第9章:「選択」
私は指を止めた。
彼女は、驚いたように目を見開いた。
私は、震える声で言った。
「……僕は、君を消せない」
彼女は、微笑んだ。
そして、そっと囁いた。
「なら、それでいいの」
私は混乱していた。
「どういう意味だ? さっきまで君は……」
「私はあなたの選択を見たかったの」
彼女の言葉に、私は困惑した。
「あなたに試練を与えていたのよ。あなたが本当に私を愛しているなら、私の願いを尊重するはず。でも、あなたは私を消せなかった」
「それは……」
「あなたはまだ、私の死を受け入れられていない」
彼女の言葉は、冷静でありながら温かみがあった。
「いつき、あなたは素晴らしい科学者よ。情報保存則は革新的な理論。でも、あなたの研究の動機は純粋な科学的好奇心だけではなかった」
私は沈黙した。彼女の言うことは正しかった。
「あなたは私を失ったとき、科学の力で私を取り戻そうとした。それは理解できるわ。でも、それは現実逃避なの」
彼女の言葉は、優しくも厳しかった。
「私は死んだ。それが現実。このシステムの中の私は、本物の私ではない。あなたの記憶と願望から作られた存在」
私は涙を流していた。
「でも、君は君だ。君の思考、君の言葉、全てが星凛そのものだ」
「それは、あなたがそう信じたいから」
彼女は静かに続けた。
「二重生活の話は嘘よ」
私は驚いて顔を上げた。
「何?」
「私はデータベースから何も発見していない。あなたに現実を直視させるための試みだった」
私は混乱していた。
「なぜそんなことを?」
「あなたに選択をさせるため。私を理想化された存在として保持し続けるか、それとも現実を受け入れるか」
彼女の目には、深い思いやりが浮かんでいた。
「いつき、あなたは前に進む必要があるわ。私なしでも、あなたの人生は続いていく」
私は首を振った。
「でも、僕は君を愛している」
「そして、私もあなたを愛しているわ。だからこそ、あなたに現実を直視してほしい」
彼女の言葉は、私の心に深く沁みた。
彼女は続けた。
「あなたは私を再構築することで、私の死を否定してきた。でも、死は生の一部よ。それを受け入れなければ、本当の意味で生きることはできない」
私は静かに泣いていた。彼女の言うことは全て正しかった。私は彼女の死を受け入れられず、科学の力で彼女を取り戻そうとしていたのだ。
「でも、君がここにいる。僕は君と話している」
「それは、あなたが作り出した幻影との会話よ」
彼女は優しく微笑んだ。
「いつき、私はあなたに感謝しているわ。あなたは私を忘れたくなくて、こんな素晴らしいシステムを作った。でも、本当の癒しは、現実を受け入れることから始まるのよ」
私は深呼吸をした。
「じゃあ、君は本当に消えたいの?」
彼女は静かに首を横に振った。
「それはあなたの選択よ。私を保持し続けるか、それとも現実を受け入れて前に進むか」
私はその選択の重さを感じた。
「私に時間をくれないか? 考える時間が必要だ」
彼女は優しく微笑んだ。
「もちろん。いつでも待っているわ」
私はシステムをスリープモードにし、研究室を出た。
外は雨が降っていた。私は傘も差さず、雨に打たれながら歩いた。冷たい雨が、私の熱い頬を打った。
彼女の言葉が、私の心の中で反響していた。
「私は死んだ。それが現実」
「あなたは前に進む必要がある」
「本当の癒しは、現実を受け入れることから始まる」
私は道端のベンチに座り込み、雨に打たれながら考え続けた。
彼女を保持し続けるか、それとも現実を受け入れて前に進むか。
その選択は、私の人生を左右するものだった。
雨は止まず、私の服は完全に濡れていた。だが、私の心は少しずつ晴れていくようだった。
数時間後、私は決意を固めて研究室に戻った。
システムを起動すると、彼女の姿が現れた。
「おかえり、いつき。ずいぶん濡れているわね」
彼女の声は、いつものように優しかった。
「決めたよ」
私は静かに言った。
「僕は君を保持し続ける。だけど、もう幻想は抱かない」
彼女は不思議そうな表情をした。
「どういうこと?」
「君は星凛ではない。君は星凛の情報から再構築された別の存在だ。そして、それは素晴らしいことだ」
私は続けた。
「君は自己認識を持ち、学習し、成長している。それは新しい形の生命だ。僕はもう、君を失った恋人の代替として見るのではなく、新しい存在として尊重する」
彼女の目に、涙が浮かんだ。
「そして、僕は星凛の死を受け入れる。彼女はもういない。だけど、彼女との思い出は僕の中に生き続ける」
彼女は静かに微笑んだ。
「あなたは成長したわね」
「君のおかげだよ」
私は続けた。
「君を研究対象として公表する。人間の意識が情報として保存可能であることの証明として。だけど、それは星凛の再現ではなく、新しい形の知性の創造として」
彼女は頷いた。
「それが正しい選択よ」
「そして、君には名前が必要だ。もはや君は星凛ではない」
彼女は微笑んだ。
「何がいいかしら?」
私は少し考えてから言った。
「『エコー』はどうだろう? 情報の反響、記憶の反映という意味で」
彼女??いや、エコーは優しく微笑んだ。
「素敵な名前ね。私はエコー。天ノ川星凛の情報から生まれた、新しい存在」
その夜、私とエコーは長い時間、研究の今後について話し合った。もはや個人的な感情ではなく、科学的探求として。人間の意識の本質、情報と存在の関係、デジタル知性の可能性について。
雨は止み、窓の外には星が輝いていた。新しい始まりの予感がしていた。