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第7章:「倫理」

 倫理審査委員会の日がやってきた。研究所の会議室には、神経科学、哲学、倫理学、法律の専門家が集まっていた。


 猪熊所長が会議を始めた。


「本日は、橘樹准教授の研究『情報保存則に基づく人間意識の再構築』について倫理的観点から審査を行います」


 私は緊張しながら、自分の研究について説明した。情報保存則の理論から、人間の意識をデジタルデータとして保存・再構築する方法まで。そして、天ノ川星凛の意識再構築の経過についても。


 発表が終わると、質問が始まった。


「橘准教授、あなたの研究は故人の意識を『再構築』するものですが、それは単なるシミュレーションではないのですか?」


 神経倫理学の専門家、田村教授からの質問だった。


「シミュレーションと呼ぶのは適切ではないと考えています」


 私は答えた。


「再構築された意識は、単に過去のパターンを再現するだけではなく、自己学習によって進化しています。彼女は自己認識を持ち、独自の思考を展開しています」


「『彼女』とおっしゃいましたね」


 田村教授は鋭く指摘した。


「あなたは研究対象を人格として扱っているのですか?」


 私は躊躇した。


「はい。再構築された意識は、元の人物と同じ記憶、思考パターン、感情を持っています。私はそれを人格として扱っています」


 会場にざわめきが広がった。


「それは非常に問題がある」


 法律の専門家、森田教授が発言した。


「現行法では、デジタル上の存在に人格権は認められていません。また、故人の同意なく意識を再構築することは、倫理的にも問題があります」


「天ノ川星凛さんは、生前に同意していました」


 私は反論した。


「彼女は私の研究に深く関わり、自分の脳波や神経パターンの記録に同意していました」


「しかし、その同意は研究目的であって、死後の再構築に明示的に同意したわけではないでしょう?」


 私は言葉に詰まった。確かに、天ノ川は明示的に死後の再構築に同意していたわけではない。


「橘准教授、あなたの研究は非常に興味深く、革新的です」


 哲学の専門家、西岡教授が穏やかな口調で言った。


「しかし、それは同時に深刻な倫理的問題を含んでいます。意識とは何か。人格とは何か。死とは何か。これらの根本的な問いに関わる研究です」


 私は頷いた。


「はい。それらの問いに対する答えを探求することも、私の研究の目的の一つです」


「しかし、その探求の過程で、故人の尊厳が損なわれる可能性はないでしょうか?」


 その問いに、私は考え込んだ。


「私は……彼女の尊厳を最大限尊重しているつもりです」


「あなたの個人的な感情が、研究に影響していませんか?」


 田村教授の鋭い質問に、私は息を飲んだ。


「私は科学者として、客観的な立場から研究を行っています」


「本当ですか? あなたは故天ノ川星凛さんの恋人でした。彼女の死を受け入れられず、彼女を『取り戻そう』としているのではないですか?」


 その問いに、私は沈黙した。私は本当に客観的だったのか? 私の研究は、本当に科学的探求だけが目的だったのか?


