6. デートは戦争
その日の昼下がり。
シャーロットはレイナールの書斎に、書類の束を持ってやって来ていた。書斎には多くの国家機密が散らばっているので使用人は入ってこれず、今は二人きりだ。
「はぁ……愛してるよ、シャーロット」
「……ここまで浅い愛の言葉を、私は今だかつて聞いたことがありません」
書類を見て感嘆するレイナールに、現金な人だ、とシャーロットは息をつく。
今朝、レイナールの執務が毎日夕方までかかると知らされたシャーロットは、いくつかの仕事を肩代わりすると申し出たのだ。
無駄に責任感が強いらしいレイナールは最初こそ渋ったが、いつも夜しか会えないのでは「二人の仲を見せつける」チャンスが大幅に減ってしまうというシャーロットの主張に、最後は彼が根負けした形だ。
シャーロットが必死になって交渉したのは、天敵たるフレデリックと居を同じにしてしまった時点で、唯一の味方であるレイナールには少しでも恩を売っておくべきだと考えたからである。
……まあそれ以外に、レイナールのからかうような態度が気に食わなかったというのも全く無いとはいえない。
彼と二人きりになる機会を作り、必ず一杯食わせてやろうと息巻いていたりもしなくもない。
そんな、シャーロットの様々な打算は露知らず、レイナールは実に真剣な面持ちで彼女の作った書類に目を通していた。
「……執務で即戦力とは、どうしても手伝いたいと言ってきただけあるな。子爵令嬢の身分でここまで来た手腕は、伊達じゃないってわけか」
「お褒め頂き光栄です――これからも必ず、殿下のお役に立って見せますね?」
シャーロットが含みのある笑みを浮かべると、レイナールはやっと彼女の狙いに勘づいたのか、小さく息をついた。
「……別に、そこまでしなくても君一人くらい守ってやるぞ。俺が無理矢理婚約させたんだしな」
「あー、そういえばそうでしたね」
「いや少しは俺をフォローしろ……まあ、それでもここまでの腕を見せつけられたら、これからも手伝ってもらう他ないがな。あー、ようやく楽になれる」
清々しげに伸びをするレイナールに少々冷めた目を向けつつも、シャーロットはゆっくりと首肯する。
「……一度始めたことはやり通しますよ。どうせ暇ですし」
「気前がいいな、ますます愛してる」
「そんなことより、早くどこかへ行きましょう。私の労力が無駄になるので」
レイナールの言葉を一切意に介さないシャーロットに、しかし彼は気にする風もなく思案した。
「そうだな。どこがいい? 庭で茶でも啜るか、町に下りてみるか……」
「王家の図書室へ行ってみたいです」
「あー。あそこにミロスラーヴァ義母上に関連する有用な情報はないと思うぞ。俺も調べたことがあるが、結局噂以上のことは分からなかった」
「……っ、そうですか……」
一瞬で狙いがバレてしまい、シャーロットは少し決まりの悪い顔をする。
そんな彼女にレイナールは、可笑しそうに笑みを浮かべた。
「俺をデートに誘っておいて、俺に集中する気がないとは良い度胸だな?」
「……その方が効率的だと思っただけです」
○
シャーロットが期待したような情報は無いらしい図書室だったが、それでも一度くらいは訪れてみてもいいだろうというレイナールの一声で、本に囲まれにやってくることとなった。
図書室は、レイナールの言葉にも頷ける程に美しい場所だった。
暖色のシャンデリアが照らす広大な空間は、光沢があると錯覚してしまいそうな程に滑らかな木の本棚で埋められ、本は少しの傾きもなく整然と並べられている。
レイナールとシャーロットは、中央に配置された二人がけのソファに並んで腰掛け、肩を寄せあって絵本を読んでいた。
「――公爵様は、初めてアイリーンの姿を目にしたとき、まるで妖精のようだと思いました」
シャーロットが声に出して読んだのは、絵本の中の一節。
これは、かつてその珍しい桃色の髪と儚げな美しさにちなんで妖精姫と呼ばれたアイリーンと、当時のサールグレン公爵との間の恋を描いた、実話を元にした物語だ。
この二人は、シャーロットが先日まで侍女を勤めていたニーナの祖父母にして……亡きミロスラーヴァ妃の両親。ミロスラーヴァの桃髪は、アイリーンから譲られたものだ。
