★ 02
結婚にかんする手続きは、イリニヤの申し出通りに書類だけのものとなった。
本来ならばかなりの金額や物品が必要な、慣例的な儀式の全ても省略される。
「それと、わたくしと結婚した後は、彼をエクヴァル家の係累として扱わないでいただきたいのです」
そんなイリニヤの無茶な申し出も、伯爵本人によってあっさり受理された。
「委細承知した。
君との結婚に必要なため貴族籍は残しているが、元々放逐を考えていた人物だ。
今後の彼の処遇にこちらは関知せぬ。
煮るなり焼くなり、好きにされるといい」
何度かエクヴァル家で行われた話し合いは、初回をのぞいて伯爵だけが出席した。
訊くと、伯爵の妻はとある療養地で湯治中だという。
当の本人であるフラン・エクヴァルも、伯爵の妻も排除された状態で、一人の人間の運命があっさり取引された。
イリニヤがフランと再会した時、すでに彼はイリニヤの書類上の夫となっていた。
伯爵家の裏門で、騎士たちに拘束されるように馬車に押し込められている最中だった。
立ち合いはエクヴァル伯爵ただ一人。
「イリニヤ嬢、いや、サデニエミ伯。
伯の婿となったあの男だが、今後の動向にこちらが関与することは一切ない。
あなたからの申し出を受けたので、私はあなたを義理の娘として扱えぬ。
だが、なにかあったら気軽に連絡を取ってほしい。
必ず力になることを誓おう」
彼女は、伯爵にカーテシーで応えた。
こうして、イリニヤはいくばくの金銭を使うこともなく婿を迎え、正式にサデニエミ伯となった。
北方への旅は、騒がしいものとなった。
主に、一人の男によって。
伯爵の好意で、この旅にはエクヴァルの騎士が複数名同行している。
彼らを辟易させるほど、婿殿は何度も脱走を企てた。
「懲りないわねぇ」
他人事のように、イリニヤは笑って言った。
実際、自分事とは受け止めていないのだろう。
その間も、「私を誰だと思っている、その手を放せ、たかが騎士風情が! エクヴァルの直系にこのような無礼を働いてよいと思っているのか、名を名乗れ、クビにしてやる!」などと喚いている男が一人、質素な宿から質素な馬車に力づくで運ばれている最中だ。
馬車は外から鍵をかけられたが、なおもくぐもった怒鳴り声が聞こえている。
今日も婿殿は大変イキが良い。
イリニヤはマウヌを伴って、サデニエミの家紋がほどこされば馬車に乗り込んだ。
サデニエミの隣領にたどり着いた。
その領都で、イリニヤの婿殿は愕然としていた。
「サデニエミには、領都がない……?」
「えぇ、せいぜいが町といえる程度の規模ですね」
「そんな、私はエクヴァル伯爵の息子なのだぞ!
