37. 貴族の務め
リンデル王国に帰るまで、残り一日を残すばかりとなった。
シャーロットはハロルドという当てが盛大に外れた後、仕方なく方針を切り替え、数日間ナラネスラ王国でのツテ作りに全力を注いできた。
他国の人間の後ろ盾があるに越したことはない。
そもそもフレデリックがレイナールをここに連れてくるのを嫌ったのも、即座に人脈を作られるのを恐れたからだ。
王道すぎて、お世辞にも強い手とは言えないが、まあやらないよりはマシだろう。
長い日を乗り越えてようやくネグリジェ姿になれたシャーロットは、部屋でほっと一息ついた。
話し疲れた喉を、淹れたてのホットココアで潤す。
紅茶も良いが、しっかり甘いものを飲みたくなる日もあるのだ。
それにしても一気にたくさんの人と会うと、顔が全然覚えられなくて困る。
名前だけならメモをしてあるから間違えることはないだろうが、名前と顔の一致が怪しい。
誰にも失礼のないように振る舞わなければならないのに、それ以前の、初歩的なところで躓いているようで少し気分が重くなる。
……自分にもレイナールみたいに、一目見ただけの人間の顔を完璧に描き出せるだけの記憶力があれば。
思わずそんなことを願ってしまう。
……まあ彼も、当のシャーロットとはほぼ毎日会っているにも関わらず、婚約して三ヶ月も経っていた婚約パーティーの日に「よくよく見たら美人」などと抜かしてくれた訳だが。
「……いや、違う……逆だ」
そこであることに気づいたシャーロットは、思わずそう独りごちた。
――レイナールが人の顔をしっかり記憶しているように感じたのは、ハロルドの絵を描いてくれたあの時だけだ。
今思えば彼は、なんなら少しその辺りに不得手な傾向がある。
まずハロルドについて、レイナールは初めて見る人かのように話していたが、ハロルド本人が言うには彼が子供の頃に何度か直接会話をしているらしい。
家庭教師の騒動の際にも顔を合わせたと言っていた。その時のレイナールは既に十歳だ。
そして彼がハロルドとフレデリックの密会現場を目撃したのは、十六歳のときのこと。
当時ハロルドは既に大人だったから、たった六年で顔はほとんど変わっていなかったはずである。
もちろん六年も前に会ったおじさんの顔など覚えていない人も多いだろうが、レイナールには十歳にして学問を極めたという実績がある。
ハロルドの存在だけ全く思い出せないというのは、流石に少し不自然だ。
――それにもう一つ。
あの婚約パーティーの前日にレイナール本人から見せてもらった、パーティーの参加者リストについて。
彼はわざわざ一つ一つの名前の前に記号をつけて参加者同士の人間関係を視覚化し、それをそのまま覚えるというやり方をしていた。
その時はマメなものだと感心するだけだったが、よくよく考えると、普通は感覚で覚えるようなことをわざわざ記号に変換する必要は無かったように思える。
……人間関係なんて、その人の顔を見たら思い出せるものではないのか。
彼は別に、空気が読めなかったり話が通じなかったりする訳ではない。
むしろ心を読まれているのではないかと錯覚するほどに、敏感に人の感情変化を察知できる人だ。
だからどちらかというと、その場は上手く回せるものの、それを別に細かく覚えている必要はないと無意識に判断すると、本当に忘れてしまっているような感じだ。
逆に必要だと判断したフレデリックの密談相手の顔は、その細部に至るまで精確に記憶していた。
何というか、人間と関わる必要はあると思っていながらも、人間というものに本質的な興味は抱いていないかのような。
……いや興味を抱いてしまえば逆に、例えば父親から、興味を抱かれていないことに気づいてしまうのだろうか。
だから無意識に、そんなふうに。
「はぁ……こんな時間にわざわざ嫌なことを考えなくてもいいか」
本当に、真夜中に一人で婚約者の行動分析なんかして、自分はいったい何がしたいのだろうか。
サイドテーブルにホットココアを置いてベッドに横向きに倒れ込み、枕を引き寄せて抱きしめる。
ベッドのシーツと枕カバーのひんやりとした触感が心地よくも、寒々しい。
……いやまあ、少なくとも自分が何を思っているのかは分かっている。
「……そろそろ、寂しいな」
他に誰もいない部屋で、素直な感情が微かに響いた。
湯浴みをする度に鏡で何となく確認してきた首筋の跡は、綺麗さっぱり消え去って久しい。
シャーロットのそれより少しだけ高い体温も、落ち着くライラックの香りも、宝石のように鮮やかな紫の瞳も、認めたくはないけれど恋しい。
そして、久しぶりに一人で寝てみて確信した。
シャーロットが深く寝入っている間、彼はいつも勝手にその身で彼女を包んで眠っていたのだ。
