第十三週:履と小さな愚か者(木曜日)
「老人と約して遅れるとは何事だ!」
三日後の早朝、件の緑人は、フェイに会うなりそう怒鳴った。
夜明けに合わせ土橋へ向かったフェイよりも早く、彼がそこに着いていたからである。
「帰れ、帰れ、帰れ」と、手にした白杖をこちらに振りつつ老人は言うと、「まったくここは小間使いさえ質が落ちた」と、そのまままた山を飛び降りて行った。
ふたたびフェイは驚き呆れ、山を降りて行く老人を見送っていたのだが、今度はその途上で老人は振り返り、「三日のち、また朝早く会おう」と、そのまままた消えてしまった。
更に三日後の早朝、フェイはアジエ (注1)の鳴く時刻に土橋へと赴いたが、またしても老人が先に来ていた。
「なんぞ使えんガキじゃのう」と、老人は怒って言い、「お前に教えることはない。帰れ」と白杖を振り回したが、今度は去り際に「三日のち、もう一度朝早く会おう」そう加えた。
更に三日後、フェイは夜中のうちに宿房を抜け出し土橋へと向かった。
しばらくすると老人が来て、「こうでなくてはいかん」と言って笑った。
それから老人はフェイを、彼が崩したウラムの木まで連れて行くと、「筋はよいがな、小僧」と、続けた。「これでは勝てんよ」
このとき老人は敢えて、“何に”或いは“誰に”勝てぬのかを言い落したのだが、その代わりに彼は「よければワシが、手ほどきをしてやろう」と、クルリ。と舞いつつ笑った。
これが、四二〇七年の春のことで、十日に一度のヴァイの指導と同じ日の早朝であった。
「急所を狙うな」とは、フェイの肩に乗った老人が最初に伝えた言葉である。「どんなに冷静であっても、そこには僅か以上の殺気が乗る。それがお主の切っ先を鈍らせとるのだ」
老人は名を“與田”と言い、東に向かうためここで友人を待っているとのことであった。
「およそ礼は簡略に始り文飾成就、人を慶ばせて終わる。礼を完全に整わせれば情・文ともに尽き、情・文ともに勝つ。そうして再び情へと戻り、太一に帰する。――分かるか?」
この頃のフェイに老人の言葉は何ひとつとして分からなかったが、それでも彼は貪欲に――二人の師に仕えてでも貪欲に――“ちから”を欲しがっていた。
*
「うん。よく修行しているようだな、気の淀みや滞りが減っている」
夏が始まる頃、洞窟のヴァイが言った。この夜の彼は彼で、なにやら愉しそうであった。
「ワシの技にも新たな進展があった。まだ見せることは出来ぬが、完成したらお前に見せてやろう」
彼を知る者、特に彼をここに繋ぎ止めている者が聞けば耳を疑ったであろうが、こう言ってしまった彼のこころには、ただただ、その技――これは後に『臥鳳 (伏した朱鳥)』と名付けられることになるが――を、“弟子”に見せたいと云う気持ちだけがあった。
*
崩れていたウラムの木にも白い花が咲き、スザンの山にも幾度目かの秋が訪れた。
「それではワシはもう行くがな、決して鍛錬を怠るではないぞ」と、旅装姿となった與田老人は言った。
「お主は筋もよく素直だが……」が、ここで彼は言葉を切ると、少しく考えるふりをしてから、「いや、とにかく鍛錬と修養を怠るな」とだけ続けた。「縁があったらまた会えるじゃろう」
坂の下では騎士だろうか? こちらも旅装姿の男性が老人を待っている。
「礼によって天地は調い、日月は明らかになる。四時は序を守り、星辰運行、河川は流れ、万物は栄える――よいか、小僧。礼によって好悪は節制され、喜怒も礼によって整えられる。怒りを抱くなとは言わん。じゃが、それに掴まらぬようにな」
そう言って老人は笑い、旅へと戻って行った。
同じ日、ヴァイの『臥鳳』も完成した。
(続く)
(注1)
西銀河北西域で広く飼育される家禽のひとつで、我々の分類ではキジ科に属する鳥類になる。雄は独特の甲高い声を上げて鳴き、特に夏などの暑い時分には夜明け前から大きな声で鳴き刻を告げてくれる。