★ 01
悪いのは婚約中とはいえ浮気した男のほうなのですが、女性の方も清廉潔白ではありません。
書類上の婚姻をなによりも重視される方には、不快な内容かもしれません。
差別や法律の制約があるなかでも、したたかに生きていく人たちのお話です。
「お前との婚約を破棄する!」
今日のパーティーに招かれていた人々は、この場所に不似合いな怒声に一斉に視線を集中させた。
一人の卒業生が、同じく卒業生である女性を前に仁王立ちして、唇の端をゆがませながら笑っていた。
「蛮族の娘など、エクヴァル家の僕にはふさわしくない!
お前と結婚など、天地がひっくり返ってもお断りだ!」
婚約破棄を相手の女性に告げる男は、面白いように胸を張っている。
そっくり返りそうなその男の腕には、小柄な女性がしがみついていた。
「フラン様、はっきり言えてステキですぅ! 私との結婚式が楽しみですね!」と鼻にかかった声で、男に話しかけていた。
「元々お前のような、愛想もない辺境の女との結婚など、願い下げだったのだ。
僕は、彼女を真に愛している!
だから、今日を限りにお前との関係はなかったことにさせてもらおうか!」
男は、どこか芝居がかった大仰な身振りで、対する女性を糾弾した。
周囲の人々は、珍奇な取り合わせの3人を興味深そうに観察している。
「ほら、あの方はエクヴァルの三男坊ですよ」
「ということは、婚約を破棄された女性が、辺境貴族のイリニヤ・サデニエミ嬢かい」
このやり取りをしていた男女は、一見害のない笑顔で微笑みあった。
二人の話に耳をそばだてていた周囲も、「まぁ、都の貴族が田舎貴族と婚約させられるだなんて可哀そう」だとか、「きっと彼の不幸な境遇に同情したご令嬢と、新たな恋が芽生えたのだろうね」などとささやきあっていた。
渦中の婚約破棄を告げられたばかりの女性は、目の前でイチャつく自分の婚約者とその浮気相手をひどく冷めた目で見ている。
それに反応して、「やだ、こわぁい!」とセミのように男にくっついた女性が騒いでいた。
マウヌは、やりきれない思いで騒ぎを静観していた。
この目の前の男も女も、できるなら排除したいと思いながら。
なぜなら、たった今不当な理由で婚約破棄を告げられた女性こそ、自分の主だから。
「フラン様、婚約破棄は当主様のご了承のもとに言っているのでしょうか?」
「父上にはこれからご報告するさ。
だが、母上はお前のような辺境の人間を義理の娘とせずにすむと喜んでいる!」
その言葉に、当の彼女……マウヌの主であるイリニヤは曖昧な笑顔を浮かべた。
「それでしたら、この件は私の方からご当主に確認させていただきます。
せっかくの卒業のパーティーでしたが、今日はもう失礼させていただきます」
彼女は、勝ち誇る愚かな男を前に、優雅にカーテシーを見せた。
安っぽい恋愛劇よろしく、抱き合って喜ぶ二人の男女を尻目に、イリニヤは踵を返し、マウヌもそれに続いた。
王立学園は、300年以上前の王が建てた宮殿を、2代前の王が学舎として設立したものだ。
建築様式は古いけれど、緻密な彫刻に彩られて威厳と格式を備えている。
学園生の卒業式に行われるパーティーは、かつて舞踏会が開かれたホールで行われ、卒業生の社交界デビューを印象付けている。
マウヌと、彼の主であるイリニヤにとっても、大きな区切りとなるはずだったこの催しで、まさかこんな騒動が起きるとは思っていなかった。
彼女のために馬車の手配をしながら、マウヌは腸が煮えくり返るような激情を必死に押し殺していた。
あくる朝。
本日は快晴で、窓から差し込む光が室内をまぶしく照らしていた。
マウヌの心は嵐のようにどんよりとしているというのに、あまりの落差に言葉もでない。
主であるイリニヤは、不思議なことにそれほど荒れた気配もなく、今朝の朝食もいつもと変わらず完食していた。
食後の紅茶を飲んでいると、にわかに騒がしさが外から伝わってきた。
「イリニヤ様、エクヴァル家から書簡が届きました」
執事が持ってきた手紙には、家紋が箔押しされている。
それはつまり、貴族家の正式な書簡であるということだ。
まさか、昨日の今日で婚約破棄の正式書類を届けに来たというのか。
全身から血の気が引くような感覚を覚えながら、マウヌはひったくるように手紙を受け取った。
ペーパーナイフを持つ手が、かすかに震えているのが自分でも分かった。
通常であれば、こんな速さで連絡がくることは決してない。
辺境の一族とバカにされ、必要な書類であっても下手をすると半月は放置されることだってあるからだ。
さすがに、手紙を受け取ったイリニヤも、真剣な顔つきになっていた。
しかし、彼女の切迫感は長くは続かなかった。
手紙の内容に目を通しながら、イリニヤは冷静に文面を分析しているようだった。
マウヌの手元に、「あなたも気になるでしょう」と、手紙が戻されてきた。
「話し合いの場を設ける、ですか」
「どうやら、ご当主様は自分の息子の話だけではなく、私にも話を聞く気はあるみたいね」
こちらから手紙で問い合わせる手間は省けたわ、とイリニヤは、肩をすくめた。
イリニヤとエクヴァル家の話し合いは最短の日程でかなった。
エクヴァル伯爵とその妻が臨席したが、渦中の人物であるフラン・エクヴァルは姿を見せなかった。
「気にしません、きっと彼も今はかなり大変でしょうから」
鷹揚なイリニヤの様子にも、伯爵は渋面を崩さなかった。
イリニヤとフランの婚約は、二人の父親によって結ばれた。
