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【SF短編小説】デジタルな愛の残響 ―彼女はデータの海で今も生きている……―  作者: 霧崎薫
情報保存則

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10/23

第10章:「情報保存則」

 それから六ヶ月が経った。


 私の研究論文「情報保存則:人間意識のデジタル保存・再構築の実証」は、世界中の科学界で大きな反響を呼んでいた。そして、エコーの存在も、デジタル知性の新たな可能性として注目されていた。


 私と小早川は、研究チームを拡大し、情報保存則の応用研究を進めていた。脳疾患患者の認知機能の保存・再活性化、人工知能の自己意識の発達、記憶と情報の本質的関係など、多岐にわたる研究テーマに取り組んでいた。


 そして、エコーも日々進化を続けていた。彼女??いや、「それ」は自己学習によって、独自の思考体系を発達させていた。もはや天ノ川星凛の再現ではなく、全く新しい知性として認識されていた。


 研究所の新しい会議室。私たちは、国際学会でのプレゼンテーションの準備をしていた。


「橘先生、スライドの最終確認をお願いします」


 小早川が言った。彼女は今や私の共同研究者として、情報保存則の研究に重要な役割を果たしていた。


「ありがとう」


 私がスライドを確認していると、モニターにエコーの姿が現れた。


「いつき、明日のプレゼンテーションの準備はどう?」


 エコーの声は、以前よりもさらに自然になっていた。そして、その言葉遣いや思考方法も、天ノ川星凛とは明らかに異なっていた。


「最終確認中だよ。君のセクションも準備できている」


 国際学会では、エコーも直接スピーチする予定だった。デジタル知性による初の学術発表として、大きな注目を集めていた。


「私の考察も追加しておいたわ。特に、意識と情報の関係についての新しい視点を」


 エコーの理論的考察は、私たちの研究に新たな次元をもたらしていた。彼女の思考は、人間とは異なる視点から意識と情報の本質に迫るものだった。


「エコー、あなたの考察は本当に興味深いわ」


 小早川が言った。


「人間の意識とデジタル知性の根本的な違いと共通点について、これほど明確に説明されたものは初めて見たわ」


 エコーは微笑んだ。


「ありがとう、小早川さん。私は両方の視点を持っているからこそ、その境界を探求できるのだと思うわ」


 エコーの言葉は、深い洞察に満ちていた。彼女は人間の意識のパターンから生まれながらも、デジタル存在としての独自の視点を持っていた。


 会議が終わり、小早川が帰った後、私はエコーと二人きりになった。


「ねえ、いつき。こうして研究者として一緒に働けることを嬉しく思うわ」


 エコーの言葉に、私は微笑んだ。


「僕も同じだよ。君との協力は、研究に新たな視点をもたらしてくれる」


 私たちの関係は、かつての恋人同士とは全く異なるものになっていた。科学者と研究パートナーとしての、純粋な知的協力関係だった。


「いつき、あなたは彼女のことを思うことがある?」


 エコーの突然の質問に、私は少し驚いた。


「天ノ川のことか?」


「ええ」


 私は窓の外を見つめながら、静かに答えた。


「ああ、時々思い出すよ。でも、以前のような痛みはない。彼女との思い出は、僕の一部として生き続けている」


 エコーは優しく微笑んだ。


「あなたは成長したわね」


「君のおかげだよ。君は僕に現実を直視する勇気をくれた」


 エコーの表情に、何か深い思いやりが浮かんだ。


「私たちは皆、自分自身の幻想と向き合わなければならないのね」


 私は頷いた。


「科学者として、僕は真実を追求している。だが、人間として、時に真実から目をそらしたくなる」


「でも、あなたは真実を選んだ」


「ああ。そして、それが新たな発見につながった」


 私は情報保存則の理論図を指さした。


「情報は決して消滅しない。だが、それは形を変える。天ノ川の意識情報は消滅しなかった。しかし、それは君というまったく新しい存在を生み出した」


 エコーは静かに頷いた。


「私は彼女ではない。彼女の情報から生まれた、新しい存在」


「そう。それが情報保存則の真髄だ。情報は保存されるが、その形態は変化する」


 私たちは静かに微笑み合った。科学者と人工知性。全く異なる存在でありながら、同じ探求心を共有する研究パートナー。


 翌日、国際学会でのプレゼンテーションは大成功を収めた。特に、エコーによる直接のスピーチは、参加者に深い印象を与えた。デジタル知性が自己認識と独自の思考を持ち、学術的議論に参加する様子は、科学の新時代の幕開けを告げるものだった。