王都に生まれ、王都で暮らし、都の文化を享受していた私にそのような北方の田舎で暮らせというのか!」
食事の途中だというのに、大口をあけて喚きだした男の髪を、マウヌは遠慮なくつかみ上げた。
苦痛の声があがるが、イリニヤも同伴の騎士もまったく気にしておらず、食事を続けている。
「イリニヤ様、お騒がせしました。
こいつは部屋に閉じ込めておきます」
「えぇお願いね、マウヌ」
婿殿は夕食にまだほとんど口をつけていなかったので、この後はさぞひもじくなるだろうが、マウヌにはどうでもよいことだった。
彼の両腕を後ろ手に拘束して、連れ出そうとした時。
「そういえば」
イリニヤがふと思い出したというように声をあげた。
「この家は、今や私の所有なのよね」
マウヌは、肯定の返事を返した。
サデニエミ領には都といえる場所がないため、入用のものを購入したり、領の産物を取引するにもわざわざ領を出てこの街に来ることが多い。
長く逗留することもあるので、この街の貴族が住む場所の片隅に小さな館を所有している。
彼女の父が亡くなり数年、イリニヤが結婚して正式にサデニエミの全てを継承したので、この家も彼女のものとなっている。
イリニヤは、まじまじとマウヌにとらわれたフランの顔を見つめて言った。
「そんなにサデニエミに行きたくないというなら、この家で暮らしてもいいですよ」
「お嬢さ、いえイリニヤ様。それは……」
思わず彼女の言葉に口をだしたマウヌに、イリニヤは言葉を返した。
「だって、この人って田舎暮らしは見るからに無理そうですし」
騎士の数名が、彼女の言葉にうなずいた。
「この家に住み、この街から出ないというなら、贅沢はできないでしょうけど働かずとも生きていけるようにしてあげますよ」
何かに気づいた様子のフランに、イリニヤは子供に向けるような笑みを見せた。
「イリニヤ様、あの男にわざわざ金をかける理由をお伺いできますか?」
隣領の都を出てから、マウヌは自分の主に尋ねた。
フランは、領都に置いてきた。
家の管理人夫婦はけっこうな高齢のため、サデニエミから荒事に長けた者を交代で送り、彼の監視につけようと考えている。
それまではエクヴァル家の騎士たちが、放蕩息子の監督を代わってくれるとのことだ。
だが、サデニエミはさほど裕福な家でもない。
また地方に住まうものとして、贅沢ではなく倹約を重んじる。
より物価の高い街で自ら働くこともしない男を「飼う」ことは、まったく無駄金を費やすだけだとマウヌは思う。
「確かに、イリニヤ様を煩わせてばかりの男ですから、わざわざ手元に置いておくのもうっとおしいでしょう。
ですが、仮にも婿として迎えたというのに」
言い募るマウヌの言葉を遮ったのは、軽快なイリニヤの笑い声だった。
「安心して、あの男にサデニエミの財産は使わないわ。
実は、王都を発ってから、同伴しているエクヴァルの騎士隊長が私に小切手を渡してきたのよ」
「聞いていません」
「いままで言ってなかったもの。
エクヴァル伯爵が、それなりの金額を記入していたわ。
だから、そのお金はあの婿殿のために使ってあげようと思って」
自分たちの懐は痛まないから安心しろというイリニヤに、マウヌはトナカイを操りながら、それでもやはり気前が良すぎるのでは?と考えた。
北上する二人は、次の日には森に入った。
湖や湿地が入り組む地形のため、ここでは馬は使えない。
イリニヤとマウヌは、トナカイに乗り、柔らかな苔に覆われた木々の間を移動する。
目を細めて自然な笑顔を浮かべながら、イリニヤは胸を膨らませて森の空気を取り込んだ。
「私はサデニエミの娘、ヘルマンニの子!
森よ、私は帰ってきたぞ!
イリニヤはこの地をこれより守護する者なり!」
王都では、貴族の娘が大声を出すことを、はしたないと評するだろう。
けれど、顔をあげ、凛とした声で口上をあげるイリニヤは美しい。
風になびく金髪が、太陽の光に縁どられ自ら発光するように輝くさまを、マウヌはまぶしそうに眺めた。
サデニエミに、領都と呼べる場所はない。
北方の暮らしは厳しく、それほど人口が多くないからだ。
それでも、サデニエミを治めるものが住む館は石造りで、重厚な建物だ。
普段は静かなその領主館が賑わいを取り戻したのは、館の新たな主人が戻ってきたからに他ならない。
マウヌにとってみても、数年ぶりの故郷だ。
領主館は、小さな湖を見渡せる丘の上にある。
風に吹かれて水面にさざ波がたち、陽光を照りかえしていた。
木々は風に吹かれてざわめき、この地の主人を迎える人々の喜びの声が混じる。
「ただいま! 私は帰ってきたよ!」
イリニヤが誇らしげに宣言するのに、男も女も老いも若いも、彼女を取り囲んでいる。
その光景を、マウヌは一歩ひいたところから見つめた。