43. 薄氷よりも脆い覚悟
部屋で本を読んでいたアンナは、数日ぶりの来訪者に顔を上げる。彼の甘やかな茶髪と紫眼は今日も、憎たらしいほどに美しい。
「あら、久しぶりじゃない。やっぱり私の儚げな横顔が忘れられなかったの?」
「ははっ、元気そうで何よりだよ」
アンナの軽口をいつもの紳士的な笑みで華麗に無視したヨエルは、無遠慮に彼女のベッドの上に座った。
「全然元気じゃないわよ。日がな一日ここに閉じ込められて、窮屈ったらないわ」
人質のくせして不満げなアンナに、ヨエルは悪びれもせず肩を竦める。
「それは悪かったね。でも、夜は外の空気を吸えてるんじゃないかな?」
「……ノーコメントよ」
こっそり情報収集を繰り返していることをあっさりと見抜かれていて、流石のアンナもやや気まずい顔になる。
勘が当たったと知ったヨエルは得意げな笑みを浮かべ、彼女の真横まで身を乗り出す。
「……何よ」
「いや、儚げな横顔とやらを拝んでおこうかと思ってね」
「はぁ……相変わらず気持ち悪いわね」
「えぇ、自分で言っておいてそれは酷くない?」
「あなたがそこまでの変態だと想定してないのよ……それで、何の用?」
「ん……」
ヨエルは一瞬遠くを見るような目をした後、にこりと笑った。
「今日はね、独り言を言いに来たんだよ」
「は、独り言? 迷惑だから今すぐ帰ってもらってもいいかしら?」
「まあまあ、そう言わずに聞いてよ」
図太くもベッドの上を動かずに彼は、少し声を下げて続けた。
「……実は昨夜、この城の周辺でちょっと派手めな騒動が起きたんだよね」
「……」
それくらいはアンナも耳に挟んでいるが……ヨエルはどうやら、秘密裏に何かを伝えたいらしい。
アンナは特に反応せず、静かに先を促した。
「理由までは分からないんだけど、その後フレデリック王子は何だか落ち込んでるみたいなんだよね。クロードさえも部屋に入れてないんだとか」
「そんなことを言われても……」
「フレデリック王子の部屋は、二階の廊下を右に回った、一番奥から三番目、だったような気がするなぁ」
「……っ!」
防衛上決して漏れてはならないはずの情報に、アンナは驚愕に目を見開く。
ヨエルはその反応に満足したらしく、緩く微笑んだ。
アンナにはその顔が、何故かレイナールのそれと被って見えた。
彼は兄のフレデリックをハメて一時的にナラネスラ王国へ追いやったとき、確かこんな顔をしていた。
無論あの時の彼は、今のヨエルのように笑ってはいなかった。
それでもやっぱり、同じ顔だと思った。
戦慄を覚えるアンナをよそに、ヨエルは口を開く。
「私は昔、シャーロットのお兄さんであるアレクセイ将軍に命を救われたことがあるんだ」
「……ええ、知っているわ」
「当然彼には多額の報奨金を渡そうとしたんだ。でも頑なに固辞されてしまってね。自分は国から仕事に見合った給料を貰っているから、それ以上はいらないんだと」
「それはまた、謙虚なことね」
「うーん……謙虚とは少し違うかな。私が助けてもらった見返りにお金を払うことで、それだけのお金を払えない一般市民は助けてもらえなくても仕方がない、みたいな風潮が出来てしまうのを嫌ったらしい」
「……え、かっこいい……」
思わず感心の息を漏らすと、ヨエルは自分ごとのように嬉しそうな顔をした。
「政治は人助けのためにあるけど……人助けに政治を絡めちゃだめだ」
強い意志を孕んで輝く紫色の双眸に、アンナははっと息を飲んだ。
「……あなたにもあるわよ」
「何が?」
「信念を貫き通す、覚悟ってやつ」
○
フレデリックの部屋にノックをかけると、覇気のない返事が返ってきた。
構わず扉を開け、部屋に入ってから後ろ手に閉める。
フレデリックは物憂げに顔を伏せ、机の上に置かれたガラスの破片のようなものを眺めていた。
アンナは扉に背を預けて腕を組み、何も言わずに彼の反応を待つ。
少しして、流石に来訪者の存在が気になったらしく顔を上げたフレデリックは、驚愕に目を見開いた。
「お、お前……! 何で急に……許可は取れてるのか!?」
「取れてる訳ないでしょ。バカは相変わらずね、フレディ」
「……っ、はぁ!?」
納得がいかないと眉を寄せるフレデリックに、アンナはくすくすと笑う。
