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★ 05


小さな丸い石が集まった水際を、ささやかな波が洗っていく。

その様子を見下ろしながら、「初めて父親を恨んだわ」とイリニヤはつぶやいた。

「あの人が後妻をとって男の子が生まれていたら、その子は私より、もっとずっと自由にできた。

気が向くなら貴族の女性とだって結婚したっていいんだし、一族から気に入った子を迎えることだってできるのよ。

なのに、私には婚姻の自由がない」



「学園の最初の一年は、エクヴァルの子息ともまだそこまで険悪ではなかったですよね。

あの時点で、イリニヤ様は彼との婚姻は不可能と思っていたのですか?」

マウヌの問いかけに、眉尻をさげた困り顔で、イリニヤは頷いた。

「彼は、あの頃から誰もいない場所では私のことを、散々にバカにしていたのよ。

自分がいないと爵位が継承できないということを盾にとって、宿題なんかもいつも肩代わりさせられていたわ」

マウヌは、愕然として、それから怒りに肩を震わせた。

「それは……俺は全く気付いていませんでした。

助けになれず、申し訳なかったです」

「あの当時、私たちは学園の生徒の大半から散々意地悪されてたじゃない。

マウヌは、その対応で手いっぱいだったでしょう」

苦く笑う彼女の様子に、マウヌもまた似たような表情で小さくため息をついた。




イリニヤの話は続いていく。

彼女が学園に入った最初の冬に、社交のために王都に出てきた父親に直訴したことを。

今からでも後妻を娶って、男の跡継ぎを設けてほしいと頼み込んだが、彼女の願いは聞き入れられなかったそうだ。



「そんなに、母のことを愛していたのかしらね。

それ自体は素晴らしいと思うけど、せめてもう一人直系の子孫をもうけてほしかったわ」

彼女が手慰みに拾った石を湖に投げると、ポチャンと水音が響く。

「そうしているうちに、急に父が亡くなってしまったじゃない」

心の内を吐き出すように、一気に話しとおしたイリニヤは、そこで言葉を止めた。



「次から次へと問題がおこっている間、ぼんやり考えていたことがあったわ」

トナカイたちが草を食む豪快な音が聞こえる。

そののどかな物音と、イリニヤの隙のない表情があまりにかけ離れている。



「その考えを聞いても?」

「当然よ、あなたにこそ聞いてもらわなきゃいけなかったことだもの。

フランは甘やかされた貴族の子息だったけど、当主である彼の父親は全く違っているじゃない?

このままフランが不誠実な態度を取り続けた時に、伯爵閣下は彼を切り捨て、私のほうを尊重すると思ったの」

一瞬言葉に迷って、マウヌは意味もなく唾を飲み下した。

「そうですね、辺境を統べるヘルマンニ様のこともイリニヤ様のことも、彼は公平に見て、蔑むことはありませんでした」


「だから私は、フランに強く出ることを止めたの。

そうすれば、彼は他の女に色目を使って遊び歩くようになったでしょう。

私、それを見た時に悲しそうな表情を作るのが大変だったわ」

マウヌは、嘲笑に身を任せるイリニヤの様子にわずかに身じろいだ。

彼女はいま、王都の貴族が自分たちを悪意をもって見つめて笑っていた時と、同じような顔をしている。

不特定多数からの悪意に対抗するために、彼女が身に備えた武器ではあるが、それがなんだか哀しいと思った。



「彼は、やっていい事とやってはいけない事の区別がついていない。

実際に婚姻を結ぶまでに、なにかしら取り返しのつかない失敗をするだろうと思ったわ。

ならば、私がすることは、彼が勝手に道を踏み外すのを待つことだけよ」

「では、フランが卒業式で婚約破棄を叫びだしたのは、イリニヤ様も願っていた結果だったと?」

小さなさざ波のように、イリニヤは笑った。

不祥事を起こしたフランは、彼の父にとってエクヴァル家にふさわしくないと判断された。

貴族籍をはく奪し、イリニヤの夫としての結婚も取り消そうとした。

そうして彼の価値が暴落したところで、イリニヤは爵位の継承に必要な「貴族の男」としてのフランを底値で買い取ったということだろう。


実際、本来それなりの金額がかかるはずだった婚姻の儀式は行われず、婚姻証明書を発行するだけにとどまったのだからずいぶん金銭面で得をしている。

エクヴァルの係累として遇されないということも伯爵から確約を得ているため、挽回の機会は今後ないだろう。

彼がイリニヤに権力を及ぼしたいと思っても、その手元にはなにも残っていない。



「ですが、それではイリニヤ様にも悪影響があるのでは?」

フランの当然の質問にも、イリニヤは笑みを崩さない。

「もともと、王都の貴族は、辺境貴族を野蛮で残酷で美徳などないとでも思っているわ。

これ以上落ちる評判なんてないもの。

それに、彼に夫の役割も仕事もなにひとつ与えるつもりはないの」

草を食んでいたトナカイのうちの一頭が、気づいたらイリニヤの脇に立っていた。

その首筋をやさしくなでているイリニヤに、トナカイのほうもまた心地よさげに目を細めた。



「ですが……イリニヤ様は、子をもうけねばなりません」

胸が痛むのを自覚しながら、マウヌはしぶしぶ口にした。

親類の子を、慣れぬ手であやしていた彼女のことが思い出される。



パシャン、と水音がして魚が跳ねた。

そこからゆっくりと波紋が広がっていく。

その波形が、ささやかな波間に消えてからも、イリニヤは表情を変えなかった。

この人は誰なのか、と思った。

生まれた時から一緒で、物心ついたときには自分の隣にいたはずの、兄弟のような存在のはずだったのに。

大人びた、底の知れない深い目をしている。



細い指をあげて、イリニヤはマウヌの胸に触れた。

「マウヌ、サデニエミの血を引いているのは私よ。

私の腹から生まれる子が、次のサデニエミの長になるの」

ふっと笑うイリニヤの波打つ髪が、金色の夕日に縁どられてまぶしく輝いている。

彼女の指が触れた服の下で、ドクドクと心臓が脈打っていた。



瞬きをしても、彼女はそこにいる。

自分に触れる彼女の指から手首、二の腕と視線でたどって、再度イリニヤの顔を見ると、彼女は自分をまっすぐに見つめていた。

「私の真実の夫は、私が選ぶわ。

マウヌ、もうその相手が誰なのか、見当がついているのではなくて?」

人をからかう雰囲気を出してきたイリニヤに、マウヌはたじろいだ。


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