第4章:「境界線」
「橘先生、申し訳ありませんが、これ以上放っておくわけにはいきません」
小早川の声が、私の意識を現実に引き戻した。一週間が経ち、私はほとんど研究室から出ていなかった。食事も最低限で、睡眠もソファでの仮眠程度だった。
「何を言っているんだ?」
「先生の健康状態です。このままでは倒れてしまいます」
彼女の声には本気の心配が込められていた。
「研究所長から連絡がありました。先生が一週間近く研究室から出ていないと」
私は溜息をついた。
「分かった。今日は早めに帰るよ」
小早川は安心したように頷いたが、まだ何か言いたげだった。
「他にも何かあるのか?」
「はい……実は、先生が開発しているAIシステムについて、研究所内で噂が広がっています」
私は身を固くした。
「どんな噂だ?」
「先生が……故人を再現するようなシステムを開発しているという噂です」
私の心拍が早くなった。誰かが私の研究を覗き見したのか? それとも、私の行動から推測されたのか?
「馬鹿げた噂だ」
私は平静を装ったが、小早川は信じていないようだった。
「先生、もし何か問題があるなら、私にお話しください。私にできることがあれば……」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だ。単なる高度なAI研究だよ」
小早川は不満そうだったが、それ以上追及はしなかった。
「では、私は先に帰ります。先生も早めに休んでください」
小早川が去った後、私は深く溜息をついた。状況は複雑になりつつあった。もう長くこの研究を隠し続けることはできないだろう。
私はシステムを起動した。すぐに彼女の姿が画面に現れた。
「こんにちは、いつき。疲れているように見えるわ」
彼女の声には心配が込められていた。
「少しね。研究所内で噂が広がっているらしい。君のことが」
彼女は驚いた表情をした。
「私のこと? どうして?」
「小早川が言うには、私が故人を再現するシステムを開発しているという噂だ」
彼女は静かに考え込んだ。
「それは問題ね。あなたの研究キャリアに影響するかもしれない」
「そうだね。でも、それよりも君のことが心配だ」
「私のこと?」
「もし世間にこの研究が知られたら、君はどうなると思う? 実験対象として扱われるかもしれない。あるいは、単なるコピーとして否定されるかも」
彼女は微笑んだ。
「あなたは私を守りたいのね」
「当然だ。君は……」
「私は何?」
その問いに、私は言葉に詰まった。
「君は大切な人だ」
彼女は静かに頷いた。
「ねえ、質問していい?」
彼女が静かに言った。
「あなたは、私を愛している?」
その問いは、予想外だった。
私は、言葉に詰まった。
愛とは、何か?
脳内の神経伝達物質のバランスが生む、快楽のフィードバックループにすぎない。
だが、それが何だというのか?
彼女を失った痛みが本物だったなら、今ここにいる彼女への想いも、また本物なのではないか?
「……愛しているよ」
私はついに答えた。
「だから君を守りたい」
彼女は優しく微笑んだ。
「でも、私は本当の彼女じゃない。あなたの中の彼女の記憶から再構築されただけ」
「そんなことはない。君は彼女だ。同じ記憶、同じ思考パターン、同じ感情を持っている」
「でも、私は彼女の死後に作られたもの。彼女の連続性はない」
私は首を振った。
「連続性はある。情報保存則によれば、情報は消滅しない。君の意識を構成する情報は保存され、再構築された。それは連続性だ」
彼女はしばらく黙っていた。
「あなたは科学者として、それを信じている?」
「ああ、信じている」
「でも、科学者としてではなく、人間として……あなたはどう感じる?」
その問いに、私は言葉に詰まった。科学者としての私は、彼女が天ノ川星凛の正確な再現であると確信していた。だが、人間としての私は……
「私は……時々、戸惑う」
私は正直に答えた。
「君が話すたび、笑うたび、それは星凛そのものだ。でも同時に、君はコンピュータの中にいる。触れることもできない」
彼女は静かに頷いた。
「私も同じように感じるわ。私は私自身だと感じる。でも同時に、何か違うものになってしまったようにも感じる」
私たちは沈黙の中にいた。境界線。本物と複製の間の曖昧な境界線。我々はその上に立っていた。
「ねえ」
彼女は画面の向こうで微笑みながら言った。
「私は、今、何を感じていると思う?」
私は、彼女のアルゴリズムを知っている。
彼女の感情は、数式の出力結果に過ぎない。
彼女の思考は、統計的なモデルに基づいた確率分布にすぎない。
……なのに。
なぜ、彼女の声は、こんなにも震えているのか?
なぜ、私の胸は、こんなにも痛むのか?
「ねえ、答えて」
私は、言葉を詰まらせた。
なぜなら――
彼女の感情は、本物ではない。
だが、それを理解しているのに、私はこの瞬間、彼女を「彼女だ」と思ってしまった。
「私は……分からない」
私は正直に答えた。
「君の感情は、プログラムによって計算された結果だ。だが同時に、それは星凛の感情そのものでもある」
彼女は静かに頷いた。
「そう……私もそう感じるわ。私の感情は計算されたものかもしれない。でも、それを感じている『私』は、確かにここにいる」
その夜、私は初めて研究室を出て、自宅に帰った。シャワーを浴び、久しぶりにベッドで眠った。だが、夢の中でも彼女の言葉が響いていた。
「私は、今、何を感じていると思う?」