29. 出発前夜
唐突に隣国行きが決まった激動の一日も、夜になるといつもの静けさに満たされる。
シャーロットは侍女たちと就寝の挨拶を交わした後、ベッドの縁でほっと一息ついた。
いつもであればこのまますぐに布団に潜ってしまうところだが、出発前最後の晩となると、なんだかもったいないような気がしてくる。
たまには婚約者様が来るのを待ってみようかと、ここにきて初めて検討した。
「話すべきことはある……例えば感謝の言葉、とか」
日中気づいたことを思い出しながら、シャーロットはそう独りごちる。
実は、同じベッドを使うカップルで女性の方が先に眠っているのは、珍しくもなんともない。
なにせ夜更かしはお肌の大敵。
美しさを至上の価値とする貴族女性たちが、身体のコンディションの維持に手を抜くことはないので、殿方より先に夢の世界へ旅立つのは当然とすらいえる。
このような慣習があるため、侍女たちもシャーロットの湯浴みや着替えを早めの時間に設定してくれている。
シャーロットとしてもそれに異論はないので、侍女たちを少しでも早く解放してやるためにも、何も言わずに従ってきた。
……ただ、この慣習はそこで終わらない。
女性の方が先に寝るのが普通な中、女性は敢えてたまに起きて男性を待っていることで、健気さをアピールするのだ。
何ともお手軽なテクニックだが、これが単純が故によく効く。
シャーロットはこれまでその習わしを完全に無視し、一日欠かさず先に寝てきた。
が、元より契約結婚だ。
文句を言われる筋合いはないし、言われたことはない。はなから期待されてもいないだろう。
要するに、ここでレイナールを待てばシャーロットは、図らずもそのテクニックとやらを初めて使うことになるのだ。
「……やっぱり、辞めておこう……」
そう言ってシャーロットは、その案を自ら却下する。
自然なことだが、殿方を起きて待っているという行動は、ある行為への許可を意味してしまう……無論、単なる添い寝のお誘いではない。
流石にそこまでの勇気は出せないシャーロットは、意を決して立ち上がる。
彼に感謝を伝えたいならば、ここで延々と待たずとも、こちらから出向けば良いだけのことだ。
行動力だけが取り柄のシャーロットとしては、そちらの方が性に合っている。
既にネグリジェ姿になってしまっている点がやや痛いが、気が変わってしまわないうちに足を踏み出し、寝室の扉をそっと開けた。
○
「……あ、すみません。お楽しみ中でしたか?」
レイナールの書斎にやってきたシャーロットの目に真っ先に映ったのは、ローテーブルの上に置かれた二本のワインボトルだった。
婚約パーティーのときにはあまりお酒を好まない印象を受けたが、たまには豪勢に一杯いきたいときもあるのだろう。
彼はソファで一人、くつろいだ様子だった。
シャーロットの姿に一瞬意外そうな顔をしながらも、やがて首を振る。
「気にするな。そろそろ終わるつもりだった」
「そうですか、それなら良かったです」
「……それより、あんまりその服装でうろつくものじゃない」
「す、すみません……以降気をつけます」
「……別に、怒ってる訳じゃないんだけどな」
苦笑を浮かべる彼にシャーロットは首を傾げつつも、彼の隣に腰を下ろした。
彼の横顔は相も変わらず端正だったが、普段は人一倍白い肌が今はほんのりと赤く滲んでいる。
少し潤んだ瞳に浮かぶ表情は何故か物憂げだったが、それすらも彼の儚い容姿によく似合っていた。
思わず見惚れていたら、彼が先に口を開いた。
「こんな時間に珍しいな。眠れないのか? ……まあそりゃ今日の明日じゃ、流石に心の準備が出来ないか……悪いことをしたな」
「あ、いえ、そうではなくて……その、出発前に殿下に感謝を伝えておこうと思いまして」
「感謝……?」
シャーロットは体ごとレイナールの方に向き直ると、改まった口調で告げた。
