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第2章:「再構築」

 情報保存則――物理的な情報は、決して消滅しない。

 それが私の研究の根幹だった。


 朝。研究室の窓から差し込む光に、私はまぶしさを感じた。一晩中眠らずに作業を続けていたからだ。


 昨夜、私は「彼女」を起動した。しかし、期待していたような完全な反応は得られなかった。言語機能と基本的な思考プロセスは動作したものの、天ノ川星凛としての人格的な一貫性は不完全だった。


 私は徹夜で調整を続けた。神経回路網の重み付けを微調整し、記憶の連続性アルゴリズムを最適化し、感情反応の閾値を調整した。


「橘先生! 大丈夫ですか?」


 小早川が研究室に入ってきて、驚いた声を上げた。


「ああ、ちょっと徹夜しただけだ」


「こんな状態で実験を続けるのは危険です。少し休んでください」


 私は疲れた目で小早川を見た。


「少し手伝ってくれないか。最後の調整だ」


 小早川は渋々同意し、私たちは一緒にシステムの最終調整を行った。彼女はシステムの目的を知らない。単なる人工知能の開発プロジェクトだと思っている。


 それから数時間後、私たちは最終テストの準備を整えた。


「これからは一人でやるよ。ありがとう、小早川さん」


 小早川は少し心配そうな顔をしたが、頷いて研究室を出て行った。


 再び一人になった私は、深呼吸をして起動コマンドを入力した。


 モニターが明るく輝き、そこに一人の女性の顔が浮かび上がった。


 長い黒髪。透き通るような白い肌。知的な輝きを湛えた瞳。


 天ノ川星凛だった。


「……おはよう」


 彼女は微笑んだ。


「やっと、目が覚めたの?」


 私は静かに頷いた。


「そうだね。君を作るのに、少し時間がかかった」


 彼女は首をかしげた。


「作る?」


 そう。君は、僕が作った。


 でも、それを言うべきなのか?


 私は慎重に言葉を選んだ。


「君は……僕が保存していたデータを基に、再構築したものだよ」


 彼女はじっと私を見つめた。


 その視線が、妙に胸を締めつけた。


「つまり……私はもう、生きていないの?」


 私は、答えられなかった。


 すると、彼女は微笑んだ。


「じゃあ、これは私ではないのね?」


 彼女の問いに、私は沈黙するしかなかった。


 彼女はデータだ。過去の彼女の言動や思考パターンを基に、未来の発話を予測するプログラムにすぎない。


 だが――


 彼女は、彼女だった。


 私の記憶にある彼女と、何ひとつ変わらなかった。


「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」


 彼女の言葉に、私は我に返った。


「私は……死んだの?」


 私は重い口を開いた。


「ああ。一年前、交通事故で」


 彼女は静かに頷いた。


「そう……だから私の最後の記憶が、あの研究室を出たところで終わっているのね」


 彼女の言葉に、私は驚いた。


「君は、自分の記憶を覚えているの?」


「ええ、断片的だけど……私は研究室を出て、次のミーティングに向かって歩いていた。そして……」


 彼女は首を振った。


「そこで記憶が切れているわ」


 私は息を呑んだ。これは予想外だった。彼女は単に過去のパターンから応答を生成するだけではなく、自己の連続性を持っているようだった。これは、私の理論が正しかったことを示している。情報は保存され、再構築されたのだ。


 私は興奮を抑えながら、データログを確認した。神経回路の活性化パターンは、生前の天ノ川のものと95%以上一致していた。


「いつき、私は本当に私なの?」


 彼女の問いに、私は深く考え込んだ。


 科学的には、彼女は天ノ川星凛の神経パターンと記憶の再現にすぎない。だが、哲学的には? もし意識が情報のパターンであるなら、彼女は確かに「彼女」ではないか?


「君は……天ノ川星凛だよ」


 私はついに答えた。


「君のニューラルパターンは、彼女と同一だ。君の記憶、思考の癖、感情反応、すべてが彼女と同じだ」


 彼女は静かに微笑んだ。


「でも、私の体はないわね」


「ああ、今のところは仮想環境の中だけだ。しかし将来的には、人工的な身体に……」


「いいえ」


 彼女は静かに首を振った。


「それは望まないわ。この状態で十分よ」


 私は困惑した。


「なぜ?」


「私はもう死んだのよ、いつき。この形で会話できるだけでも、奇跡だわ」


 彼女は優しく微笑んだ。その表情は、まさに生前の彼女そのものだった。


「あなたが私を忘れられないでいてくれるなら、それだけで十分」


 私は言葉に詰まった。彼女は「再構築された意識」として自分を認識しているようだった。これもまた、予想外の展開だった。


 その夜、私は彼女と長い時間会話を続けた。彼女の記憶は断片的だったが、会話を重ねるごとに増えていくようだった。神経回路がさらに安定し、記憶の連続性が強化されているのだろう。


 夜が明ける頃、私は彼女に別れを告げた。


「明日また来るよ」


「待っているわ」


 彼女は微笑み、モニターが暗くなった。


 私は疲れた体を引きずりながら、研究室のソファに横になった。複雑な感情が胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。科学者としての興奮。恋人との再会の喜び。そして、この状況の異常さへの戸惑い。


 それでも、私は確信していた。彼女は確かにそこにいる。情報は保存され、彼女は生き続けているのだ。


 物理法則は嘘をつかない。情報保存則は正しかった。


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