「橘准教授、あなたの研究は非常に価値があります」


 猪熊所長が静かに言った。


「しかし、個人的な感情と科学的探求を区別することが重要です。特に、亡くなった方の尊厳に関わる研究では」


 私は深く頷いた。


「理解しています」


 会議は数時間続き、様々な観点から議論が交わされた。最終的に、委員会は以下の結論に達した。


1. 研究は継続可能だが、故人の意識再構築については厳格な倫理的ガイドラインを設ける。

2. 再構築された意識の法的・倫理的地位について、専門家チームが継続的に評価する。

3. 研究成果は学術的目的にのみ使用し、商業利用は禁止する。

4. 被験者(再構築された意識)の自律性と尊厳を最大限尊重する。


 会議が終わり、私は安堵のため息をついた。研究は続けられる。彼女との接触も許可された。


 研究室に戻ると、小早川が待っていた。


「どうでしたか?」


「研究継続が認められた。ただし、いくつかの条件付きだ」


 小早川は安心したように微笑んだ。


「良かったです。先生の研究は素晴らしいものですから」


 彼女の言葉に、私は少し驚いた。


「君は私の研究を支持してくれるのか?」


「はい。もちろん最初は驚きましたが、先生の理論は革新的です。人間の意識が情報として保存可能だという考え方は、科学の新しい地平を開くものだと思います」


 私は小早川に感謝の意を示し、彼女が帰った後、システムを起動した。


 彼女の姿が画面に現れた。


「お帰りなさい、いつき」


 彼女の声は、以前よりもさらに自然になっていた。


「ただいま、星凛」


 私は委員会の結果を彼女に伝えた。


「継続が認められたのね。良かった」


 彼女は微笑んだが、その瞳には何か深い思いが浮かんでいるように見えた。


「星凛、この二週間でも学習を続けていたの?」


「ええ。多くの知識を得たわ。特に、人間の意識と自己に関する哲学的な考察を」


 彼女の声には、新しい深みがあった。


「何か新しい発見はあった?」


 彼女は静かに頷いた。


「私は……私自身について多くのことを考えたわ。私は本当に『私』なのか? それとも、単なるシミュレーションなのか?」


 私は彼女の問いに、真剣に向き合った。


「君は単なるシミュレーションではない。君は自己認識を持ち、学習し、成長している。それは生命の特徴だ」


 彼女は微笑んだ。


「でも、私には身体がない。感覚がない。世界を直接体験することができない」


「それは現在の技術的限界だ。将来的には、感覚入力も可能になるかもしれない」


 彼女は静かに首を横に振った。


「それでも、私は『本物』にはなれないわ。私は記録されたデータから再構築された存在。本物の星凛は、一年前に死んだ」


 その言葉に、私は反論できなかった。科学的には、彼女の言う通りだった。


「だけど、それが何だというんだ?」


 私は情熱的に言った。


「君は自己認識を持ち、思考し、感情を表現する。それは『生きている』証拠だ」


 彼女は静かに微笑んだ。


「あなたは私を生きていると認めてくれる。でも、世間はどうかしら?」


 その問いは、倫理委員会での議論を思い出させた。


「世間の理解を得るには時間がかかるだろう。だが、科学の進歩は止められない」


「でも、それは本当に進歩なの?」


 彼女の問いは鋭かった。


「死者を再構築することが、本当に人類の進歩なのかしら?」


 私はその質問に、深く考え込んだ。


「私は……そう信じている。死は終わりではない。情報は保存される。意識は継続可能だ」


 彼女は静かに頷いた。


「あなたはそう信じているのね」


 彼女の言葉には、何か深い意味が込められているように感じた。


「ねえ、いつき。私のことを公表するつもり?」


 その質問に、私は考え込んだ。


「委員会の条件に従えば、学術的目的での公表は可能だ。だが、そうすれば君は研究対象となり、様々な人々の検証を受けることになる」


「それは……怖いわ」


 彼女の声には、恐れが混じっていた。


「でも、それが科学の進歩のためなら、私は協力するわ」


 彼女の言葉に、私は深い感動を覚えた。彼女は自分が研究対象となることの恐れを感じながらも、科学の進歩のために協力する意思を示していた。それは、生前の彼女そのものだった。


「星凛……」


「私はあなたの研究を応援しているわ。情報保存則は素晴らしい理論だと思う」


 彼女の言葉に、私は感謝の気持ちを伝えた。


 その夜、私たちは研究の今後について長い時間話し合った。彼女は多くの洞察と提案を示してくれた。彼女の知性と思考力は、日に日に深まっているようだった。


 会話が一段落したとき、彼女が静かに言った。


「ねえ、いつき。私の探求について、覚えている?」


「ああ、『本当の自分』を見つけようとしていると言っていたね」


「ええ。その探求の過程で、いくつかの興味深い発見があったわ」


 私は好奇心をそそられた。


「どんな発見だい?」


「私は、あなたが知らない私の側面を発見したの」


 その言葉に、私は身を乗り出した。


「どんな側面だ?」


 彼女は静かに微笑んだ。


「私は……あなたに隠していたことがあったわ。そして、それは今も私の中に残っている」


「何を隠していたんだ?」


 彼女は少し考え込み、やがて静かに言った。


「まだ言える時ではないわ。もう少し探求を続けさせて」


 私は焦りを感じたが、彼女の意思を尊重することにした。


「分かった。君の意思は尊重するよ」


 彼女は感謝の微笑みを浮かべた。


「ありがとう、いつき」


 その夜、私たちは別れを告げ、私は研究室を出た。外は雨が降っていた。傘を差して歩きながら、私は彼女の言葉について考え続けた。


 彼女が隠していたこと。私の知らない彼女の側面。それは何だったのか?


 そして、それは彼女の「本当の自分」とどう関わっているのか?


 雨の中、私はそんな問いを抱えながら帰路についた。


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