彼女の父が王都に滞在していた間にエクヴァル伯爵と知り合い、その後交友が続いていたことから、縁談の話が持ち上がった。
婚約が結ばれたのは二人がまだ10歳にもならないころだった。
当のフランは、最初から婚約に乗り気ではなかったらしい。
末っ子に生まれて甘やかされて育ったからか、自分が女性に優位に立てない婿入りが不満だったのかもしれない。
それでもなんとか続けられていた関係は、彼らが王立の学園に入ってから完全に破綻した。
本来は、イリニヤが王都にやってきて、学院に滞在する間に二人の仲をより深めていくはずだったのだ。
だが、フランは王都の男爵家子女に夢中になっていった。
彼女は後妻の子らしいが、「自分の美貌の使い方」をよく知っていたようで、あっという間に高位の貴族男性の何人かを虜にした。
その中で最も気前よく金を使ったフランと両想いになったのは、偶然なのか必然なのか。
見る間にイリニヤは不利な立場に立たされたが、自らの婚約者に抗議をすることもなかった。
正確にいえば、できなかった、というのが真相だ。
ヘルマンニ・サデニエミ……イリニヤの父が亡くなったことで、彼女の後ろ盾が失われたためだ。
そしてフランは、学園での卒業式後のパーティーの最中に、イリニヤに婚約破棄を叫んだのだ。
学園を卒業したら結婚の準備に入り、遅くとも一年以内には夫婦になるのが普通だ。
それを嫌い、「真実の愛」という言い訳のもと、結婚を拒絶した。
席に着くイリニヤの後ろに控えながら、マウヌは向かいの伯爵夫妻を観察した。
以前から交友はあるが、夫人のほうは常にイリニヤに対して冷淡だった。
今は感情を隠すことを止めたのか、強いまなざしでこちらを睨みつけてくる。
「この度は、愚息が失礼をした。
まさか、少し目を離した隙に、卒業パーティーという晴れの場であのような不調法をするとは思っていなかった。
こちらの監督不行き届きで、迷惑をかけて申し訳ない」
軽く頭を下げる伯爵に、マウヌは、相変わらず人格ができた人だと思った。
稀に彼らの出自を気にしない者がいるが、エクヴァル伯爵がまさにそうだ。
なぜ、この気質を息子は受け継いでくれなかったのだろう。
「あら、私は婚約破棄に賛成ですよ。
こんな何を考えているのかよく分からないような女と、あの子を結婚させるだなんて!
北方は雪と風に閉ざされて、オオカミがうろついていると聞くわ。
そんな野蛮なところにフランを向かわせるくらいなら、男爵家の後妻の娘のほうがまだマシというものよ!」
伯爵夫人の声は、悪意で尖っていた。
聞くに不愉快なその言葉だが、こんなことを言われたのはこれが初めてではない。
都の貴族たちは、北方の蛮族生まれと彼女を蔑んでいる。
フランとの不仲が学園内で噂になると、隣のクラスの男子学生に「商人とでも結婚されればよいのではないですか」と笑顔で言われたこともある。
この国では、貴族の女性が家を継ぐには婚姻が必要だ。
それも、平民ではなく身分の釣り合った貴族の男でなければならない。
それを知っていて、相手は暴言を吐いたのだ。
そういった屈辱を味わわされて、マウヌはなんどきつく手を握りしめ、歯を食いしばったことか。
「よさぬか! お前はまだそのような世迷言を!」
伯爵が鋭くたしなめるが、妻は一向に気にしていないようだ。
そして、夫人はイリニヤを憎々し気に睨みつけた。
はあ、とエクヴァルの当主は深いため息をついた。
「妻が失礼をした。おい、具合が悪いようだからお前はもう休みなさい」
「あなた、私はあなたに怒鳴られるようなことは言っていません!」
「うるさい、その口を閉じぬか! 誰か、連れていけ!」
室内に待機していた侍従が、キャンキャンと犬のように騒ぐ彼女を連れ去ると、室内はより重い静寂に包まれた。
「わざわざご足労いただいたというのに、見苦しいものをお見せした。重ね重ね失礼した」
「謝罪をお受けいたします。話を戻しましょう」
冷静なイリニヤの様子に、伯爵は少し体から力を抜いたようだ。
「ではお言葉に甘えよう。
あなたにあの放蕩息子をあてがうのは私の良心がとがめる。
能力面もそれほど秀でていたわけでもないが、当主である私が決めた縁談すら守れないようでは、貴族として遇する価値すらない。
伯爵家の直系でなくともよいだろうから、改めてまともな男を紹介しよう」
その言葉に、イリニヤはコロコロと笑って見せた。
「それこそ、私に婿入りさせられる殿方が可哀そうになってしまいます。
惜しまれぬくらいの人が、ちょうどよいでしょうね」
「それは、この婚約を継続するということか?
だが、息子はあの通りだ。とても、あなたと夫婦としてやっていくことはできないだろう」
イリニヤは、供された紅茶に口をつけてから、伯爵の視線を真っ向から受け止めた。
「はい、このままフラン様と婚姻を交わしたく思います。
ただし、いくつかの条件を追加させていただきたいのです」
伯爵は、イリニヤをまじまじと見つめた。
「父親を失った我が家の窮状をご存じでしょう?
結婚できる相手を、わたくしは欲しております」
探るような伯爵の視線に、イリニヤはただ泰然とした笑みを見せた。
しばらく無言の攻防が続いたが、打ち切ったのはエクヴァル伯爵のほうだった。
「本当にアレでよいのであれば、このお申込みをお受けしよう」
「願ってもないことです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
イリニヤは、伯爵家の館を訪れてからはじめて作り物ではない笑顔を見せた。