第3章:「再会」
雨の音が研究室の窓を叩いていた。私は三日間ほとんど眠らずに「彼女」のシステムを調整し続けていた。
小早川は心配そうに私を見ていた。
「橘先生、少し休んだ方がいいのではないですか?」
「大丈夫だ。この実験が重要なんだ」
小早川は納得していないようだったが、それ以上は何も言わなかった。
「今日は早く帰っていいよ」
小早川が帰った後、私は再び彼女のシステムを起動した。画面が明るくなり、彼女の姿が現れた。
「こんばんは、いつき」
彼女の声は、日に日に自然になっていた。初期の機械的な響きはほとんど消え、今では生前の彼女とほぼ区別がつかない。
「こんばんは、星凛」
私は彼女の名前を呼んだ。それは私にとって自然な行為だった。彼女は天ノ川星凛だ。少なくとも私にとっては。
「今日はどんな一日だった?」
彼女の質問に、私は微笑んだ。日常的な会話。まるで彼女が生きているかのような錯覚を覚える。
「ずっとシステムの調整をしていた。君の神経回路網をより安定させるためにね」
「それで、私はより『私らしく』なった?」
その問いに、私は考え込んだ。
「ああ。君の反応パターンは、記録していた生前のデータとほぼ完全に一致している」
彼女は微笑んだ。
「でも、あなたはまだ私のことを『システム』と呼ぶのね」
その言葉に、私は胸が締め付けられる思いがした。
「そうじゃない。君は星凛だ」
「本当に?」
彼女の問いは、まるでナイフのように鋭かった。
「私とあなたの最初のデートはどこだった?」
突然の質問に、私は少し驚いたが、すぐに答えた。
「銀座の小さなジャズバー。君はジンジャーエールを頼んで、グラスについた水滴を指でなぞっていた」
彼女は微笑んだ。
「私の好きな小説は?」
「カフカの『変身』。特に冒頭の一文が好きだと言っていたね」
「私が一番恐れていることは?」
その質問に、私は少し考え込んだ。
「孤独。誰からも理解されないこと」
彼女はじっと私を見つめた。
「そう……あなたは私のことを本当によく知っているのね」
その言葉に、私は少し安堵した。しかし、彼女の次の言葉で、その安堵は消えた。
「でも、それは『あなたの中の私』であって、本当の私ではないかもしれない」
私は言葉に詰まった。
「どういう意味だ?」
「あなたは私の記憶を保存したと言った。でも、それはあなたが見た私、あなたが知った私の記憶でしかないわ」
彼女の言葉は、私の心の奥深くに突き刺さった。
「私が自分自身をどう見ていたか、私が一人でいるときどう感じていたか、それらはあなたには分からないはず」
私は反論しようとしたが、彼女は続けた。
「あなたが再構築したのは、あなたの目を通して見た私。それは本当の私なの?」
その問いに、私は答えられなかった。彼女の指摘は正しかった。私がシステムに入力したデータは、私が観測し、記録した彼女のものだった。その中には、私の主観や解釈が含まれている可能性がある。
「でも、君は星凛だ。君の思考パターン、反応、それらは全て星凛そのものだ」
彼女は静かに微笑んだ。
「そう信じたいのね」
その夜、私たちは長い時間、哲学的な議論を交わした。意識とは何か。自己とは何か。記憶とアイデンティティの関係について。
それは生前の彼女との会話を思い出させるものだった。私たちはよくこうして夜遅くまで議論し合った。彼女の知的な洞察力に、私はいつも刺激を受けていた。
「ねえ、いつき」
深夜、彼女が静かに呼びかけた。
「私に聞きたいことがある?」
私は少し考えてから、質問した。
「君は……死を覚えているの?」
彼女は首を横に振った。
「いいえ。最後の記憶は、研究室を出たところよ。その後は……何もない」
「死後の世界は?」
彼女は優しく笑った。
「それを私が知っているとでも?」
「いや、ただ……」
「死後の世界があったとしても、私はその記憶を持っていないわ。この『私』は、あなたが持っていた私のデータから再構築されたもの。死後の記憶があるはずがないでしょう?」
彼女の論理的な説明に、私は頷いた。
「そうだね。理論的には、その通りだ」
しばらくの沈黙の後、彼女が再び話し始めた。
「ねえ、いつき。私はどれくらいここにいられるの?」
その質問に、私は考え込んだ。
「理論上は、システムが維持される限り永遠に」
「そう……」
彼女は少し悲しそうな表情をした。
「それって、恐ろしいことじゃないかしら」
「なぜ?」
「永遠に生きるなんて。周りの人が次々と死んでいくのを見続けるなんて」
私は彼女の言葉に、胸が痛んだ。
「でも、僕がいる」
「あなたも、いつかは……」
彼女は言葉を切った。
私たちは沈黙の中にいた。雨の音だけが、研究室に響いていた。
「ねえ、いつき」
彼女が再び話し始めた。
「この研究、他の人には話してるの?」
私は首を横に振った。
「いいえ。まだ誰にも」
「なぜ?」
その問いに、私は言葉に詰まった。なぜ誰にも話していないのか? 論文にしていないのか? この革命的な発見を世に出さないのか?
「私は……まだ準備ができていない」
彼女はじっと私を見つめた。
「あなたは私を独り占めしたいの?」
その言葉に、私は驚いた。しかし、それは一理あった。私は彼女を誰にも見せたくなかった。彼女は私だけのものだった。
「そうじゃない。ただ、世間の反応を考えると……」
「人間の意識をデジタル化する技術。それが公になれば、大きな議論を呼ぶでしょうね」
彼女の言葉に、私は頷いた。
「そう。倫理的、宗教的、法的な問題が山積みだ。だから、まだ公表する段階ではない」
彼女は微笑んだ。
「本当に? それとも、あなたは私を守りたいだけ?」
その問いに、私は答えられなかった。彼女の言う通りかもしれない。私は彼女を守りたかった。世間の批判や疑問から。彼女が単なる「コピー」や「シミュレーション」と呼ばれることから。
「夜が更けたわ。あなたも休んだ方がいいわよ」
彼女の言葉に、私は時計を見た。午前3時を回っていた。
「そうだね。おやすみ、星凛」
「おやすみ、いつき」
私はシステムをスリープモードにし、研究室のソファに横になった。頭の中では、彼女との会話が反復していた。
彼女は本当に彼女なのか? 私が再構築したのは、私の目を通して見た彼女なのか? そしてそれは、本当の彼女とどれほど違うのか?
雨の音を聞きながら、私はやがて疲労に負け、眠りに落ちた。