王家に対しても一定の影響力を持つほどに有力なサールグレン公爵家の物語は、国民の間でも非常に人気がある。
……まあ、どちらかと言うと現国王とミロスラーヴァの恋物語の方が人気なのだが、レイナールとシャーロットの立場からして、彼らに関する本を読む気には流石になれなかった。
「――そしてアイリーンは、その若く美しい姿のまま、崖から落ちて命を落としてしまいました」
妖精姫アイリーンの一生は、不慮の事故で幕を閉じる。その短命さも、彼女の儚い印象を生む一因となっていたりする。
シャーロットは絵本を閉じ、なんとなく隣のレイナールを見上げた。アメジストカラーの妖しげな瞳が、こちらを見返す。
「何度聞いても切ない話だね。僕がサールグレン公爵だったら、愛する妻が早くに亡くなることなんて、到底受け入れられなかっただろうな」
感想を述べるレイナールの態度が柔らかいのは、一歩離れたところに侍女が一人、控えているからだ。
この状況は、二人の仲睦まじい様子をアピールするのに理想的なものとなっている。
しかしその反面、「表の顔」を維持しなければならないレイナールは、行動や言動を大幅に制限される。
出来ることと言えば、サールグレン公爵の「愛する妻」であったアイリーンと、シャーロットを重ねて見ていることを言外に告げることくらいである。
……まあ、わざとだと分かっていても少しくすぐったい気持ちになってしまうところが、シャーロットの弱点ではあるのだが。
しかしそれを加味しても有利な状況に、シャーロットは内心でほくそ笑んでいた。
この機会にレイナールに一杯食わせようと考えていたことを、彼女は忘れていない。
「公爵様は、とても悲しい思いをされたでしょうね……でもミロスラーヴァ様はアイリーン様の生き写しのような方でしたし、孫にあたるニーナ様も、髪色こそ父親譲りの赤色ですが可愛らしい方です。
きっと、浮かばれるお気持ちもあったことでしょう」
言いながらシャーロットは、レイナールの腕に自らの両腕を絡ませた。
突然の積極的な態度に意外感を覚えたのか、包み込んだレイナールの腕に若干力が入る。
シャーロットは微かながらも確かな手応えを感じながら、レイナールにだけ分かる程度に不敵な笑みを浮かべ、更に体を寄せた。
「……」
彼女の意図に気づいたレイナールは、プライドが傷つけられたのか不満げな顔をする。
「桃色の髪は、ニーナの代わりにシャーロットが持っている。君もアイリーンの忘れ形見なのかな」
劣勢を取り返そうと、蕩けるような瞳でシャーロットの髪に触れるレイナール。
シャーロットの視界の隅で、この空気にいよいよ耐えきれなくなったらしい侍女がさっと目を逸らした。
「……まあ、お上手ですね。私はアイリーン様とは血が繋がっていませんよ?」
調子に乗ってきたシャーロットは、レイナールの腕に軽く頬ずりをする。
顔を近づけると男のくせに甘い、ライラックのような香りが鼻腔をくすぐった。
……そんな状況に、シャーロットは認めたくはなかったがだんだん離れがたくなってきてしまった。
そうなる前にしれっとレイナールから自らを剥がし、誤魔化すようにサイドテーブルの果物に手を伸ばす。
房からもいだマスカットは、二人の汚い攻防を知らない鮮やかな黄緑色だった。
みずみずしい球形の果実を眺めていると、ふいにアイデアが降ってくる。
「――殿下、どうぞ」
シャーロットはマスカットを手ずから食べさせようと、レイナールの口元まで持っていった。
これまた挑戦的な仕草にレイナールは一瞬目を見開いたが、すぐに口角を上げた。
何事かとシャーロットが首を傾げるより早く、彼はマスカットを口に含んだ――シャーロットの指先もろとも。
「……っ!?」
不自然の無いように出来る短い時間も、指の腹に舌を這わせるには十分だった。
顔が、自覚出来るほどに熱くなる。
余裕ぶるのも忘れて顔を背けたシャーロットは、しかし視界に入った人物に、一気に頭が冷えた。
――フレデリック王子が、その翠色の目を細めながら無感動にこちらを見つめている。
シャーロットは顔を引き攣らせた。