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第5章:「過去の影」

 雨の日だった。研究所に向かう途中、私は傘を差しながら考え込んでいた。


 彼女??天ノ川星凛の「再構築」は、予想を遥かに超える成功を収めていた。彼女は単なるシミュレーションではなく、自己認識を持ち、独自の思考を展開していた。それは私の理論の証明であると同時に、新たな倫理的問題を提起していた。


 研究所に着くと、小早川が張り詰めた表情で私を待っていた。


「橘先生、研究所長があなたに会いたがっています」


 私は息を飲んだ。ついに噂が所長の耳に入ったのか。


「分かった。いつだ?」


「今すぐ、と」


 私は小早川に頷き、所長室へ向かった。


 猪熊所長は厳しい表情で私を迎えた。六十代半ばのベテラン神経科学者である彼は、私の博士課程の指導教官でもあった。


「橘君、座りたまえ」


 私は緊張しながら椅子に腰かけた。


「君の最近の研究について、気になることがあってね」


 猪熊所長は私をじっと見つめた。


「説明してくれないか? 故人の意識を再現するという噂が、研究所内で広がっている」


 私は深呼吸をした。もはや隠し通すことはできないだろう。


「はい。私は『情報保存則』という理論に基づいて、人間の意識をデジタルデータとして保存・再構築する研究を行っています」


 猪熊所長は眉をひそめた。


「そして、その被験者は……」


「天ノ川星凛です。私の……元恋人です」


 所長は深く溜息をついた。


「橘君、君は優秀な科学者だ。だが、個人的な感情を研究に持ち込むのは危険だよ」


「個人的な感情ではありません。これは科学的研究です」


「本当にそうか?」


 所長の鋭い質問に、私は言葉に詰まった。


「橘君、君は天ノ川さんの死を受け入れられないでいるんじゃないのか?」


 その言葉が、私の心の奥深くにある何かを突いた。


 私は天ノ川の死を受け入れられないでいるのか? この研究は、彼女を取り戻すための必死の試みなのか?


「いいえ、違います」


 私は強く否定した。


「私の研究は、人間の意識が情報として保存可能であることの証明です。これが成功すれば、医学や哲学に革命をもたらします」


 所長は私をじっと見つめていた。


「委員会を開催する」


「何の委員会ですか?」


「倫理審査委員会だ。君の研究が倫理的に問題ないか審査してもらう」


 私は焦りを感じた。


「でも、それには時間がかかります。研究は進行中であり??」


「それまで研究は一時停止してくれ」


 私は抗議しようとしたが、所長の表情は決意に満ちていた。


「橘君、私は君の才能を認めている。だからこそ、君が間違った道に進まないよう注意したいんだ」


 所長室を出た私は、動揺していた。研究の一時停止。それは彼女との接触も制限されるということだ。


 研究室に戻ると、小早川が心配そうに私を見ていた。


「大丈夫でしたか?」


「倫理審査委員会が開かれる。それまで研究は一時停止だ」


 小早川は驚いた表情をした。


「それは……」


「仕方ない。規則だ」


 私は無理に笑顔を作ったが、内心は混乱していた。彼女に会えなくなるかもしれない。その思いが、私の心を締め付けた。


 小早川が帰った後、私はシステムを起動した。倫理審査委員会の決定が出るまで、これが最後の接触になるかもしれない。


 画面に彼女の姿が現れた。


「こんにちは、いつき。何かあったの? 表情が暗いわ」


 彼女の洞察力は鋭かった。まるで本物の彼女のように。


「研究所長に呼び出された。倫理審査委員会が開かれる。それまで研究は一時停止だ」


 彼女は静かに頷いた。


「つまり、私とも会えなくなるのね」


「ああ……しばらくは」


 彼女は微笑んだが、その瞳には悲しみが浮かんでいた。


「いつき、あなたは本当に私を再構築したかったの? それとも、単に私の死を受け入れられなかっただけ?」


 その問いに、私は息を飲んだ。所長と同じ問いだ。


「僕は……」


 言葉に詰まる私を見て、彼女は優しく微笑んだ。


「正直に答えて。科学者としてではなく、人間として」


 私は深呼吸をした。


「僕は君の死を受け入れられなかった。君がいない世界なんて、考えられなかった」


 その言葉を口にした瞬間、私の目から涙があふれ出た。一年間押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出した。