彼女を首周りに腕を通して肩を抱き、反対側の手でしばし彼女の髪を撫でてから、やがて腰のあたりに着地させていた。
至近距離からの微かな吐息が額をくすぐるその感触に、シャーロットは知らず知らずのうちに安心感を覚えていた。
……彼は、未来予知について教えてはくれなかったけれど。
少しくらい信用されていなくたって、別にいいじゃないか。
「……私の顔、忘れていたら承知しませんからね」
そう呟いてから再度上半身を起こし、ぐっと伸びをしてからココアを手に取る。
――もし忘れていたとしても、何度だって脳裏に刻み直してあげるだけだ。
自分の気持ちをしっかりと振り返れただけで、随分と前向きな気分になった。
ココアの甘ったるさが口に残ってしまったので、水を貰いに行こうと部屋を出る。
……するとそこで担架を運ぶ二人の男と、周りを警戒するもう二人の男とばっちり目が合った。
「……」
「「……」」
正直、夜中の宴にはハロルドの件だけでお腹いっぱいだ。
シャーロットは一瞬、一か八か何も気づかなかったフリをしようかと逡巡してしまった。それが運の尽きだった。
カプセル状の薬剤を口に放り込まれ、体を縄できつく縛られると、既に先客のいる担架に乱暴に乗せられる。
○
「――神の奇跡など、大地に縛られて生きる我々人間には過ぎたる力!」
「――自らを神と錯覚した、哀れなる同胞を慈悲深き女神に捧げん!」
「――身の程をわきまえ、下賤の民として、我らが女神に救済を求めん!」
シャーロットは閉じていた目を薄らと開き、状況を確認する。
先ほどのシャーロットを捕らえた四人の男が机に載せられた担架を囲み、何やら口々に叫んでいた。
薬は随分と強いもののようだが、どうにか歯と唇の間に挟んで飲み込まずにいたので、意識はずっと保てていた。
男たちが目を離した隙に吐き出しておいたので、これ異常蝕まれる心配はない。
これまで騒がずにいたのは、周囲に確実に助けてくれそうな人が現れるまで待っていたからだ。
むやみにうるさくしても、今度こそ永久に黙らされるだけだろうと考えた。
しかし明らかに拘束された人間が二人、一人用の担架に運ばれているという異様な状況だったにも関わらず、城の護衛は彼らを素通りさせた。
……王家もグル、ということだ。
そういう訳で行動を起こすタイミングを見失い、拘束されたまま男たちをただ眺めているのが今。
連れ込まれた場所は、王宮にほど近いところに並ぶ、倉庫のような建物のうちの一つだった。
男たちは「同胞を捧げる」などと言っているので、生贄の儀式のようなものをしているのだろうか。
そうだとしたら、殺されるのは担架の上の、白い布に覆われた先客だ。
いよいよその時が近づいているのか、男のうちの一人が布に手をかける。
――現れたのは、見慣れた長い金髪。
「……っ」
リンデル王国第一王子、フレデリック・リンドケルンだった。
シャーロットと同じ薬を飲まされたのか、意識はないようだ。
男たちが、自分の客室から出たシャーロットと鉢合わせるような経路で来たと言うことは、つまり隣の部屋のフレデリックに用があったということ。
予想は出来ていたが、いざその姿を見ると動揺が走る。
「神の奇跡」とは普通に考えれば癒しの力のことだが、彼らはフレデリックのことを「自らを神と錯覚した」と称している。
フレデリックが癒しの力を持っている可能性は……まあ、ないとは言い切れない。
彼の母親、ミロスラーヴァが実はアイリーンの不倫相手の子だったとすれば、ありえる話ではある。
だがそんな情報、彼らはどうやって得たというのだ。
それに、そんなことを言ったら今ここにいるシャーロットは、あのアレクセイの妹だ。
なのに男たちは彼女に一切の興味を示さず、邪魔だとばかりに部屋の隅に追いやっている。
状況が全く理解できないが、このままではフレデリックが生贄にされ、シャーロットも口封じに殺されることだけは確か。
シャーロットは覚悟を決め、大きく息を吸った。
「――待ってください!!!」
盛り上がっている男たちの耳に届くよう全力で声を張り上げると、期待通り彼らは振り向いてくれた。
「何だあんた、起きてたのか」
一人がやや興醒めな様子でそう呟く。
新しい薬を持って来られる前に、シャーロットは言葉を続けた。
「――私とて自国の王家に忠誠を誓った一端の貴族。目の前で殺される殿下を、黙って眺めている訳には参りません!」
「……あー、そりゃそうだよな。悪いとは思ってるさ。だがな、これは我々人類にとってどうしても必要な尊い犠牲なんだ。諦めてくれ」
「そうですか……では、あなた方にせめてもの慈悲がおありでしたら――」
シャーロットは意を決したように、固い声音で言い放つ。
「――どうか、私を先に殺してください」




