り切れないことだってたくさんあった。

そんな時、剣を持たせ、釣りに引っぱりだし、時にいたずらを教えてくれたこの叔父はマウヌにとって第二の父といってもいい。

「そうだ、そこを切り分けろ。骨を断つのは俺がやる」

彼の指示に従って肉をさばいていくマウヌを、叔父は見つめて言った。

「マウヌ、お前はこれからもイリニヤ様をちゃんと支えていくんだぞ」

いったんナイフを置いて、マウヌは顔をあげた。

「はい、俺にできる限りの力をもって」

はっきりと言い切ったマウヌの様子に、彼は深いしわの奥の目を優しくほそめた。





マウヌがさばいた肉で、イリニヤが作ったスープが、ふつふつと鉄鍋に煮えている。

これも新たにしつらえた木製の食器に夕食をよそって、二人きりで食べ始めた。

腹が落ち着くころには汗がにじむほどに暑くなって、マウヌは上着を脱いだ。

黒地に色鮮やかな刺繍がほどこされた晴れ着の下に着ている白いシャツも、精緻な刺繍が刺されている。

首元や手首を一周している文様は、魔除けだと母親にいつだったか教えられた。

その文様を指でたどると、目前の人物からの視線が感じられて顔をあげた。



「旦那様、私ができた刺繍は一部でしたけど、気に入っていただけました?」

「もちろんですよ、俺の奥さん」

スープが入った椀を手に、イリニヤが満足気に笑っていた。


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