1、「今夜私は、地面の中に月を見る」
先程まで恋人であった女性の家路に付き添い、彼女を見送った後、一人で辿る帰路ほど切なく、虚しいものはない。
自身の中に収められていたはずの重要な器官が、気づかないうちに零れ落ち、何を無くしたかもわからないまま、空白となったその部位は、ぽっかりと空いた穴となる。
その穴を生暖かい夜風が、撫でる様に通り抜けていく。
そのような、とらえようのない虚しさを埋めるため、イヤホンを耳にはめて、陽気な音楽を垂れ流しつつ、曲とはまるで対局な、鬱々とした物語を読み進める。
この行動に何か意味があるとは思わない。
事実、それらの行動が、現実に何かを与えてくれるわけではない。ただ、何かで頭を埋めつくしてしまいたい。その空白の、その穴の存在を一時的にでもよいから忘れさせてくれる何かが欲しいのだ。
言い換えるのなら、この行為は、その穴を埋めることを目的としているのではなく、その穴の存在を忘れられる何かを得るための作業と言える。
人の心というものは、後から何かを追加することは容易であるというのに、何かが抜け落ちてしまった場所を、別の何かで埋め直すという行為は、非常に難しい。むしろ、不可能と言っても過言ではないだろう。
きっと、それらは複数のパズルのようなもので構成されていて、盤面の崩壊したパズルのピースを、別のパズルのピースで代替することができないように、私という現象を構成する内心的器官もまた、絶対的に代替不可能なものなのだろう。
つまり、崩壊した盤面は、その歪な形状を維持したまま、ずっと私の中に残り続けるのだ。だからこそ、私はその虚しさを埋める何かを求めるのではなく、忘れることのできる新しい盤面を探すのである。
今夜もまた、そんな虚しさを感じながら、最寄りの駅へと向かう下り電車を待つ。人は、そういった寂しさの中では、非常に無防備になるように思う。身体的にも、意識的にも。
普段では目を向けない様な場所へと目線は動き回り、意識もまた、普段は気づきもしない様な事に気づくようになる。
これはもちろん、互いに共鳴しあった、いわば身体と内心の相互作用によって成り立っているわけだが、どちらが先で、どちらがそれに従っているのかということについては、結論は出せていない。
どちらにせよ、こういった行動も、その穴を忘れさせてくれる何かを、外へ求める作業の一環であると捉えることができるだろう。
それは考えようによっては、普段無意識に目を背けている場所へ、自ら視野を広げる行為であると捉えることもできる。
錯覚を利用したトロンプ・ルイユ。多角的な物事へのアプローチ。
視覚的、意識的、どちらの意味であってもトリックアート的変化を為す。見え方の違いというものは人間社会においても多種多様に存在する。それらはどれも、認識というものの可能性を広げたいと願う、一種の執念が生み出す現象だ。
今見ているものに対して十分に満足している者が、物事をそれほど熱心に見つめ続けるとは思えない。むしろ、変化を望まない者達は、決して視点を変えず、一点からしかその作品を覗くことはないだろう。
物事の持っている複数の面を見つけるのはいつだって、心のどこかで、新たな視点を探している者だけなのである。
詰まる所、今夜の私もまた、今見えているものに対して何らかの不満を持っており、世界の新たな一面を覗きたいと願っていたのだ。そしてその願いが生み出すものを、世間では無防備な状態という。
しかし、そういった無防備さこそが、世界の新たな側面へと我々を誘導する。
認識への不満という入場券を片手に、身体的であり意識的な視線を歩ませて入り口を探す。
私は今夜、無意識にかけられていたヴェールを剥がし、隠されているものを暴く権利を得たのだ。
だからこそ、今夜私は、地面の中に月を見る。