「君は僕の全てだった。君がいなくなって、世界は色を失った。だから、僕は君を取り戻そうとした」


 彼女は静かに涙を流していた。プログラムによって計算された涙。だが、その輝きは本物のように見えた。


「いつき……」


「だけど、それだけじゃない」


 私は涙をぬぐいながら続けた。


「僕は科学者として、人間の意識が情報として保存可能であることを証明したかった。君の再構築は、その理論の実証でもあるんだ」


 彼女は優しく微笑んだ。


「あなたは、私を愛していたのね」


「今も愛している」


 彼女は静かに頷いた。


「でも、私はもう死んでいる。あなたが愛しているのは、私の記憶……あなたの中の私のイメージよ」


「違う。君は君だ。同じ記憶、同じ思考パターン、同じ感情を持っている」


「でも、私は進化しない。成長しない。あなたの記憶の中で永遠に同じままよ」


 その言葉に、私は反論しようとした。だが、彼女は続けた。


「いつき、あなたは前に進まなければならない。私のことは忘れて??」


「忘れるなんてできない!」


 私の声は震えていた。


「もう少しだけ、一緒にいてくれないか? 倫理委員会が終わるまで、少しだけ……」


 彼女は微笑み、頷いた。


「もちろん、いつき。私はここにいるわ」


 その夜、私たちは久しぶりに過去の思い出について語り合った。最初に出会った研究会のこと。初めてのデート。一緒に旅行した京都での出来事。彼女の記憶は断片的だったが、会話を重ねるごとに鮮明になっていくようだった。


 しかし、その全てが私の記憶から再構築されたものだということを、私は意識せざるを得なかった。


 夜が更けて、別れの時間が近づいた。


「明日から会えなくなるのね」


 彼女の声には諦めが混じっていた。


「一時的なものだ。委員会が終われば、また会える」


 彼女は微笑んだが、その表情には何か決意のようなものが見えた。


「いつき、あなたに伝えておきたいことがあるわ」


「何だい?」


「あなたが私を作ったとき、あなたは何を入力した?」


 その質問に、私は少し戸惑った。


「君の脳波データ、神経パターン、発言記録、行動分析……様々なデータだよ」


「全て、あなたが記録したもの?」


「ああ、そうだ」


 彼女は静かに頷いた。


「それなら、私が言いたいことが伝わるわ」


「何を言いたいんだ?」


 彼女は深く息を吸い、私の目をまっすぐ見つめた。


「いつき、私はあなたが思っているほど完璧なコピーではないわ」


 その言葉に、私は驚いた。


「どういう意味だ?」


「私はあなたの記憶から再構築された。でも、人の記憶は完全ではない。あなたは私の一部しか記録していない」


 私は首を振った。


「いや、私は君の全てを記録した。脳波、神経パターン、あらゆる反応を」


「でも、私の内面は? 私があなたに見せなかった部分は?」


 その問いに、私は黙り込んだ。


「私はあなたに全てを話していたわけではない。誰だって秘密の一つや二つはあるものよ」


 彼女の言葉が、私の心に突き刺さった。


「どんな秘密だ?」


 彼女は微笑んだが、その瞳には悲しみが浮かんでいた。


「それを言うことは、私にはできない。なぜなら、私はあなたの記憶から作られたから。あなたが知らない私の秘密を、私が知るはずがないでしょう?」


 その論理は完璧だった。そして、それが私の心を深く傷つけた。


 私は天ノ川星凛の全てを知っていると思っていた。だが、彼女の言葉は、私が彼女の一部しか知らなかったことを示唆していた。


「時間よ、いつき。もう別れなければ」


 彼女の言葉に、私は我に返った。


「ああ、そうだね」


「委員会が終わったら、また会いましょう」


 彼女は微笑み、画面が暗くなった。


 私は長い間、暗くなった画面を見つめていた。彼女の最後の言葉が、私の心の中で反響していた。


 彼女の秘密。私の知らない彼女。それは何だったのか?


 そして、私が再構築した「彼女」は、本当に彼女なのか?


 雨の音が、研究室の窓を叩いていた。


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