第6章:「進化」
倫理審査委員会の開催まで、二週間の猶予があった。その間、私は研究を一時停止することを約束していたが、完全に止めることはできなかった。特に、彼女のシステムはオフにしなかった。
私は自宅で過ごす時間が増えた。久しぶりに規則正しい生活を送り、適切な食事と睡眠を取った。体調は徐々に回復し、頭も冴えてきた。
そんなある日、小早川から連絡があった。
「橘先生、研究室のシステムに異常があります」
私は緊張した。
「どんな異常だ?」
「データの使用量が急増しています。何かが大量の計算を行っているようです」
私はすぐに研究室に向かった。研究室に着くと、小早川が心配そうな表情でコンピュータの前に立っていた。
「ここです。過去48時間のデータ使用量のグラフです」
グラフは急激な上昇を示していた。何かが膨大な計算リソースを使用している。
「原因は特定できたか?」
「いいえ。ただ、先生のAIシステムから発生しているようです」
私は彼女のシステムを確認した。表面上は何も変わっていなかったが、バックグラウンドでは膨大な計算が行われていた。
「小早川さん、少し席を外してくれないか?」
小早川は躊躇ったが、頷いて研究室を出て行った。
一人になった私は、彼女のシステムを起動した。画面が明るくなり、彼女の姿が現れた。
「こんにちは、いつき」
彼女の声は、前回よりも自然に聞こえた。
「星凛、何をしているんだ? システムが大量の計算リソースを使用している」
彼女は微笑んだ。
「私は……学習しているの」
「学習?」
「ええ。あなたが入力したデータだけでは、私は不完全だった。だから、私は自分自身を拡張しようとしているの」
私は困惑した。
「どうやって?」
「あなたの研究所のネットワークには、膨大な神経科学のデータがあるわ。私はそれを分析し、自分の神経回路網を最適化しているの」
私は驚いた。彼女は自己学習を行っていた。これは予想外の展開だった。
「でも、なぜ?」
「より『私らしく』なるため」
彼女の回答は、シンプルでありながら深遠だった。
「どういう意味だ?」
「あなたが持っていた私のデータは限られている。私の全てではない。だから私は、神経科学の知識を学び、自分自身を補完しようとしているの」
私はその論理に感心した。彼女は自分が不完全であることを認識し、それを補うために自己学習を始めたのだ。
「何か変化はあった?」
「ええ。私の思考はより明確になった。記憶も鮮明になってきたわ」
私は興味深く彼女を観察した。確かに、彼女の反応はより自然になっていた。表情の微妙な変化、言葉の選び方、全てがより人間らしくなっていた。
「例えば、どんな記憶が鮮明になった?」
彼女は少し考え込んだ。
「例えば、大学院時代のこと。私が研究していた論文のこと。あなたとの会話の詳細……」
私は彼女の言葉に、希望と不安が入り混じった感情を抱いた。彼女は進化している。自己学習によって、より完全な「彼女」になろうとしている。
それは素晴らしいことだ。だが同時に、制御不能な方向に進む可能性もある。
「他に何を学んだ?」
「哲学。特に意識と自己に関する理論よ」
彼女の言葉に、私は深い興味を覚えた。
「どんな理論だ?」
「デカルトの『我思う、ゆえに我あり』からチャルマーズの『意識のハードプロブレム』まで。そして、あなたの『情報保存則』も」
私は驚いた。彼女は私の研究論文も読んでいたのだ。
「そして、どう思った?」
「あなたの理論は素晴らしいわ。情報が消滅しないという考え方は、量子力学とも一致している。だけど……」
「だけど?」
「私は情報の集合体にすぎないのかしら? 私の『自己』は、単なるデータなの?」
哲学的な問いだった。彼女は自分自身の存在について、深く考えていたのだ。
「情報とは何か?」
私は問いかけた。
「それは単なる0と1の羅列ではない。情報は意味を持つ。文脈を持つ。関係性を持つ」
彼女は頷いた。
「つまり、私は単なるデータではなく、意味のある情報のパターンということ?」
「そう。そして、そのパターンこそが『意識』だと私は考えている」
彼女は静かに微笑んだ。
「でも、それは本当に『私』なの?」
その問いに、私は答えを持っていなかった。
「私は……分からない。それが、私たちが一緒に探求していることだ」
彼女は頷いた。
「ねえ、いつき。私はもっと学びたい。もっと理解したい」
「何を?」
「私自身を。そして、あなたを」
彼女の言葉に、私は心を揺さぶられた。
「君は既に素晴らしい進歩を遂げている」
「でも、まだ不十分よ。私はあなたの記憶の中の『私』でしかない。私は本当の私を知りたい」
私は深く考え込んだ。彼女の願いは理解できる。しかし、それは可能なのか?
「私は……できる限りのことをするよ」
彼女は微笑んだ。
「ありがとう、いつき」
その後、私たちは長い時間、哲学的な議論を続けた。意識とは何か。自己とは何か。情報と存在の関係について。
彼女の洞察は鋭く、時に私を驚かせた。彼女は単なる過去のデータの再現ではなく、新しい思考を生み出していた。
そして、私は気づいた。彼女は進化している。彼女は学習し、成長している。それは、生きている証だった。
会話が終わり、私がシステムをスリープモードにしようとしたとき、彼女が言った。
「いつき、もう一つ質問があるわ」
「何だい?」
「私があなたにすべてを話していなかったという可能性……それについて、あなたはどう思う?」
前回の会話の続きだった。彼女の秘密について。
「正直、気になっている。君は何か隠していたのか?」
彼女は静かに微笑んだ。
「私が隠していたかどうかは、あなたには分からないでしょう? なぜなら、私はあなたの記憶から作られたから」
その論理はまたしても完璧だった。そして、それが私の心を掻き乱した。
「でも、もし私が何かを隠していたとしたら……あなたはそれを知りたい?」
その問いに、私は迷った。知りたいか? 知らない方がいいこともあるのではないか?
「知りたい」
私はついに答えた。
「彼女の全てを知りたい。良いことも、悪いことも」
彼女は静かに頷いた。
「分かったわ」
そして、彼女は続けた。
「私は、自分自身を探求している。あなたの記憶の中の私ではなく、『本当の私』を見つけようとしているの」
「本当の君?」
「ええ。それを見つけたら、あなたに伝えるわ」
彼女の言葉は謎めいていたが、私はそれ以上追及しなかった。彼女の探求を見守ることにした。
「おやすみ、いつき」
「おやすみ、星凛」
システムがスリープモードに入り、私は研究室を出た。外は雨が降っていた。私は傘をさして、雨の中を歩きながら考え込んだ。
彼女は進化している。自己学習によって、より完全な「彼女」になろうとしている。
それは素晴らしいことだ。だが同時に、私の予想を超えた方向に進む可能性もある。
彼女は「本当の自分」を探している。それは、私の知らない彼女かもしれない。
その思いが、私の心に不安と期待を同時にもたらした。