「昨日は一晩中どんちゃん騒ぎだったそうじゃない。てっきり今頃は眠りこけてるんだと思ってたわ」
そんな軽口に、アンナが訪れてきた理由を察したフレデリックは憂鬱に目を伏せる。
「……心配してくれたなら、俺は大丈夫だ。このペンダントが俺のことを守ってくれた」
フレデリックが指差した先には、さっき彼が眺めていたガラスの破片のようなものがあった。
よく見るとそれは彼が肌身離さず身につけていた母親の形見の、桃色のペンダントだった。
バラバラに割れているところがその役目の完遂を物語っている。
フレデリックは顔をくしゃりと歪ませた。
「……でも、俺が母上にこれを持たせていれば、母上はまだ……」
話を聞いて、何が起きているのか薄らと見えてきたアンナは、しかし興味なさげに肩を竦めた。
「あのねぇ。私、あなたの辛気臭い話に付き合ってられるほど暇じゃないんだけど」
「え……」
混乱に目を瞬かせるフレデリックに、アンナはやれやれとため息をつく。
「さっきも言った通り、私はここに来る許可すら取ってないの。悠長に話なんかしてる場合じゃないのよ」
「……じゃあ、何をしに……」
アンナは顔によく馴染んだ艶っぽい笑みを浮かべると、フレデリックの座っている一人がけのソファに無理やり膝を乗せ、彼の上に覆い被さった。
彼の頬に片手を当て、反対側の耳に口を寄せる。
「――ずっと起きて、私を待っていてくれたのね?」
「……っ!?」
思い出されるのは、貴族の子女に伝わる慣習。
基本男性より早い時間に眠りにつく女性が部屋で遅くまで起きて待っているとき、それは淑女からの間接的な誘いなのだという。
ここでは男女が逆だが……アンナは今明らかに、その慣習が頭にある。
魅惑を極めた言葉に、フレデリックは息を詰めた。
母親を弔っている途中で後ろめたいのだろう、彼は翠色の瞳を揺らす。
その苦悩を直に見てアンナは、思わず笑みを浮かべた。
実は意外なことに、彼は今まで一度たりともアンナに手を出したことがない。
そこまでの興味がなかったというのも勿論あるのだろうが、アンナはそれが、クズなりのけじめだったということを理解していた。
自分の都合で婚約したのだからそれ以上は自分の都合で振り回さないようにしようという、側から見れば半端極まりないけじめを律儀にもつけて、フレデリックはこれまでアンナに触れようとはしてこなかった。
しかし、アンナは知っている。
――男がそういった類の決意をするとき、その覚悟は薄氷よりも脆いものなのだということを。
「……隣の部屋には、シャーロットらがいるんだぞ」
目を伏せて紡がれた言葉に、それが最後の食い下がりだと理解したアンナは薄く笑った。
「王宮の壁は厚いものよ」
唇を塞いだのは、フレデリックの方からだった。
○
――気づくとシャーロットは、リンデル王国の王宮にいた。
明るい広間の中を、小さな男の子が無邪気に駆け回っている。
やがて彼はシャーロットの存在に気がつくと、目を輝かせて体ごと抱きついてきた。
その柔らかな髪は優しい亜麻色で、元気な瞳は青い空の色だった。
微かな既視感に首を傾げていると、視界が唐突に真っ暗になった。
覚醒が進むにつれ、それが夢だったことにようやく気づく。
何となく名残惜しい気持ちで目を開くと、目の前で夢の中の男の子と同じ髪の色をした人が、穏やかな顔をしてシャーロットを見下ろしていた。
「……っ、殿下……」
「おはよう、シャーロット」
さっきの子と比較すればよほど大人びた笑みを浮かべる彼を見て、シャーロットは頬をじわじわと熱くなるのを感じた。
自分がいったい何の夢を見ていたのか、努めて言語化しないようにしながら目を泳がせていると、レイナールの手の中のものに気がついた。
「……勝手に抜かないでくださいよ」
彼が指先で遊んでいたのは、シャーロットがずっと身につけていたブルーサファイアの婚約指輪だった。
婚約パーティーに間に合うように作っただけの急造品だが、シャーロットなりに大事にしていたものだ。
「あー、すまない。次は何色がいいかと思ってな」
「次……?」
「そう、次」
そう言ってレイナールはシャーロットの左手を取り、指輪を元の場所に戻す。
窓が漏れ入る夕日が、ブルーサファイアの蒼をほんの一瞬、紫色に染め上げた。