「――ありがとうございました。私とアンナ様を守ってくださって」
「ん? あー……バレたか」
一瞬だけ困惑顔を浮かべたレイナールは、しかしすぐにシャーロットの意図に気付いたらしく、自嘲気味に笑った。
「……俺は誰も守れてないよ。アンナは結局生贄だし、君は敵である兄さんや得体の知れないクロードと旅をしなきゃならない」
「そんなこと……」
反論しようとしたところで、レイナールが残りのワインを注ごうとボトルに手を伸ばした。
彼の手つきが少しおぼつかないのを見て取ったシャーロットは、慌てて代わりにボトルを手に取り、彼のグラスに赤紫色の液体を注ぐ。
ほとんど空になったボトルをローテーブルの上に戻したところで、ふとそこにコルクが二つ転がっているのに気付いた。
「……ちょっと」
既にグラスを口に近づけていたレイナールの手を、咄嗟に抑える。
先日の婚約パーティーでソランジュ嬢に対して同じような試みをしたばかりなので、グラスの中身をこぼすようなヘマはしなかった。
「……飲みすぎでは?」
コルクは一度開けると二度目は使えなくなるので、それがここに二つあるということは、この二本のワインボトルはどちらもさっき初めて開けられたということになる。
そして今は、どちらのボトルも空っぽ。
「……」
レイナールはバツが悪そうに目を逸らした。
「お酒、そんなに強くないって仰ってましたよね?」
「……仰ってた」
「だいぶ酔ってますよね?」
「……酔ってないというと嘘になる」
そこまで聞くとシャーロットはふぅとため息をつき、ひとまずグラスをローテーブルの上に戻した。
一瞬の逡巡ののち、両手で彼の顔を挟んで無理やり目を合わせる。
「ん……っ?」
そんな突飛な行動に困惑を隠せないレイナールに、彼女は静かに問う。
「――あなたは、こんな無茶な方法でなんとか精神を安定させているだけの状態なのですか?」
突然の激しい追及に、レイナールは焦ったように目を見開いた。
「っ!? 違う! いや、確かにそういう傾向があったことは否定できないが、最近は改善してきているんだ、本当に!」
「……そういう傾向はあったんですね」
シャーロットは彼から放した手をソファの上に戻し、ぎゅっとこぶしを握った。
「……あなたが置かれてきた環境からして、無理もないことではあります……何とかしましょう、一刻も早く」
「……」
押し黙るレイナールの手に、自らの手のひらを重ねる。
「それまではなるべく、ご自身を大切になさってくださいね」
「……ああ、そうするよ」
「そういえば、最近改善してきている理由に心当たりはあるのですか? それが分かれば、ある程度対策も……あ、いえ、やっぱり大丈夫です」
言いながら、自分で気づいてしまった。
改善する理由なんて、自分の心のうちを話せる相手が出来たからに決まっている。
その相手とは無論、シャーロットのことだ。
無自覚に言わせようとしてしまった恥ずかしさに、頬が熱くなる。
そしてそんな彼女の心中を全て見透かしたらしいレイナールは、くすりと笑った。
「顔の色、俺とお揃いだな。もっとも君はシラフだが」
「……っ、もう! 馬鹿にしないでください、酔っ払いのくせに!」
「え? いや、おい! 待て! それは一気飲みするものじゃ――」
シャーロットが照れ隠しにつかみ取ったのは、先ほどのワイングラス。
勢いのまま、なみなみと注がれた紅い液体を一気に流し込んだ。
「……ぅあ、お酒って、苦いのですね……」
「まさか、初めてか?」
「……だってまだ、十八歳になって解禁されてから数か月しか……」
途端、視界がぐらりと揺れる。
「嘘だろ、ちょっと待ってろ。とりあえず水を……」
「ん……」
「……っ、あ~……」
心地よい酩酊感に思わず身を委ね上半身の制御を失ったところで、何やら温かいものに包まれた。
そのまま、意識が微睡みの向こうに消え去る。