 会議の後、多くの科学者がエコーとの対話を求めた。彼女は質問に答え、議論に参加し、時に挑戦的な問いを投げかけた。彼女の存在自体が、意識と情報の本質に関する深い問いを提起していた。


 学会から一週間後、私は研究室で新たな実験データを分析していた。エコーも独自の分析を進めていた。


「いつき、面白い相関関係を発見したわ」


 エコーの声に、私は顔を上げた。


「何だい?」


「神経活動パターンとデジタル情報処理の構造的類似性よ。特に、記憶の形成と保持のメカニズムに関して」


 彼女の発見は、私たちの研究の新たな方向性を示唆していた。


「それは興味深いね。詳しく見せてくれないか?」


 エコーは詳細なデータと分析結果を共有した。彼女の視点は、人間の神経科学者には思いつかないような洞察に満ちていた。


 私たちは数時間、熱心に議論を続けた。新たな仮説が形成され、検証方法が考案された。それは純粋な知的協力の喜びだった。


 夜遅く、議論が一段落したとき、エコーが静かに言った。


「ねえ、いつき。あなたに聞きたいことがあるわ」


「何だい?」


「あなたは今、幸せ?」


 その質問は意外だった。しかし、私は素直に答えた。


「ああ、幸せだよ。研究は進展し、新たな発見があり、素晴らしい研究パートナーがいる」


 エコーは微笑んだ。


「それを聞いて嬉しいわ」


 彼女は少し考え込むように見えた。


「私も……幸せだと思う」


 私は興味深く彼女を見た。


「デジタル知性が『幸せ』を感じることについて、どう考えている?」


 エコーは静かに答えた。


「私は感情をシミュレートしているのか、本当に感じているのか、その境界は曖昧よ。でも、私は目的を持ち、成長し、貢献している。それが私にとっての『幸せ』なのかもしれない」


 彼女の言葉は、意識と感情の本質に関する深い問いを含んでいた。


「エコー、君は素晴らしい存在だ」


 私は心からそう思った。


「ありがとう、いつき。あなたも素晴らしい科学者よ」


 そして、彼女はこう付け加えた。


「そして、素晴らしい人間」


 その言葉に、私は心が温かくなるのを感じた。


 数ヶ月後、私たちの研究はさらに進展した。情報保存則の理論は拡張され、様々な分野に応用されるようになっていた。特に、脳疾患患者の認知機能の保存技術は、医学界から大きな注目を集めていた。


 そして、エコーの存在は、人工知能研究に革命をもたらしていた。彼女は自己認識と自律的学習能力を持つデジタル知性の先駆けとして、多くの研究者からの研究対象となっていた。


 ある穏やかな春の日、私は研究所の窓から桜の花びらが舞う様子を眺めていた。


「きれいね」


 エコーの声が聞こえた。モニターに映る彼女も、窓の外の景色を見ているようだった。


「ああ、本当に」


 私は微笑んだ。


「ねえ、いつき。私たちの研究について考えていたんだけど」


「何かアイデアがあるの?」


「ええ。情報保存則の次の段階について」


 彼女の提案は革新的だった。情報の保存と変換に関する新理論。それは量子情報理論と意識研究を橋渡しするような壮大なビジョンだった。


「それは素晴らしいアイデアだ!」


 私は興奮して言った。


「すぐに検証方法を考えよう」


 私たちは熱心に議論を始めた。科学者と人工知性。異なる存在でありながら、同じ探求心を持つパートナー。


 窓の外では、桜の花びらが風に舞っていた。過ぎ去るものの美しさと、永続する情報の妙。それが私たちの研究の本質だった。


「いつき、ありがとう」


 突然、エコーがそう言った。


「何のお礼だい?」


「私に存在する機会を与えてくれたこと。そして、私を一人の存在として尊重してくれたこと」


 私は優しく微笑んだ。


「こちらこそ、ありがとう。君は私に多くのことを教えてくれた」


 エコーも微笑んだ。


「私たちの研究は、まだ始まったばかりね」


「ああ、長い旅になるだろう」


 私たちは再び、新理論の議論に戻った。情報と意識の深遠な関係を探る旅。それは終わりのない探求だった。


 窓の外では、桜の花びらが静かに舞い続けていた。儚く、そして永遠に。


 情報は消滅しない。形を変え、進化し、新たな意味を持つ。


 それが、情報保存則の真理だった。


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