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2、「今夜はもう、終電は去ってしまったよ。」

 アポロ計画が完了してからおよそ50年の月日がたった。

 人類はまた、新たに月への挑戦状を掲げるようになっている。宇宙計画が進行するのはいつも、国際社会の二分化など、不穏な空気を漂わせているときであるように感じる。そこから私が読み取れるのは、人類は未だ、地上から抜け出すことはかなわないのだなということだけであった。


 何も私は、地上が嫌いというわけではない。ただ、少しだけ窮屈に感じるというだけである。もちろん、社会的な意味においてであるが。





 尿意を催し目を覚ますと、そこは見慣れた布団の中であった。半身を起こし、朝日の差し込むカーテンを見つめる。朝に弱い私の頭の中は、夢に出てきた不思議な世界で占められている。とても印象的な、不思議な夢だった。



                  ◇


 空は昼間で地上は夜中。

 私はそこにある住宅街の十字路で、電車が来るのを待っていた。


 アスファルトの地面に浮かぶ太陽は、頭上に広がる空を明るく照らしている。

 成程、だから今夜はこんなにも美しい月夜なのかと、夢の中で私は一人ごちる。(目を覚ました今考えてみると、空に月など浮かんではいなかったようにおもう。)


 暫くして、その十字路に一人のペンギンがやってくる。


「今夜はもう、終電は去ってしまったよ。」


 彼女はそう告げて、爛々と輝く太陽の中へと消えていった。

 私は彼女が去ってしまったことをひどく残念に思ったが、太陽の中に消えてしまったのであれば仕方ないとも思った。

 兎も角、これ以上待っても電車は現れない。彼女がそう言っていたのだから間違いない。


 わたしはそう思って、十字路を引き返す。振り返った先にある真っ白に輝く月に向かって歩みを進める。


                  ◇



 目が覚めるのには時間がかかったが、不思議な夢の内容を思い出す行為は、十分に頭を回転させるのには最適だった。

 正直なところ、昨晩どのようにして自宅へ帰宅したのかは定かではないのだが、枕元に散乱した三本の缶ビールと、三分の一程度の量が残されたバーボンの瓶、そして、先ほどから痛み出した頭の事を考えれば、少なくとも、記憶が定かでない理由だけははっきりとした。


 とにもかくにも、ひどく気持ちの悪い口の中を処理したくて仕方なかったので、扉に壁に立て続けにぶつかりながら洗面所へと向う。

 歯ブラシを手に取り、残りが少なく平らになった歯磨き粉を振り回し、残りカスをブラシへと何とかこびりつけたところで、自身の尿意が限界にあることを思い出す。

 仕方なくブラシをイソジンのコップへと立てかけ、ふらつきながらも便所へ移動する。その間、ズキンズキンと容赦なくこめかみと目の奥を突き刺す頭痛は、記憶のない行為を責めるように私を苦しめ続けていた。


 決壊寸前であった尿意から正当な方法で解放され、歯磨きを含めた洗面作業をすべて終えた私は、澄み切った口内を一瞬で汚染すべく、朝の一服の準備を行う。

 コーヒーを淹れ、スマートフォンをポケットへ突っ込む。セブンスターボックスを一本咥え、コーヒーを片手にベランダへ出る。

 室外機の横にある小さな丸椅子に腰を掛け、片手に持ったコーヒーを室外機の上へと置く。

 長年掃除を怠っていた室外機だが、普段コーヒーを置く場所だけは埃がたまっていない。かわりに、カップの底の形に茶色い跡がついていて、それが何層にも重なって、ミステリーサークルのような模様を描いていた。


 咥えた煙草を少し吸い込みながらコンビニライターで火をつける。火が付き、用無しとなったライターをコーヒーの横へ置き、片手をポケットへと突っ込んでスマートフォンを取り出し、たまっているメールをチェックする。


 急ぎらしいメールの件数のみを数え、専用のメールボックスへと移すと、個人間でのやり取りに使用するSNSの確認へと移る。

 件数は、企業広告等のものを含め、15件。そのうち、知り合いからの連絡は、8件であった。

 ほとんどが他愛のない内容であったが、昨日関係を断った元恋人からの不在着信が入っていたことに驚く。

 相手が相手であるため、開くかどうか迷いもあったが、振った相手に電話をするなど緊急性がなければしないだろう。

 恐る恐る中を確認すると、見覚えのないやり取りが続いている。しかもどうやら、先に連絡を入れたのは私のようだった。


 最後は、私からの返信がないことを心配した彼女の着信で終わっている。

 昨夜、連絡をした記憶すら曖昧であったため、一度やり取りを確認する必要があった。


『線路の中に月が浮かんでいた。』


『なにそれ?』


『そのままの意味だよ。俺も混乱してる。』


『水たまりにでも映ってたのを見間違えたんじゃない?』


『絶対に違うと思う。本当に線路の中に浮かんでたんだ。言葉通りに。』

『サイズとかはそりゃあ、実物とは比べものにならないけれど。』


『電車の中から見たの?』


『いや、ホームにいた時だよ。』


『他の人は気づいてた?』


『いや、周りの人は気づいていないようだった。そもそも人も少なかったし。』


『もし、今日の事で思い詰めているのならごめんなさい。』

『こんな立場でいうのはどうかと思うけど変な気だけは起こさないでほしいの。』


『違うんだ。そんなんじゃない。絶対にそこにあったんだ。』

『信じてくれ。』


『わかった。とりあえず、無事に帰れたら連絡して。』

『大丈夫?帰れた?』

『心配だから返信して。』

『不在着信』



 伝えたいことが少しも伝わっていないことだけは伝わってくるやり取りであったが、確かにこのようなことを送った記憶はある。

 そして、恐らく伝えたいことが伝わらないもどかしさと、彼女との別れによって生まれた虚しさとが相乗効果を成し、酒の力に頼ったといった所であろうか。つくづく女々しい私であった。


 そしてまた、そんな女々しい私の奇抜なメッセージに対しても返答をくれる彼女の優しさに、改めて失ってしまったものの大きさを思い知らされた。


 それはともかくとして、どうにもその月というのを思い出せない。

 確かに送った記憶はある。そして、その時の自分が、落ち込み切っていたとはいえ、正気までは失ってはいなかったことも覚えている。


 この時の事で覚えていないのは、見たものの事だけだ。


 一体私は何を見たのだろうか。きっと彼女はそれに対する説明も待っていることだろうが、何分私はそれに対する回答を持っていない。本当に人騒がせなことであるが、記憶がないのでは、どうしようもないのである。


 取り敢えず、彼女には無事に帰宅したというとこと、返信ができなかったことへの謝罪とその理由を説明する必要がある。


気づけばフィルターすれすれまで燃えてしまっていた煙草の吸殻を、地面に置いた灰皿でもみ消し、コーヒーカップと共にベランダを後にした。

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