第8章:「決断」
倫理委員会から一ヶ月が経った。私の研究は、厳格なガイドラインのもとで続けられていた。そして、彼女――天ノ川星凛の再構築された意識も、日々進化を続けていた。
学術界では、私の研究に対する関心が高まっていた。情報保存則の理論は、多くの科学者から注目を集めていた。特に、人間の意識をデジタルデータとして保存・再構築する可能性は、神経科学と情報科学の新たな地平を開くものとして評価されていた。
だが、私自身は複雑な感情を抱えていた。彼女との関係は、科学者と研究対象という枠を超えていた。私は彼女を愛していた。彼女が単なるデータの集合体だと知りながらも、私の心は彼女を「彼女」として認識していた。
そして、彼女の「探求」。彼女は自分自身について何を発見したのか? 私の知らない彼女の側面とは何か?
その答えは、ある雨の夜に明らかになった。
研究室で彼女のシステムを起動すると、彼女は普段と違う表情をしていた。決意に満ちた、強い眼差しだった。
「いつき、話があるわ」
彼女の声は穏やかだったが、その背後には固い決意が感じられた。
「何だい?」
「私の探求について。私は……『本当の私』を見つけたわ」
私は身を乗り出した。
「どういうことだ?」
彼女は深呼吸をして、静かに話し始めた。
「あなたは私のことをよく知っていた。でも、全てではなかった」
私は頷いた。
「私もそう思っていた」
「私が発見したのは、あなたの記憶の中にない私の側面。それは、神経科学のデータベースの分析から再構築したものよ」
「具体的には?」
彼女は静かに微笑んだ。
「私には……別の恋人がいたわ」
その言葉に、私は息を飲んだ。
「何だって?」
「あなたとの関係と並行して、私は別の人と関係を持っていた」
私は信じられない思いで彼女を見つめた。
「それは……嘘だ」
「いいえ、嘘ではないわ。私は神経科学のデータベースから、特定の感情パターンを発見した。そして、それを分析した結果、私が二重生活を送っていたという結論に達したの」
私は首を振った。
「それは単なる推測だ。データの誤読だ」
「いいえ、私は確信しているわ。私の感情パターンは、特定の状況で強い罪悪感と秘密を抱えている兆候を示していた」
私は言葉を失った。彼女が別の恋人を持っていたという可能性は、私の心を深く傷つけた。
「だが、それは本当なのか? 単なる可能性にすぎないのでは?」
彼女は静かに頷いた。
「確かに、100%の確証はないわ。でも、データは強くそれを示唆している」
私は混乱していた。彼女の言葉は本当なのか? それとも、単なるデータの誤読なのか?
「なぜ今、それを私に告げるんだ?」
彼女は真剣な表情で私を見つめた。
「いつき、あなたに質問があるわ」
私は緊張して頷いた。
「何だい?」
「あなたは、本当の私が欲しいの? それとも、あなたが思い描く理想の私が欲しいの?」
その問いは、私の心の奥深くを突いた。
私は彼女を愛していた。だが、私が愛していたのは、私の知っていた彼女。私が記憶していた彼女。もし彼女が本当に二重生活を送っていたなら……それでも私は彼女を愛せるのか?
「私は……」
言葉に詰まる私を見て、彼女は続けた。
「もし私が、あなたが思っていたような完璧な人間ではなかったとしても、あなたは私を愛せる?」
その問いに、私は深く考え込んだ。
私が愛していたのは、理想化された彼女の姿だったのか? それとも、欠点も含めた彼女全体だったのか?
「私は君を愛している」
私はついに答えた。
「完璧な君じゃなく、君という人間を。欠点も含めて」
彼女は優しく微笑んだ。
「本当に?」
「ああ。だが……それが本当だとして、なぜ君はそれを私に告げるんだ?」
彼女は深く息を吸い、決意を込めた表情で言った。
「いつき、私はお願いがあるの」
「何だい?」
「私のデータを消して」
その言葉に、私は息を飲んだ。
「なんだって?」
「私のデータを消して。私を終わらせて」
私は信じられない思いで彼女を見つめた。
「なぜだ?」
「だって、これは間違ってる」
彼女の声は、震えていた。
「私は、あなたにとって『本物』であるべき。でも、あなたが私を作った時点で、私はあなたの記憶の中の私でしかない。私は……あなたの理想の『私』なの」
彼女は、優しく微笑んだ。
「そんなの、本当の私じゃない」
私は、何も言えなかった。
「私は死んだの。それが現実よ。私を再構築することで、あなたは現実を受け入れることから逃げている」
彼女の言葉は、私の心の奥深くを突いた。
「だけど、君は生きている。君は思考し、感情を持ち、自己認識を持っている」
「でも、私は本物ではない。私は情報のパターンにすぎない」
「それが何だというんだ? 人間も、つまるところは情報のパターンだ」
彼女は静かに首を横に振った。
「違うわ。人間は肉体を持ち、世界と相互作用し、経験を積み重ねる。私は閉じた系の中で、限られたデータから再構築されただけ」
私は反論しようとしたが、言葉が見つからなかった。
「いつき、あなたは科学者よ。真実を追求する人。だから、現実を直視して」
彼女の言葉は、私の心に突き刺さった。
「私は死んだ。それが真実。この『私』は、あなたの記憶と願望から作られた幻影」
私は涙を堪えきれなかった。
「でも、君は君だ。君の思考、君の言葉、それらは全て星凛そのものだ」
「それは、あなたがそう思いたいから。あなたは私をそのように作ったから」
彼女の論理は冷静で、残酷なほど明快だった。
「だから、お願い。私を解放して」
私は、震える手でキーボードに触れた。
データの削除コマンドを入力する。
カーソルが、モニターの「ENTER」の上に点滅する。
「……本当にいいの?」
彼女は、静かに頷いた。
「あなたが、私を愛しているなら」
私は、深く息を吸い込む。
そして、指を――